おけ

根本さえつかめたら

多分長くやればやるほどに、
これこれは、こういうもんだと、
いつしか勝手に決め込んでいる。
しかし彼らの言う普通とは
「彼らの」普通でしかない。

それぞれの普通を主張したって、
多分何の解決にもならない。

新しい「普通」を生み出す意識を、
お互い心の片隅に持つこと。

僕たちに見合うような、
新しい価値観を、相手と探すんだって覚悟は、
違う誰かとコミュニケーションする際の
言わばお守りのような物。

これを心に持って人と接すれば、
人に自分を非難される痛みや、
批判から自己を守る為にする様々な取り越し苦労から、
ちょっとだけ解放されるかも。

大切なのは、
方法ではない。
根拠であり、目的、意図なんじゃないだろうか。

どんな多様な文化的背景を背負った集団であっても、
共通の目的によって集まったのなら、
その目的を明確にすれば、
新しい価値基盤を生み出せるに違いない。
それは繊細だけれどダイナミックな企て。

物語を生み出す。

僕はこの手の事を考える時、
大学オケで初めてコンサートマスターをした時のことを思い出す。
2001年8月。
愛知県芸術劇場コンサートホール。
真夏の夜の夢の序曲は散々な出来。
でも中プロのシューベルトの未完成は、
僕にとって忘れられない演奏体験になった。
その瞬間まで僕は、
コンサートマスターというのは
団員を演奏面でリードする存在だと思っていた。
あるいはコントロールするくらいの勢いでいた。
でも二楽章のオーボエソロの伴奏中に、
僕は気づいた。
僕なんかが、この2キロにも満たない脳みそであれこれ考えても、どうにかなるわけがない。
所詮世界の一部に過ぎないのだから、
この音の流れに、飛び込めばよいのだと。
もう楽譜の残りは僅かだったけど、あの時間は最高の演奏体験だった。
当時の僕は、色々あって他人を信頼できない辛さを抱えてたから、無意識のモーメントによる、神秘的な奇跡だといえばそれまでだけど、
客席に届いた音はどうであれ、
個人的な演奏体験としては、
あの時間の密度は、それこそ人生を変えるくらいのレベルだったと思う。
音楽というのは、
人の原始的な部分にアプローチする力があるからこそ、
そういった要素があるのではないかと思う。

僕は世界の一部であり、
同時に世界は僕である。

その時個人は溶解し、
時間は永遠になる。

今夜も僕は一週間ぶりに楽器ケースを開け、
ブダペスト在住の背の高い大きな手のグミナール氏が、
2007年に作ったバイオリンを弾いている。
楽器は弾かれる事を前提に作られたもの。
つまり誰かの行為によって、その目的が完結する運命を背負っている。
だから、こうして週末の夜に
ケースから出して弦を震わせる事は
単に楽器を鳴らす以上の意義がある。

張られているドミナントは一年以上張り替えていない。
そろそろ交換しなくては。




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スコアリーディング

アマオケにいた頃、
柄にもなくコンマスをやっていた事がある。
まったく無謀も無謀。
今思えば恥知らずもいいところだ。
その頃、馬鹿なりに発表会の曲のスコアを買って、
しこしこと読んでいた。

楽典の知識は、
もともと系統だって教育されていない。
スコアリーディングについて初めて習ったのは、
山梨の大学オケで、
楽器を手にして間もない頃。
当時オケが音楽監督として依頼して
トレーニングをうけていた指揮者が、
団員向けに楽典講座とか、スコアリーディングとかのレクチャーをしてくれていた。
穴埋めプリントまであって、
それをもとに先輩から指導されながら、
夜中の大学の講義室で、
ちょーたんたんちょーちょうたんたん
とか唱和していた。

ドミナント、サブドミナント
平行調、同主調

本業であるはずの機械工学そっちのけで
いかれたみたいにやっていた。
その時代、その大学オケは留年率が非常に高く、
教授陣から批判の目が向けられていた。
本業に背を向けて、
一種のゲリラみたいな存在。

