ぼんやり日記

祈りの痕跡

絵を描くこと。
二十歳前後の僕にとって、
それは祈りだった。
何に対しての祈りだったのだろう。
大学の大きな部屋。
でっかいイーゼルを立てて、
80号の絵を描いた。
授業の課題だったその絵に行き詰まると、
外の手すりにもたれ、
煙草の煙を夕空に吐き出しながら、
何か分からないものに祈る気持ちで、
次の一筆への活力を待っていた。
インスピレーションという言葉を、
当時の僕は好んでいたが、
今にして思えば、
それは単なる甘えでしかなく、
つまりは、自分の創作意欲に対する責任を、
自分の外に投げ出すような姿勢であった。
まあ、それが若さというもの。
でも、こんな年齢でそれやっちゃあ、粋ではない。
インスピレーションは、待つものではない。
それは、待ってたって現れない。
インスピレーションは受け手に多くを委ねている。
もっと言うなら、
インスピレーションは受けるものではなく、
与えるものなのかもしれない。
つまり、他人と共有するべきものなのかもしれない。

僕が持ってしまったドロドロしたものを、
ドロドロしたままに、心の奥にある地下室に鍵をかけて厳重保管。死んだらそれごと火葬してもらうのが、あるべき姿かもしれないが、
そのドロドロを、他人に伝わるような方法に調理して、この世の中に物体として残す事を願うのも、
またあるべき様なんだと思う。
その時に改めて立ち上がる言葉が、つまりはインスピレーションなのです。インスピレーションは、得るものであり、与えるものでもある。
それに気づいた時、何か痕跡を残したくなる。



| | コメント (0)

クロッキーの休日 3



| | コメント (0)

クロッキーの休日 2






| | コメント (0)

クロッキーの休日






| | コメント (0)

地下へ向かう螺旋階段につながる扉を探す

最近思うのは、
僕自身の中に、産まれてからこれまでの人生の過程で
生きられなかった自分というのが、心の奥の狭い部屋で膝を抱えて一人寂しく座っているのではないかということ。
前の記事で書いた、幼い自分もある意味そんな自己の一部分かもしれない。
社会で生きるというのは、大人になるというのは、
そういった裏切りを、自分に対して知らず知らずにやっていく側面がある。
そんな気がしてきている。
心は、そんな今の僕に
そっと働きかけてくる。
物事が全くもって上手く回らなくなってしまう時には、
不思議なことなんだけれど、
その深い所に閉じ込められている僕のある側面が、
ひょんな弾みで顔を出して、
何かヒントを与えてくれるものかもしれない。
だから、毎日が生きにくいと感じたり、
歩くために足を持ち上げるのすら難儀になるような時は、
自分自身に降りてゆくしかないのだと、
だんだん気づくようになってきた。

若い時分なら、全てを投げ打って引きこもる事だってできるけど、これ程に植物のつるが絡まったように、社会と親密になってしまった自己を抱えてしまうと、外界と上手く折り合いをつけながら、自分を掘ってゆくような、曲芸じみた事が必要になる。
これは、イチニチフツカでどうにかなるなんてもんじゃなく、
何カ月どころか、何年もかかるかもしれないし、死ぬまでに終わらない可能性すらあるけれど、
多分僕は、もうごまかせない所にいるから、
その自分の奥に降りてゆく螺旋階段へ通じる扉を、探す必要があるのだろうと思う。

| | コメント (0)

たとえば砂漠の真ん中で、子どもの頃の自分と再会したとしよう

本当に物心ついた頃から、
僕は絵ばかり描いていた。
そうである事が、
まるで当たり前の事実であるかのように。

紙とボールペン。

母親曰く、
幼い僕には、それさえあれば一人で黙々と遊んでいたとの事。
筆圧が弱かったものだから、
鉛筆ではなくて、
ボールペンが良かったのだろう。

僕はそのボールペンで両親を描き、
祖父や祖母を描いた。
動物園に行けば、お菓子の箱の裏にペンギンを描いた。
目に映るものを紙に留める事に夢中だった。
上手くいかないと癇癪を起こし、
泣きじゃくった。

保育園に通うようになっても、
僕はテレビに映るアニメヒーローに夢中になりながら、
紙にそのヒーローを、何枚も何枚も描いた。
テレビの動く映像を見ながら、紙に写し取ったり、
目の奥に焼き付けてから、後で描いたりもした。
僕は、多分今でもガンダム(世にファーストガンダムと呼ばれているロボット)を何も見ずに紙に描く事ができる。

