ぼんやり日記

わかりますか?

頑張らない。
無理をしない。
言うは易しで、現実はかなり難しい。

自分の事は、
自身が一番わかる筈だという思い込みは、
いつしか、もろくも崩れ去り、
ストレスの負荷を自身で把握できなくなっているのが現状です。

以前は何の苦もなく耐えられた事が、
もう、自分の頑張りでは、
どうにもできなくなりつつある。

心のコップには、
いつもなみなみと水が注がれていて、
少しの負荷で溢れ出てしまう。

一般的に
人混みで過ごす様々な刺激に対し、
人は無意識の内にフィルターをかけており、
自分が壊れないように守っているのだと思いますが、
僕の場合、疲れているせいか、
それが上手くいきません。
こういった類の話は、
人にはなかなか伝わらない。
それがまた、僕を落ち込ませます。

視覚的な刺激
聴覚的な刺激。
それらに対処していく気力が尽きてしまい、
空間全体が重くなる。
歩くために足を持ち上げるのも大変になるのです。

そこまでいくと、それを乗り越えるだけの気力すらない。
多分そこに至る過程で使い切ってしまって、
電池の切れかけた鳩時計みたいになっているのです。
肩はこわばり、頭痛と動悸がしてくる。
顎に力が入られず、
とりあえず目の前の事を処理するので精一杯。


今の僕には、
そんなふうになってしまう前に、
それを見越して対策を施す事が、
生きていくために、
必要なんだと思います。

昔はこんなんじゃなかったんですが、
しょうがないですね。

先日あるCDをネットで買いました。
中古で2千円ちょっと。
MFQ(モダンフォークカルテット)のムーンライトセレナーデという、1980年代のアルバム。
MFQは、ハワイ出身のベテランコーラスグループ。フォーフレッシュメンみたいなジャンルの人たちです。
夏に聴くには最高なアルバム。
この音との出会いは、もう二十年以上前のこと。
中学時代に手に入れた、ポニーキャニオンのリゾートサウンドドリームという、販促用のサンプラーCDに入っていたのです。
当時母が街の小さな楽器店で、CDの仕入れ担当をしていたので、例えばCBSSONYのサンプラーとか、よく持って帰ってきてくれました。
ミルトンナシメントという人を知ったのも、例のリゾートサウンドドリームでしたし、ジョビンのWAVEも、このCDで初めて聴いたのでした。
何年も経って、僕はこのMFQのアルバムを購入することにした。
その点ではポニーキャニオンの戦略は、
見事に達成されたのかもしれません。
まあ20年以上後では、
遅すぎもいいとこですが。

こういった類の音楽は、
何気ない風景をバックに、何気なく聴くのが一番いい。
というのが、僕の経験上何となく学んだ事でしたから、
今回も例のごとく、
真夏の東海道新幹線の車窓の風景を眺めながら、
愛用のSONYのWALKMANで、
付属のノイズキャンセリングイヤホン経由で浴びることにしました。

ルックフォーザシルバーライニングという、ジャズのスタンダードナンバーがあります。
名演かどうかは別として、
チェットベイカーの1950年代の歌で有名な
あの古い歌です。
あれを1985年にMFQが歌っている。

車窓の風景を眺めながら、
それを聴く。

Look for the silver lining
Whenever a cloud appears in the blue
Remember, somewhere the sun is shining
And so the right thing to do is make it shine for you

A heart full of joy and gladness
Will always banish sadness and strife
So always look for the silver lining
And try to find the sunny side of life

A heart full of joy and gladness
Will always banish sadness and strife
So always look for the silver lining
And try to find the sunny side of life

ふと空を見上げたら、
山の間に入道雲。
雲の周りに白い光の筋。

ああ、今はこんな日々だけれど、
ちゃんと前を見て生きて行かないといけない。

そう思ったら、
途端に涙が出てきました。

三列シートの一番窓際でしたから、
顔をそむければ、他には気付かれない。
そっと左を向くしかない。

別に涙を誘うような曲調でも、アレンジでもないんですよ。
でも駄目でした。
やっぱり疲れてるんでしょうね。

新幹線は走り続ける。

何が原因とか、誰が悪いとか、
多分そんな話ではなくて、
僕の人生上の課題なんだと思います。
生きるということは、そういうことなのだと、
僕はそれこそ幼い頃から、
薄々感じていた筈でした。