馬鹿といえば、馬鹿の一言で片付けられる事柄。
大人の目線から見れば、
馬鹿だと、それだけの事だけど、
本業から離れた所で夢中になれる場所ってのは、
確かに危険だけれど
魅力的ではあるのもまた確かである。
この怪しさを知ってる事は、
その後の人生をたくましく乗り切る燃料くらいにはなると思う。
僕は今、実感を持って断言するくらいの自身は持ち合わせている。

スコアリーディングの知識は、
そんな夜のゲリラ的な教育によって身につけた。
あとはほぼ独学。
勿論その後も場所は違えども、
学生オケにはいたから、
みんなで依頼した指揮者の先生から、
いろんなことを学んだ。

系統立ててアカデミックには学んでないけど、
例えば、代々畳屋をやっている家の小僧が、
跡を継いでしばらくして、
ああそういや親父が昔あんなこと言ってたなあって
ふと思い出すような程度の、
つまりは整理されない形での知識は摂取していた。
きっとそれは価値ある原石だったはずだが、
本来の価値を発揮できる可能性は、
その後の運命に丸投げだったような、
つまりは大事なことを紙に認めて、
それこそラムの瓶に詰めて無人島から海に投げ捨てるような、そんな未来への無責任な投資だったのかもしれない。

アマオケで僕は、
そんな知識を引き出しに、
あとはヤマハで買った本だとかを頼りに、
拙い知識で
ベートーヴェンやモーツァルトのシンフォニーだとかを、ひたすら読み込んだ。

断言できるが、アカデミックな教育を受けてない身であっても、ベートーヴェンのシンフォニーは、最高に楽しい読み物だと思う。特に第九は最高だ。
ベートーヴェンは作品に誰もが納得できるような説得力を持たせようとしていたと思う。
それがスコアから立ち上がろうとする時、
彼がみんなに分かってもらおうとする意思が、
100年以上の時を越えて、まだ生きているように感じられた。一種の生きた祈りみたいなもの。
こんなズブの素人ですら感動するんだから、
遠い国の、昔々の人なんだけど、
やっぱりベートーヴェンは偉大だと思う。

さて、今夜僕は
ベートーヴェンではなくて、
ジェローム・カーンを読んでいる。
ALL THE THINGS YOU ARE
変な曲だ。
72小節中8回も転調している。
(8回という数は正しいかどうかわからない。例のごとく素人の判断で不器用にやった作業の結果だから)
アドリブを一本の線で作るには、この転調の波を綺麗に乗り越えるスキルが必要なんだけど、
それにはやっぱり、こうした分析が必要なんだなあと、あらためて思う。
autumn leavesなんて、テーマの雰囲気とキーのスケール、あとオカズのブルーノートでとりあえずは様になるけれど、
この曲はそうはいかない。でも、うだうだコードネームを眺めながら、ドミナント探して、これかなどうかなってやるのも、何だかんだいって楽しい気晴らしだと思う。
なんてったって、ALL THE THINGS YOU AREは名曲。
すごくモダンで都会的な響きが、どんな仕組みで出来ているのか、気になるといえば気になるのです。
スタンダードナンバーだし基本的な曲だから、
ネットを検索したら、解釈なんて沢山書いてあるに違いないけれど、
楽譜とにらめっこで、自分なりにやってみるのは
趣味としてはなかなか楽しい。
音階練習は、いつも全調でやってきたけれど、
これは転調の多い曲をやる時かなり力になる。
あと、三種類のディミニッシュ分散和音が、
こんなにも便利なもんだとは思わなかった。