幼い僕は、紙に描く事では飽き足らず、いつしか落書き帳に展開図をかいて、ロボットアニメのヒーローを立体で再現する事に夢中になる。紙とボールペン、それからハサミとセロテープ。

出来上がった作品は、大抵テレビの上に自分で飾った。
その力作を母もきっと自分同様に気に入ってくれるに違いないと、僕は確信していた。幼児とはそういうものである。実際家族はインテリアの邪魔にしかならない紙屑を、僕のようには愛してはくれなかったが、本当にありがたい事に、否定されることはなかった。

それが僕の3歳から5歳までの記憶であり、
それは、多分僕自身の原初的な記憶。

こないだの香嵐渓みたいに、
今でもたまに絵を描く事があるけれど、
そんな時、自分でない誰かが勝手に動き出して描いているような気分になったりする。
それってもしかして、大人になる過程で、心の奥深くにしまわれる事になった、僕なのかもしれないなあと、
ふと思った。

あの幼い僕も、
ちゃんと大事にしなくちゃなあと、
そうは思いながら、
毎日は忙しい。




| | コメント (0)

まとめないサイト

眠れない夜
風が窓を叩き
手招きして
誘い水を撒く
眠れない夜


なんて泉谷しげるの、
古い歌の歌詞を紐解いて、

つまり今夜
意味なく眠れないのです。


世の中には、生まれつき
生きやすい人と、
生きにくい人がいる。

そんなことは、
それこそ幼児期から
知っていましたが、

こんなふうに、日常的に
特に目立ったきっかけもなく、
眠れなくなる人間は、
改めて考えてみるに、
明らかに生きにくい部類の人なのでしょう。

そんな訳で僕自身は、
物心ついた時から、
生きにくい人間の王道を歩いてきたような変態だから、
よくこの歳まで生きてこれたと思いますし、
この不器用な感受性こそが、
日々生きにくくする諸悪の根源だと
分かってはいるけれど、
薬をたらふく飲んで麻痺させたならば、
それで一件落着かといえば、まあ、仮にそうだとしても、それは僕の人生ではないでしょうね。

じゃあ生まれつきの剥き出しの、過敏性を保ちながら、
キンチョールくらったゴキブリみたいに
イタイイタイなんて言いながら、
クルクルと床上のたうちまわり、無様な姿をさらし、
あの冷ややかな軽蔑の眼差しとともに、多くの人々を引き潮のごとく失望させながら、
これまでも、
そしてこれからも生きてゆくことが、
果たして一個の生として、
求める人生の在り方なのだろうかと考える時、

ただポーッと虚空を眺めるしかないのは、
それはそれとして
僕らしい在り方であり、
同時にたまらなく虚しくもあるのです。


人類は集団生活をする事によって、
その種を維持してきた歴史があります。
社会性こそが、人類の存在意義かもしれない。
同時にそれは
否応なく、個人は所属する集団や時代に影響を受けるという事をも意味します。
パズルピースとしての自己。

それは空気や土のように、
意識できないような、
心の奥深い場所に繋がるような、
そんな深さで、個人の心に影響を与えているのかもしれません。


いきなりですが、
隙間について書いてみたいと思います。

隙間というのは、
人を不安にさせる要素があると僕は思います。
ここで言う隙間というのは、
例えばこんなイメージ



山奥のキャンプ場、
夜は照明を消す。

ふと夜中に目が覚め、
テントの外に出る。

そこには満天の星空。

よくよく眺めると、
実は星が明るいのではなく、
星と星の間が暗いのだということが分かってくる。
闇の暗さによって、星が明るく見える。
それがつまり隙間なのです。

隙間を埋める方向に向かう事自体は、
人間の性として
あっていいとは思う。
しょうがないと思う。

でも最近思うのは、
この隙間を本当にすべて
完璧に埋め立ててしまったら、
きっと人類は滅びてしまうんだという、
ここで言う意味の隙間と、
根源的な人の性との鍔迫り合いにより、
実のところ、
人類は存続しているのかもしれない。

何を偉そうに。
自分の感情すら御する事ができないくせにね。

| | コメント (0)

Aos Pés da Santa Cruz



Aos Pés da Santa Cruz
十字架のもとで

昔からこの曲が好きで、
これまで何らかの機会に、それこそ何度も
色々な風景のバックに流してきたのだけれど、
今回、またブームがやってきた様子。
車の中で飽きる事なくリピートしています。

オルランドシルバの古いサンバカンソンのバージョンだったり、
若きジョアンジルベルトの爽やかなバージョンだったり。
ぼやーっと疲れた夏の夕焼けを眺めながら聴くには、うってつけの曲。
その気だるさの美しいことったら!