人一倍感受性の高い人間は、
その感じやすさによって、
どうでもいいような出来事によって自らを傷つけ、
ふらふらになって生きるしかないのです。
繊細さは不器用さを生み出す足かせのようなもの。

でも、僕から感受性を無くしたら
果たして何が残るのかと考えたら、
やはり、これを抱えて
やっていくしかないと思うのです。

わかりますか?
わかんないよね。

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無題



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マンハッタンとアルコール



木曜の夜だというのに、
うっかり酒に手を出してしまい、
自分の二十歳の頃のことを、思い出しながら
つい日付をまたいでしまった。
これは、あまり良いことではない。
最近アルコールを飲むとストップが効かない。
次の日に仕事があったとしても、
理性では抑えきれない。
これは悪い兆候。
血筋のせいか、
二日酔いにはならないけれど、
これはアルコール中毒の初期症状。
お酒はほどほどに。

ちなみに父方の祖父は、
多分アルコール中毒だった。
祖母が、こっそり一升瓶を水で薄めている話を、
子供時分に、居間で両親が話しているのを聞いた事がある。

話題は二十歳の頃の思い出。
自分が二十歳の頃は、甲府にいた。
大学が夏の休みになり、
中央線に乗って帰省する時に、
たまたま同郷の友人と一緒に電車に乗った事があった。

その頃僕は、バイト帰りにレンタルビデオ店で、洋画のビデオを借りて、下宿でビールをがぶ飲みしながら、眺めるのが好きだった。
で、その電車の中で、彼と映画について話した場面を
ふと、こんな何十年も経った真夜中に
思い出している。

「最近ね、ウッディアレンって人の映画で、マンハッタンってのが良いいんだよね。」

「へえ、どんな映画?」
と、その友人。

「チビでハゲな、ド近眼眼鏡の男がさあ、なんか知らないけど、モテるんだよねって、そんな映画。」

「それって、モテない男を勇気付けるって映画?」

「…そうかも」

いや、そうではない。
今ならもっとまともな説明だってできるかもしれない。

僕は、あの映画の橋のシーンに今でもウルっとくるし、
ラストの数分は、本当に素晴らしいと思う。
勿論、オープニングだって斬新だ。

一人きりで、
夜中に
誰かを思う
あの感傷的な瞬間を
こんなにも上手く表現した映画は、
僕はあまり知らない。

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あたりまえ



毎日それなりに
ちゃんとやっていれば、
きっとこの先
幸せな老人になれるだろう。

なんて事。
いったい何の根拠で思っていたのやら。
若き頃の己は。

根拠の無い希望こそ、
若さの特権よと、
したり顔でのたまうような、
そんなつまらない大人にだけは、
なりたくなかった筈なのに。

細胞の隅まで、
ちゃんと使い切れるか。

それなりに、では、
到底太刀打ちなんかできない筈。
根っこにある、強い意志が必要だ。
張りぼてだろうが何だって構やしない。
とりあえず、その意志を生み出す炉が必要だ。

ところで、逆説的かもしれないが、
その炉心の燃料には、
実は若い頃のくだらない産物も、少しは含まれていると
僕は密かに信じている。

いずれにせよ、
歳をとればとるほど、
生きるのが辛くなるのは、多分確実らしい。
人生はけして喜劇なんかじゃない。

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めりこむ

朝、山下洋輔の「キアズマ」を聴きながら出勤。
1975年、ドイツでのライブ音源。
piano 山下洋輔
alto sax 坂田明
drums 森山威男

フリージャズを聴きながら出勤する人なんて、
あんまりというか、
多分、ほとんどいないと思うけど、
何だか、今日はたまたま、
これがしっくりきたんだから
しょうがない。

昔から不器用な生き方しかできなかったせいで
今でも、特に最近は仕事に関して顕著だが、
結果が出る出ないに関わらず、のめり込むと
一瞬一瞬に、
全部をかけていくような所がある。
カッコよく聞こえるが、
これは、不器用な生き方。
これをやり続けたら、
多分長生きできないんじゃないかと思うくらいに、
注ぎ込んでしまう。
ある種の先天性のビョーキである。

