ぼんやり日記

ロボコップとフレンチコネクションのザッピング

リビングのソファに寝っ転がって、
リモコン片手にチャンネルサーフィン。
BSで「ロボコップ2」と「フレンチコネクション」を交互に見ながら、
麻薬捜査は大変だなあなんてやってたら、
我が家の猫ちゃん、
スコティッシュフォールドがやってきて、
寝っ転がる僕のお腹で喉をゴロゴロ一休み。

フレンチコネクションのラストは、
第三の男に対するオマージュだったんですね。

ジーンハックマンはルックス的に言えば、
ジョセフコットンよりはむしろ、
オーソンウェルズに近いですけど。

ロボコップにせよ、フレンチコネクションにせよ、
警官や刑事がとにかく人を殺しすぎです。
確かに相手は悪役だけど、
でも、あんなにもあっさり殺す事に、
僕なんかはちょっと違和感がある。
少なくとも日本では多少の迷いはあるような気がします。
そんなこと言ってられないといえば、それまで。
これが国の事情なのか、
文化の違いなのか、
よくわかりませんが。



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雨上がりのアスファルト、ボサノヴァ

ここ数日のどんよりとした空も、
午後になると雲が晴れて、
久しぶりに黄金色の17時。
いつもなら帰る頃は真っ暗だけど、
今日は出張だったから、
職場へ帰らず自宅へ直帰。
濡れたアスファルトがキラキラと光る中を
のんびりドライブ。

仕事というのは社会的な営みだから、
たとえ在宅ワークであっても、
他者との関係の中で行われるもの。

例えば一人で黙々と籐籠を編む伝統工芸の職人さんであっても、それを生業とする限り、
当然自分の作品を手にする誰かを想定し、
自分にとっても、相手にとっても
価値あるものを作ろうとするもの。

その想定する他者というのは、
自分がおもんばかるところの他者であり、
それは、自己の想像するところのものであるわけだから、
つまり自己の投影というフィルターを通る事がある意味決められてしまっている。
そこが、仕事に現れるその人らしさなんじゃないかなあと思うし、
その事が社会にあって、
人に孤独を感じさせる要因でもあり、
また他者との共感という救いを自ら手に入れるための、
小さなドアなんだと思う。

結局人は寂しい生き物だから、
一生かけて、
その共感の鉱脈を探って一喜一憂しながら、
食って寝て死んでいくだけなのかもしれない。

世界との一体感を求めるのは、
人の宿命なんじゃないかと最近思う。
大体この世に生まれるという事は、
母体からの切断という悲劇から始まるわけだから。

仕事をしながら、
でも自分である事。
自分でありながら、
世界でもある事。

これをいろんな場面で、
とっかえひっかえ、
縦に横に斜めに見ながら、
ああでもない、
こうでもないってやりながら、
誰もかれも、
そうやって生きて、
そして死んでゆく。

夜になる前の、
空が赤紫に染まる頃、
信号待ちで、
トムジョビンの名作「三月の水」を、
ジョアンジルベルトの歌とギターで聴きながら、
フロントガラス越しに、
飛行機雲をぼんやり目で追っている。

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ニコロサンティに浮き足立つ連休前半

四月から異動になり、
それこそ最初の一週間は、
忙しすぎて曜日の感覚はおろか、
昨日今日も分からない程でしたが、
何とか連休まで壊れることなく、
無事でいられました。

休日は仕事の事を考えないようにしつつ、
自分の足元を見つめながら、
身体感覚を取り戻す事に努めました。

しばらくご無沙汰だったランニングも再開。
二週間ぶりに走ると、外の空気が大分と変化していることき気づきました。
気温もさることながら、
匂いが違う。

道路脇から、何とも言えない花の香りがしたり、
水を張った水田の前を通ると生臭かったり、
草むらから、ちょっと獣のような匂いがしたり。
別に野獣がいるとかじゃなくて、
なんか昔飼っていた芝犬の首輪の辺りのにおいのような、そんなんです。