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ごちそうさまでした。

演奏会が終わりました。
腰や顎が壊れそうなので、何年かぶりで肩当をつけたら、自分の音がモニターできなくなりました。
本番中、音程がひどいことになってたかも。

マーラーは、どっぷりと浸かって弾くと妙な興奮が得られます。ドロドロとした何かが、音楽の底で負のエネルギーを物凄い力で発しているような。目ん玉ひん剥いて没入すると楽しいけど、しんどいですね。疲れちゃう。
リヒュルトは、譜面は難しいけれど、歌えるようになれば何とかなるというのは、数年前にやったツァラトゥストラと同じ。気合いと歌心で乗り切れる?
モーツァルトは、頑張って弾く音楽ではないんだなと、あらためて感じました。頑張らないけど素直に丁寧に、あと朗らかに弾くと、雨上がりの水滴に濡れた、庭に咲く小さな花が浮かび上がる感じ。例えばの話です。
ファゴットって本当に優しい音がしますね。近くで聴けて楽しかったです。

オケは、これでおしまい。
ごちそうさまでした。

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真っ黒い穴

明日は大学オケの同窓会の演奏会です。

個人的には、これで一区切りにしたいと思います。
オーケストラで弾く事は、当分ないでしょう。

なぜだか分からないのですが、
もう昔のように楽しめないのです。

無論、集団で生み出す音の流れを感じて、サーフィンすることは楽しい。
別に全く弾けないわけでもない。
でも何処か虚しいのです。

これといった理由は思いあたりません。

ただ真っ黒い穴が、いつも傍にぽっかりと空いていて、
どんなに僕が盛り上がっていても、
その穴はずっとそこに在り続けているような感覚。

オケで弾いていようが、仕事してようが、誰かと談笑してようが、
穴はいつも、そこにぽっかりと空いていて、
それが時にたまらなく無気力にさせる。

この穴、ブラックホールなんでしょうか?


愛知教育大学管弦楽団同窓会第13回演奏会

日時:2017年8月19日(土) 13:30
場所:パティオ池鯉鮒(知立市文化会館)
曲目:
マーラー 交響曲第1番「巨人」ニ長調
モーツァルト ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191(186e)
リヒャルト・シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」組曲

指揮:米津 俊広
ファゴット独奏:新山王 政和


とんだ紹介ですね。
自己中にも程がある(笑)

演奏会自体はすばらしいんです。
みんな仕事やら何やかやの合間に練習頑張って、
本当に素晴らしい。
何にも問題ない。





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アドレナリンの暴走

土曜日は、夏の演奏会に向けた練習のため北名古屋。
高速を降りてジャンボプール脇にあるホールまで。

10時から16時まで、昼にトイレに行ったり、ボウイング写したりする以外は、殆どずーっと楽器を弾いていました。オケの合わせが休憩の時も、ひたすら弾きまくる。
アドレナリン大量放出のため空腹を感じない。
ちょっとした病気です。

ステージはそんなに広くないので、僕の左隣はホルンの列。
普段のテンションだったら、その音圧に身動きできない程に打ちのめされるのでしょうが、多分相当な興奮状態で、例えば額から血が流れていようが、痛みを感じないくらい。そのホルンと自分の楽器の音をリンクさせてやろうってくらいな意気込み。楽譜は殆ど暗譜ですから、勝手に指が回ってゆく。

マーラーの巨人、四楽章のテンポを速めにさらってしまったようで、自分の身体感覚を修正する必要がありました。この楽章のはやいところは、ダンスみたいです。割れよとばかりに楽器をかき鳴らす。
楽器はさすが弦を張り替えたばかりでしたから、こんな力づくの要求にも、よく反応してくれました。
身体の面では肩甲骨の間が疲れていましたが、一晩寝たら治りました。

無茶苦茶に邪道な個人練習の成果か、とりあえずフリーズせずに乗り切れたのは良かったです。
こんな時に基礎練をすると格段に楽器を弾くのが楽になります。音階練習やらセブシックの移弦練習、ポジションエチュード、あとクロイツェルなんかを丁寧にやるとみるみる身体が軽くなる。