歌詞もいい。

君は振りをしていただけで
僕をだましたんだね
嘘をついて
神の前で罪を犯した
心には自由がある
自分の理性すらわからないもの
君は誓いを立てては忘れてしまう
同じように
今回も
約束して
永遠の愛を誓い
そのあとで 
忘れてしまうさ


そして歌の後
ジョアンは、口笛を吹く。
それは風に舞って、
高い空に吸い込まれそうなくらいに、
はかなく、そして哀しい音色。

| | コメント (0)

真っ黒い穴

明日は大学オケの同窓会の演奏会です。

個人的には、これで一区切りにしたいと思います。
オーケストラで弾く事は、当分ないでしょう。

なぜだか分からないのですが、
もう昔のように楽しめないのです。

無論、集団で生み出す音の流れを感じて、サーフィンすることは楽しい。
別に全く弾けないわけでもない。
でも何処か虚しいのです。

これといった理由は思いあたりません。

ただ真っ黒い穴が、いつも傍にぽっかりと空いていて、
どんなに僕が盛り上がっていても、
その穴はずっとそこに在り続けているような感覚。

オケで弾いていようが、仕事してようが、誰かと談笑してようが、
穴はいつも、そこにぽっかりと空いていて、
それが時にたまらなく無気力にさせる。

この穴、ブラックホールなんでしょうか?


愛知教育大学管弦楽団同窓会第13回演奏会

日時:2017年8月19日(土) 13:30
場所:パティオ池鯉鮒(知立市文化会館)
曲目:
マーラー 交響曲第1番「巨人」ニ長調
モーツァルト ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191(186e)
リヒャルト・シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」組曲

指揮:米津 俊広
ファゴット独奏:新山王 政和


とんだ紹介ですね。
自己中にも程がある(笑)

演奏会自体はすばらしいんです。
みんな仕事やら何やかやの合間に練習頑張って、
本当に素晴らしい。
何にも問題ない。





| | コメント (0)

ほどよくしがみつく強さ

例えば、あなたを信用しているなんて事前に断わってから物言う人は、
その人から見た僕を勝手に信用しているに過ぎない。

その人の見た僕というのが、僕の知ってる僕自身と同じならまだしも、そもそも完璧に同じである訳がない。
イメージの歩み寄りは、勿論意義あるとは認めるけども。

むやみやたらと信用するとか、
信頼しているとか言われると、
何か相手の敷いたレールの上で立ち居振舞わなければならないような重さを感じてしまう。

勿論そんな事考えなくたって、
自然に上手く生きられる人も沢山いるし、
それが多数派なのかもしれないけれど。

でも、やっぱりだめ。
僕は無理無理。
相手の信用だとか信頼に、
妙な押し付けがましさを感じてしまう。

それに乗っかったら最後、
止めどない腹の探り合いの連鎖。



ところで今、僕は家で焼酎の水割りを飲みながら、
テレビで愛らしい猫たちが戯れる映像を観ている。
猫は人間よりも自由奔放だ。
勿論駆け引きはしているけれど、
そこに後ろめたさのかけらもないのがいい。


思春期の終わりに得た教訓がある。


「しがみつかない。」



しがみつくのは、
人が人であるところの、
根本的な業のようなもの。

若いある時期、
僕はどっぷりとしがみついて生きていた。

人は元来孤独だ。
幼な子は親にしがみついてその孤独を忘れようとする。
成長するにしたがって、しがみつく対象は変化する。
物である場合もあれば、
人である場合もある。恋愛とかもそうだと思う。

社会的な地位である場合もある。
そこまでいかないにしろ、
対象は単に仲間と呼ばれる集団である場合もある。
忠誠を誓うとか言いながら、
単にしがみついているだけだったりする。

しがみつくこと自体は、
別に特別な事じゃない。
悪い事でもない。
ただ大事なのは、
しがみつく事で自分を亡くしてしまうのは、
危険だし、避ける方がいいという事。









| | コメント (0)

より以前の記事一覧