汗だくで家に着くと、ふわぁって清々しい香り。
となりの蜜柑畑の樹に花が満開でした。


忙しさで気付きませんでしたが、
まわりの世界は、新しい季節に目覚め
生命力を高めているのですね。
大地の不気味な程のうごめき。

忙しいと過集中になる。
過集中になってる本人は気付かないけど、
でも、そんな時は大抵
身体はひっそりとサインを発している。

首が前に出ているのです。
斜角筋が縮まっている。
斜角筋は首から上位肋骨にかけてつながる筋肉。
そして、その収縮に対して補完する形で
首の後ろ、
つまり頭と首の境目あたりがキューって狭くなる。
そこから僧帽筋の収縮が始まり肩が上がる。

身体的な変化として自覚する症状としては、
呼吸の浅さや肩こり、あるいは頭痛。

このスパイラルを解くには、
ただその事に気付けばいいと、
最近気付きました。
でも、きっかけは必要です。
コツは、
「反対側にあるものを意識する」

これは暗示にも似ているような、
ある種の心理的テクニック。

具体的には、両方の肩甲骨の間を狭くして、
かつ下方に下げるように意識してみること。
背中にひっぱられた頭は背骨の上に乗り
バランスを取り戻す準備をはじめる。
あとは顎を引いて、ゆっくりと左右に顔を向けながら
頭はそんなに重くはないのだと確認できれば終了。

今日は午前中、家族で大高緑地へ。
小学三年生になった息子は、
一人ゴーカートデビュー。
慎重な運転。
慎重さというのは、大胆さと同じくらい大切だ。
でも大胆さ程の派手さがないから、
ついネガティブな評価を受けがちだけど、
僕は深い慎重さから生まれる大胆さこそが本物だと思っている。
だから彼の慎重すぎる性格を、僕はちょっぴり羨ましくもあり、誇らしくも思っている。
親バカといえばそれまでだけど。
慎重さは繊細さから来る面もあるから、
いろいろと大変な事もあるだろうけどね。

近くにあるショッピングモールで午後は買い物。
僕はここ数年、
普段着のように気軽に弾ける、ちょっと雑に使っても心が痛まないようなバイオリンを探しているんだけど、
今日島村楽器で試奏させてもらった
ニコロサンティって楽器はかなり良かった。
五万円いかないビギナーズセットながら、
かなりのクオリティ。
たしかに音量は物足りないかもしれないけど、
操作性は三十万以上の楽器と遜色ないです。
むしろ状態の悪い三十万くらいの古い楽器よりいいんじゃないかと思えるほど弾きやすく反応もいい。
弾いていてちゃんと手応えがある。
音は飛ばないけど音色はストレスなく温かい。
これは大切な要素。
楽器を弾く温かさを感じられるのは、
趣味で楽器を楽しむ上で重要な事です。
別に大きな音なんか出なくていいのよ。
セットで五万円以下!
マイスター茂木最高!
バイオリンってさ、
本来もっとカジュアルな楽器でもいい筈だから、
手頃な価格設定で、
このくらいなクオリティの製品が、
もっと世の中に出回ったらさあ、
バイオリンは、お金持ちの坊っちゃまが嗜むもの
だとか、
バイオリンは、幼少期からやらないとマスターできないもの
だとかいったような、
昭和の頃にまことしやかに語られていたような事が、
バカらしく思える日だって近いかもしれませんよね。
いい物弾かせていただきました。
GOSTOSO!