こういった感覚に近いのが、
多分、血の気の多い頃の山下洋輔トリオであり、
チャーリーパーカーの古い録音であり、
エリックドルフィーのバスクラだったり。

と、ここまで書いてみたところで、
こんな話は、所詮誰にも理解してもらえないだろうと、
まあ、それが当然とは思うが、
自分の感性を認め、受け入れるのは、
結局は自分自身でしかないと
あっさりと諦め、
どうせ死ぬまで、
こういう人間なんだから、
だから、こうやって、
電気信号として落書きをしているかもしれない。

その昔、探査機ボイジャーに積んだという、
未知の宇宙人へのメッセージを吹き込んだレコード盤みたいに、
誰が読むでもない落書きを、
あてのない手紙よろしく
今夜もたらたら書いている。

どんな小さな物事でも、
そこに全力でのめり込む時、
ごくたまに、ぱあっと外に開ける瞬間がある。
そんな時、大抵まわりは気付かない。
こっちは、ぱあっと突き抜けて、開いちゃってるから、
何でこの事が分かんないのかって思うけど、
まわりからは、
多分頭イかれてるって思われる程度。

その時代の社会的な価値観に見合う、
タイムリーな結果を、
人々が分かりやすい形で提示できた場合に限り、
そういった事は、周囲からの称賛を得られる。

いわゆる「いいね!」ってやつ。

僕は、「いいね!」なんて要らないし、
「いいね!」だろうが「いくないね!」だろうが、
「くそくらえ!」だろうが、
正直どうだっていいと思っている。
強がりではない。
むしろ諦めや、開き直りに近い。

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AタイプBタイプ

土曜日、
小学生の息子の体操教室。
ガラス窓越しに眺める。
今日は、跳び箱。

例えばスポーツだとか
音楽、ダンス。
これらは生まれ持った素質がある人と、
そうでない人が
比較的はっきり分かるもの。

体育の得意な子どもは、
多分なんにも考えなくたって、
普通に跳び箱なんて跳べちゃうし、
ボールだって自然に蹴る。
だから、当然ながら、できない子が理解できない。
だって、彼らにとっては、
それらのことは、考えなくても、
自然にできのだから。

考えなくてできるタイプと、
考えてできるタイプ。
仮に前者Aタイプ
後者をBタイプとする。

僕もそうだったが、こと体育に関しては
息子は明らかにBのタイプである。
他の子が軽々とやっている事が、
なかなかできない。
動きがぎこちなく、
動きながらいろんな事で頭がいっぱいで、
フリーズしてしまう。
子ども時分なら、
馬鹿にされる事だってある。

でも、そんなBタイプである事を、
本人もまわりも、それ程悲観する必要はないのではと、
ふと思う。
自然にできなければ、
頭で考えてやれれば、それでよいじゃないか。

自然にできてしまう事は、勿論すばらしい才能だから、
例えばそれを生かして職人みたいになる事が容易ではある。
一方で自然にはできない人が、デフォルトじゃないスキルを、自分自身に植えつけ、育ててゆく行為は、物事の仕組み自体を知る手段とも言える。

Bタイプは、考えてするタイプなのだ。
全体で捉えてマスターする事は、思索である。
そこには、新しい方法を生み出す可能性がある。
ジャンルを飛び越えていく力が生まれる事だってあるかもしれない。何も悲観する必要はない。

考えてできる人は、
とにかく細かく、具体的に、とことん考える事。
身体が自然に反応しないなら、
そいつを自分でプログラミングしてやればいい。
これは、ハマるとかなり楽しい趣味だと思う。

そう言えば二十代前半、
週末になると一人、
バッティングセンターに行って、
2000円くらい使って、
ひたすらボールを打った事があった。
僕は野球は苦手だけれど、
例えば、飛んでくるボールに対してバットをどの角度で振り下ろせば、気持ちよく飛んでゆくかとか、
ボールにバットを当てよう意識する際に、
目でボールを追って、どのタイミングでバットを振るかとか、その際に左手はどんな役割をして、右手はどう動くのかとか、打ち返すという意識ではなく、バットを壁のように当ててゆく意識の方が確実に当たるだとか、
無数の事を考え、試行していたら、
いつしか左手の小指側の皮が剥けていた。
傍目には、おかしく映っていたであろうが、
本人は夢中だった。
繰り返しになるが、別に、野球が好きではなかった。
結局、野球を好きにはならなかったけれど、
少なくとも、バッティングセンターでボールを打つのは楽しかったし、実際少しは上手くなった。
まあ、しばらくしたら飽きたけど、
身体を考えながら動かすスキルは、
バイオリンを演奏する技術を習得するのに大いに役立った。これは成果だ。

長々と、まとまりなく書いたけど、
AタイプBタイプ、どっちがいいかといえば、
そう単純な話ではないようだ。
どっちだっていいじゃないか。
まあ、そんな話。

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Depression

ずっしりと重たい疲労感。
食べるために顎を動かすのさえしんどい無気力。
あの湿った空気をいっぱい含んで、
空を覆いつくす灰色の雲みたいな、
思考の空回り。
モチベーションの崩壊。

これは通常の状態なのか、
或いは異常な状態なのか。

例えば人生が悲劇か喜劇かと問われれば、
悲劇に決まっているのだけれど、
それに対して、ちゃんと身体を動かして生活できるだけの、基礎的なエネルギーが、理由は分からないが、根本的に枯渇している。
理由は分からないのだけれども。

やらなきゃいけない事。
それ自体は小さくて、
単体では大した労力を必要としない筈なのに、
一向に心が向かわない。腰が上がらない。
外見的には怠けているのと変わらないが、
内側は全く別のもの。
そんな事、他人には理解不能。
当然といえば当然。

先延ばしの先に積み上がるストレス。
それでも、毎日を転がさなくてはならない。

やり過ぎ病は経験上、
大抵の場合、最終的に、
何一つ成果を生み出すことなく、
エネルギーの枯渇と同時に、
酸欠状態へ突入する事になる。

うまくやり過ごさなくてはならない。
毎日をうまくやり過ごすスキルを、身につけなくては。

誠に申し訳ないのですが、
世間の皆様が、人に対し当然期待するであろう事柄について、わたくしに対しても同様に、暗黙の了解の内に期待していることにつきまして、わたくしにはそれを、全うする能力がありません。別に自分を卑下して言っているのではありません。
普通にできることを目指して生きてきましたが、
普通であることは、わたくしにとっては難題なのです。
ただし、フリをすることは、何とかできます。
その学習は幼少期、それこそ物心ついた頃から、
試行錯誤、いやむしろ右往左往しながら、学んできたものです。
ただし、これを全うするのには、多大な労力が要ります。
その労苦は、しょうがないことですが、傍目には分かりません。
普通のフリをしながら、水面下では水鳥みたく、バタバタと水かきのついた脚で、せわしなく水をかき回しているのです。

この世で、人として生きるために、
そうやって毎日を転がす辛さは、
いつかは、誰かに理解してもらえるのでしょうか。
昔は浅はかな希望を持ったりもできました。若さのなせる技です。
今は、その希望は狭い狭い道のように感じます。
誰が悪いとか、そういった話ではありません。
そういう気持ちに、たまたまなっただけの事です。

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居心地の悪さ

ああ、
楽しく弾きたい。
楽器を弾く事で心からウキウキしたい。

もちろん、
楽器ケースを開けて、
音を出すだけで既に、
心は浮き立つけれど、

楽器を使って、
日々の生活を、
もっと生き生きできないかなあ。

オケでクラシックばかり弾いてきたけれど、
そもそも、クラシックは、
そんなに好んで聴いちゃいない。
バイオリンって楽器自体は好きだけど。

多感な頃にオケという集団で過ごしたせいで、
これまで、オケで弾くことに、
特に疑いなんて抱かなかったけれど、
そもそも、僕がしたいのは、
それだったかというと、
正直分からない。

僕はただ、
楽器で音楽をしたいだけなんだけど、
特にオケがしたいとか、
古いヨーロッパのシンフォニーなんかを弾きたい訳では、もともとは、そうじゃなかったんじゃないかなあと、

こんな年になって、今更だけど、
ぼんやりと思う今日この頃。

昔から、
たまにオケで感じる、
あの奇妙な感覚。
それは、ちょっぴり嫌な気持ち。
あれは、どんなに基礎練習をしたって、
どんなに演奏技術が向上したって、
多分根本的な解決にはならない。
あの場違いな気分。
胃の底から来るような、
居心地の悪さ。
これは、いくら練習しても、
たとえ上達したとしても、
多分変わらないかな。