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根本さえつかめたら

多分長くやればやるほどに、
これこれは、こういうもんだと、
いつしか勝手に決め込んでいる。
しかし彼らの言う普通とは
「彼らの」普通でしかない。

それぞれの普通を主張したって、
多分何の解決にもならない。

新しい「普通」を生み出す意識を、
お互い心の片隅に持つこと。

僕たちに見合うような、
新しい価値観を、相手と探すんだって覚悟は、
違う誰かとコミュニケーションする際の
言わばお守りのような物。

これを心に持って人と接すれば、
人に自分を非難される痛みや、
批判から自己を守る為にする様々な取り越し苦労から、
ちょっとだけ解放されるかも。

大切なのは、
方法ではない。
根拠であり、目的、意図なんじゃないだろうか。

どんな多様な文化的背景を背負った集団であっても、
共通の目的によって集まったのなら、
その目的を明確にすれば、
新しい価値基盤を生み出せるに違いない。
それは繊細だけれどダイナミックな企て。

物語を生み出す。

僕はこの手の事を考える時、
大学オケで初めてコンサートマスターをした時のことを思い出す。
2001年8月。
愛知県芸術劇場コンサートホール。
真夏の夜の夢の序曲は散々な出来。
でも中プロのシューベルトの未完成は、
僕にとって忘れられない演奏体験になった。
その瞬間まで僕は、
コンサートマスターというのは
団員を演奏面でリードする存在だと思っていた。
あるいはコントロールするくらいの勢いでいた。
でも二楽章のオーボエソロの伴奏中に、
僕は気づいた。
僕なんかが、この2キロにも満たない脳みそであれこれ考えても、どうにかなるわけがない。
所詮世界の一部に過ぎないのだから、
この音の流れに、飛び込めばよいのだと。
もう楽譜の残りは僅かだったけど、あの時間は最高の演奏体験だった。
当時の僕は、色々あって他人を信頼できない辛さを抱えてたから、無意識のモーメントによる、神秘的な奇跡だといえばそれまでだけど、
客席に届いた音はどうであれ、
個人的な演奏体験としては、
あの時間の密度は、それこそ人生を変えるくらいのレベルだったと思う。
音楽というのは、
人の原始的な部分にアプローチする力があるからこそ、
そういった要素があるのではないかと思う。

僕は世界の一部であり、
同時に世界は僕である。

その時個人は溶解し、
時間は永遠になる。

今夜も僕は一週間ぶりに楽器ケースを開け、
ブダペスト在住の背の高い大きな手のグミナール氏が、
2007年に作ったバイオリンを弾いている。
楽器は弾かれる事を前提に作られたもの。
つまり誰かの行為によって、その目的が完結する運命を背負っている。
だから、こうして週末の夜に
ケースから出して弦を震わせる事は
単に楽器を鳴らす以上の意義がある。

張られているドミナントは一年以上張り替えていない。
そろそろ交換しなくては。




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花見





いきつけの公園で、
3月最後の一日を過ごしています。

今日は光が心地いいし、
空気も澄んでいるから、
目に入ってくる色が鮮やかです。

桜は満開。
時々優しい吹く風に、
ピンクの花弁が、
わあって具合に
薄水色の空へ舞い上がっていきます。

一本の桜の下へ敷物を敷いて、
ごろんと寝っ転がってみる。


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傷ましき腕

これは負け戦だ。
としても、自己の存在を信じられるような、
心の支えというのは、
やはり自己責任という無責任な言葉の下
探さなくてはいけない。
おもてがどんなに冷え切っていても、
心の火に薪をくべ続けねばならない。

自己責任

例えて言うなら、
土砂降りの雨の中で、
泥道で足を滑らし顔から転んだら、
その頭を誰かがブーツの踵で泥の中へと押し込む。
悪いのはあんただよって。
そんな類の言葉だ。

忖度を上手くできる社会は、
裏に凄まじい憎悪を抱えている。
周りを気遣って、
自分を押さえ込んで、
誰からも文句言われないようにした人は、
いつしか押さえ込んだ感情が振り切れそうになると、
静かな暴力性で
自分がコミットした価値観から外れた他者を、
執拗に批判するようになる。
やっかいなのは
周りを伴って、
それこそお誘い合わせのうえで、
集団として押しかけるという事だ。
彼らは、さも自分たちのみが常識的であるがごとく話をしたがるが、
時に冗談めかして横の誰かと微笑み合いながら語るその笑みが、だいたいにおいて、
僕から見たらひどく歪んで見える。