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不器用なサーフィン

夏の演奏会に向けて
日曜はオケの練習日。
何はさておき、
オケという場で、
楽器が弾ければ
ただそれだけで、
とにかく満足。

譜読みのストレスは、
昔も今も同じ。

ただ、昔と違うのは、
周りの音を感じられる程度の、
「いいかげんさ」を持てるようになったこと。

上手に弾こうとか、
いい音を出そうとか、
はたまた無謀にも、
何か表現してやろうとか、

そんな諸々については、
おそらく今はもう、
どうだっていい。

大きな音の流れに
なるべく長く乗っかっていたい。
サーフィンみたいに。
僕が今、オケで弾く事に求めているのは、
波乗りに近い楽しみかもしれない。


サーファーが、よい波をとらえた時みたく、
集団の生み出すリズムや、
曲のハーモニーの流れに乗っかれた時は、
まさに至福の時間。
世界は僕で、僕は世界な気分。

一方、波に上手く乗れずあたふたする時は、
ぽつんと一人、世界から取り残された気分。
ものすごく落ち込む。

若い頃はこの孤独感に、とてもじゃないが耐えられなかった。

精神的にもろく、繊細な人は、
あのタイプの孤独に対して、
過剰な自己主張、
或いは、まわりの世界への執拗な反抗によって対処する。
それを地でやってしまった愚直な若者こそが、
つまりは僕自身だったのだと思う。
なに、これは僕に限った話じゃない。

理由なき反抗

当の本人は、それなりに、
脇目も振らず、一生懸命。
言いかえるなら、
自分に一生懸命頑張っていた。
愚かなダンスに過ぎないにしても。

でも所詮、
孤独を感じようが、
まわりと一体感を感じようが、
一人は結局一人であり、
自分はいずれの場合も、
無くなりはしない。
ただ、それだけの事。

そんなことを言いながら、
僕は今だって
相変わらずに繊細で、
そして傷つきやすく、
他人に安心して心が開けない。
不器用な少年は、
不器用で屈折した大人になった。


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マンハッタン

いつもは土曜は休みだけど、
今日は出勤。
帰ってきて、
昔みたあの映画を、
また観たくなった。

全編は無理だけど、
今は、一部だけならネットで見られる時代。

マンハッタン
1979年 アメリカ映画
監督、主演 ウッディアレン

あのモノクロームの映画
初めて観たのは二十歳の頃。
バイト帰りにレンタルビデオ屋で借りてきて、
真夜中に一人、観た記憶がある。
季節は夏か、それとも秋か。

記憶に残るシーンがある。
それは確か
夜通し歩いた後の早朝、
橋の見えるベンチで、
犬を連れたダイアンキートンと、
ウッディアレンが語るシーン。
恋をすると、人は夜明けまで語り合えます。
朝霧に浮かぶ橋の光景。
バックに流れるガーシュイン
Someone to watch over me
実にぴったりな選曲。
不器用な二人。

こんな忘れられない風景を、
きちんとお膳立てして、
数万人の観客の脳裏に、
ある種のトラウマみたく刻み付けるような、
そんな存在感のある映画って、名作なんだと思います。

それにしても、
コメディアンと呼ばれる人が、
ふとした隙にみせるあの、
寂しさだったり、物哀しさだったり
そういったものに、
ある種の色っぽさを見つけてしまったら、
多分おちちゃいますよね。
ふぉーりんなんとかです。

チャップリンには、それが確実にあった。
街の灯しかり、黄金狂時代しかり。
寅さんやってる渥美清にもあった。
「男はつらいよ」は、笑えるだけのコメディなんかじゃない。
ウッディアレンにだって、
それは確かに、
ある。
笑いと哀愁は、
切っても切れないもの。
本当の笑いは、
悲しみの先にあるものかもしれない。
ラストシーンのあの表情。
あれはチャップリンの街の灯に匹敵するか、あるいはあの作品に対するオマージュなんじゃないか。

喜劇なんかじゃない、人生は、むしろ悲劇だ。
だけど悲劇の中で、どうやって最善を尽くすかって事だ。そんなことを、ウッディアレンは話していたらしい。

ちっぽけな自己が、精一杯はち切れるくらいに膨らむ時、
そこに悲劇というエネルギーが存在する場合もある。
笑いは変化球。だけど、人の気持ちを動かすには、一番有効な手段。
かもしれない?

人生は、基本的には
悲劇なんだと思う人間にとって、
それを伝える有効な手段は、
突き詰めれば結局は、
笑いなんだろうと、
僕は、そう考えるたちの人間です。
だから、そんな類のコメディに、
それがコメディにもかかわらず、
意図せず心地よい涙を流せるのかもしれず。




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