実に悲劇的なのは、
この違和感は、それを感じる当人が、
たとえ、どんな表現テクニックを駆使したところで、
目の前にいる自分たちこそが世界を背負っているとすら疑わない人々には、
けして伝わることはないという事だ。
そう感じた途端、
決まっていつも僕は、
生きる気力が萎える。

この感覚について、
それを被害妄想だと断じる人の事を、
僕は根本的に信用しない。
彼らは散々丸太で殴り倒しておきながら、
悪いのは俺じゃない。
殴られたお前がした事だろと言う。

地面に顔を擦り付けられて、
立ち上がろうにも足が立たない。
孤独な自己は、
この瞬間に輝くと岡本太郎は言う。
額、
首、
肩、
肘、
指、
腰、
膝、
足。
全存在を否定された途端に、
全細胞が沸き立つ。

負け戦だ。
そうとも、確かにそうかもしれない。
しかし、それしかないなら、
そうするしかない。




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ある春の日に

下宿の南側の壁にもたれると、
陽光が背中を温めた。
畳に映る自分の影を見ると、
肩からもやもやと、湯気のような揺らめきが見える。
目を細めながらフィリップモリスを一本、
袋から取り出して火を点けた。
煙を吸い込みながら天井を仰ぎ、
ふうっと吐き出してみる。

一昨日あたりから外が騒がしい。
下の階に住む管理人の息子の小学校が、
どうやら春休みに入ったようだ。
とにかく不用意に声がでかい。

昨晩の飲み残しの
気の抜けたミラービールを喉に流し込んで、
その銀色の空き缶に煙草の灰を落とす。
灰は缶の底に落ちると、
シュッという音がした。
灰皿くらい買えばいいのに。
それすら面倒くさいのだ。

昨夜も眠れなかった。
夜中じゅう起きてテレビを観たが、
寂しさは癒せず、
しょうがないから、
学生手帳の裏についていた全国の大学図書館に片っ端から電話をかけた。
とんだ迷惑なイタズラだ。
夜中の2時、3時。
電話に誰か出るなんて、まずありえない。
自分が耳に当てている受話器の先で、
遠いどこかの街の
真っ暗な図書館で電話が鳴っている。
その事が、どうしようもない寂しさを忘れさせるように感じた。

その夜、一件だけ電話が繋がった。
九州の方にある大学図書館にかけた時だ。
用件を尋ねられ、動揺した僕は
思いつくまま、咄嗟に「開館時間はいつですか?」と尋ねた。申し訳なさに頭にちがのぼる。
受話器の向こうの男性は、
声の感じから自分の父親と同じか少し上の年齢だと分かった。ほんの僅かな沈黙。
「10時からですよ。いろいろあるかもしれないけど、しょうがないから今日はとりあえず寝て、10時にまた来なさい。」
声から体温が感じられる。そんな穏やかな声だった。
僕は、こんな真夜中に電話をして申し訳ないと言って、ゆっくりと受話器を置いた。
いったい僕は何をやっているのだろう。
そして深いため息をついた。
さっきまで受話器を押し付けていた耳が、
しっとりと暖かい。
テレビをつけると、
スティービーワンダーのバラードをBGMに、
東京のなにげない風景の映像が流れていた。
遠くで鳥がさえずるのが聞こえ、
カーテンがうっすら青くひかり、
いつしか夜が明けていた。

下宿は甲府にあった。
とてもじゃないが九州になど行けない。
なんとも言えない気持ちを抱え午前10時、
部屋の窓辺で煙草を吸っているのだった。
遠いあの大学にある図書館は、
もう開館したろうか。


今から二十年以上前の話。
今更ふとそんな事思い出すなんて禁煙の影響でしょうか。
それはさておき、あの真夜中の電話で
救われた若者がいるなんて、おじさん知るわけないよね。

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LIKE SONNY

土日はランニング。

もうすっかり、
そんなふうの人になってしまった。

耳にイヤホン詰めて、
prime musicで古いjazzを聴きながら、
夕方の田んぼ道の風を感じながら、
息のきれないペースで走る。

こうして走っていられる時間が愛おしくすら思える。
健康的であるかなんて、
どうだっていい。

僕の住むこの大地を自分の足で感じ、
遠く鈴鹿の山々から吹き降りる風を浴びて(途中工業地帯の煙突からの排煙をブレンドしている。そんなの了承済みだ)
アスファルトからの反動を腰に感じながら、
ゆったりと走る。

この行為は苦行とは真逆。
癒しのランニング。

太古の記憶を呼び覚ますために、
あるいは生物としての自己を揺り起こすために、
ランニングという、
人によっては、何でわざわざ辛い思いをしているのだと理解しがたい気持ちになるような行為に、
夢中になるのだろう。

そんなこと書いておきながら、
僕だって以前はそうだった。
身体を動かして気持ちいいなんて、
ケって思っていた。

でもやったら分かってきた。
この中毒性。
人類がその染色体に刻んだ遠い昔の記憶。
それこそ何万年も前からの。

それを感じられる事は、
文明やら科学やら、
経済やら文化やらにがんじがらめの僕たちを、
大いなる寛容によって慰めてくれるのだ。

今日は8キロ、
昨日は9.5キロ走った。
昨日の疲労がまだ残っていたから、
今日は8キロでやめた。

最近は大体いつも
3キロくらい走ると、いい気分になる。
走り始めは嬉しくてついペースがオーバーしてしまうんだけど、
3キロあたりで心地よいペースが掴めたら、
あとは風に吹かれてればいい。
顎を引いて、
背中を意識し、
肘を後ろに引きながら、
身体を起こす。
遠くに目線を向けて、
あとは頭に浮かぶ考えを、
それこそ流れて行く風景を眺めるように、
ただ傍観していけばいい。
そうすれば、
いずれ背中がポカポカ温まり、
幸福な時間が訪れる。

今日はソニーロリンズ。
1950年代後半。
bluenoteレーベルに吹き込んだ音源を聴きながら走った。

今日は海からの風がきつい。
キャップが飛ばされそうだ。

風の感触は相変わらず埃っぽい。
これは春だということ。

家の近くに来た。
桜並木のうち一本に、
花が咲いているのを見つける。
今年は開花が早い。









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モンクとランニング

セロニアスモンクを聴きながら
夜の街をランニングする。

モンクの指が鍵盤の上を飛び跳ねる。
そこにエレガントな音が広がる。
セロニアスモンクの音楽は、
エレガントの一言に尽きる。
エリントンとはまた違った上品さ。

アスファルトを左右交互に飛び跳ねるナイキのシューズ。
着地のたびに腰に響く衝撃が心地よい。
じわりと背中が熱くなるくらいになったら、
あとは流れに任せて、
ただ走る心地よさに身をまかせる。
考えるのは、
この幸福な時間をいかに長引かせるかという事。
脇を締めて腕を軽く後ろに振っていると、
頭を固定して背骨が左右に波打つように揺れながら、
見事な運動サイクルを作っていくのが感じられる。
紐の一端を持って、ゆらゆら揺らすと、
波のようになるけれど、
それを身体全体でやっているような感覚。
そこまでいくと、
まわりの空気の温度、匂い、肌触り全てが
なんだか愛おしくなる。
走る前に頭にあった、
あんなにも不快な出来事が、
別にどうでもよくなるから不思議だ。
この感覚の虜になって以来、
職場で嫌な気分になると、
「ああ、走りたい。今夜8キロ走ってやる」
なんて心で呟いている自分がいる。
土日は約10キロ、
平日は1日。
節制して5キロ。
そんなペースで走っている。
若くないから、身体の疲労を考慮してあげなくてはいけない。
だから毎日は走れない。
筋肉の疲れを無くす時間が必要なんだ。

セロニアスモンクには、
アップライトのピアノがよく似合う。
アルバムによっては、
あ、これグランドピアノじゃなくてアップライトでしょって音がする。
僕はアップライトの音の方が、モンクの場合は好きです。
エヴァンスは逆にグランドピアノの音が好きだけどね。

ランニングという行為は、
何処か座禅に似ていると思っている。
なんの根拠もないけれど。

ジョンとヨーコの出会いのエピソードじゃないけれど、
所詮、人は最終的には、
自分の全部にyesを与える何かを探しているんだよね。
それを身体の奥に持てるかどうか。
それに特化するなら、僕らはちゃんと向き合わなくてはいけないのだけど、現実社会ってのは、本当に慎重すぎるね。
でも、ストッパーとしてなら、
この時差は必要十分条件なんじゃないかな。





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アンプラグド

Eric Claptonの「unplugged」を聴く。
リリースは1992年。
当時の僕は高校生。
親の眠った隙に受験勉強のふりをして
戸棚にあった父親のサントリーオールドをバレない程度にひっかけて、
Lonely strangerあたりからの感じに酔っていた。

当時のアイドルは、
ドリカムでもB’zでもなく、
むしろスタンゲッツやチェットベイカーだったけど、

このアルバムは古くさいJAZZばかり聴いていた僕でも、夢中になる何かがあったのだろう。
今夜はその頃の思い出を、仕事帰りにコンビニで手に入れたトリスハイボールで解凍しながら、
グラスの氷とともに、カラカラと解凍している。

今思うと随分と老けた高校生だった。
中学時代何もしなくても成績は学校中で一位二位だった秀才が、
いい気になって高校も同じようにしていたらいつしか赤点だらけ。
ふてくされていたと言えば聞こえがいいが。

そもそも物理の公式をテストの度に毎回イチから組み直して解いていたせいだ。
何も考えずに公式にぶっ込めばいいのに。
イチから論理を組み立てようとするから、
テストも時間内に終わらない。
まるでリックや手癖を完全に否定して
無からその場でアドリブをしようとするのと一緒だ。

案の定成績は下降線をたどる。
周りの友達の立ち居振る舞いの変化には酷く傷つけられた。
部活の帰り道、自転車で帰る自分の影をじっと見つめる。
このイメージを油絵で描いたら、
みんなをあっ言わせる、
いい絵になるかななんて一人で妄想する。
今考えれば馬鹿馬鹿しいというか幼すぎるけど、
当時の僕の頭の中は、
厭世的な気分でいっぱい。
中学時代にわざとらしい敬語で、
どうしたら勉強できるようになるのですかと
尋ねてきた時計屋の息子は、
高校二年の夏には、廊下を歩く僕から目をそらすようになった。
進学校というのは少なからず、
そういった傾向がある。
今はあの頃ほど大学は狭き門じゃないから、
そんなコンプレックスなんて感じなくても生きられるかもしれないが、
当時は少なからずそうだった。

立っているために、
僕は新しい価値観を自分で築かなくてはいけなかった。
たとえ仮設であったとしても。

仲間がいたらまた違ったろう。
その点では恵まれなかった。
だから結局は自分一人で作るしかなかった。

10代に学んだ大切な事は、
一人きりで考えるということ。
まわりはあてにならない。
自分だけで感じ自分で考えるしかない。
なんて書くとちょっと勇敢に聞こえるかもしれない。
でも半分追い込まれるように
逃げるみたいにしてたどり着いた対処法だから、
ブザマと言えば無様。

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