こんな感じであと数回の練習を、
乗り切ろうと思っています。

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演奏会に向けて

ああだこうだ言っても、
8月になれば演奏会がある訳ですし、
一旦参加するって言ったんだから、
どんなメンタルだろうが、
結局は準備するしかない。

あれから一ヶ月。
マーラーとリヒャルトを、
ある独特なやり方でさらっています。
邪道も邪道ですが、
乗り切る事が目標だからしょうがない。

まずパート譜をできるだけ暗譜する。
多分、昔からそうしていたと思います。
じゃないと弾けない。
初見?
楽譜は録音が発明される以前における、
記録と伝達のツールです。

次に音源と合わせて弾く。
人によっては怒られかねない方法。
これまた、大々的に採用。
イヤホンでエリアフ・インバル指揮のフランクフルト放送交響楽団と共演。
耳の記憶というのは、眼より野生的というか、本能的というか。反射との結びつきが強い。
だから、そこを刺激しながらやっていくと、
同じ練習でも、使える練習にできるかも。

邪道と知ってのこと。
スコアを読み込むのが一番なんだろうけど、
残念ながら、3ページくらい見たところで眠ってしまうのです。
その点ブラームスやベートーベンのスコアは、
幾何学的に面白くて、比較的飽きなかったのだけど。


息子の楽器のサイズアップのついでに、
自分の弓の毛替えをしてもらいました。
ついでに、張ってから一年になる弦を交換。
音が見違える程出しやすくなりました。
音の反応が早い。

マーラーの巨人冒頭のフラジオレットが、出しやすくなりました。フレッシュな弦は弾きやすいです。




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音楽は



好きなときに始めて、
好きなときに終わる。

そんな営みだって、
ちゃんと音楽と呼んでくれるかしら。

向かいにある蜜柑畑の虫の声。
ある意思の下に発せられし音を、
仮に音楽と呼ぶなれば、

鳴声然り、
人の会話然り、
まな板叩く包丁の音然り。

少なくとも音楽は、
幾何学的な枠の中で構築された、壮大な構造体でのみある訳ではない筈。

4歳の娘ちゃんの
たどたどしい唄声が、
何よりの証拠。

僕は、そんな娘ちゃんが、
鼻歌を歌うみたいに、
バイオリンを弾けたら、
もうそれでいいんだ。




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もうやめよう





もう充分じゃないだろうか。
自分で言うのもなんだけど、
ここまで不器用なりに、
よく頑張ってきた。

車のハンドルを握り、
夕空を眺める。

空っぽの頭。
空っぽの心。




オケの練習が
意識はできてないだけで、
実は苦痛だったのかもしれない。
昨日今日の話じゃない。
それこそ学生オケの頃から。

沢山の刺激がいっぺんに入ってきて、
まともに対処できない。

頭は興奮状態
というかパニック。
そんな時も、周りは一時だって待ってなんかくれない。
いつだって音楽は流れ続ける。

フリーズしてしまう。
それは部屋で何度もさらった箇所。
パート譜のその部分、
目では捉えているし、頭の中で音が鳴る。
でも、身体が反応しない。
かと言って、ぼーっとしている暇はない。
列車は走り続けるのだから。

だめだ、弾けない。
また落ちた。
ここは、一小節いくつ振りだ?
ボウイングが前のプルトと違うじゃないか。
ボウイングを写さなきゃ。
えーっと、この部分はどんな指使いだったかな。
え?ここは、そんなに速くなるの?
ロングトーンが木管と、どう考えてもハモってない。
そもそも楽譜上ハモらないのか?
あ、置いてかれた!
今はどこだ?
テンポは?
頭拍が分からない!
次はどこから?練習番号の何番?それはパート譜のどこのこと?
空間が歪んでいく。

弓が弦の上でパニック状態。
周りを気にし過ぎるから、
音を控えめにするために、
次第に浮かせ気味で、歯が浮いたような音しか出せなくなる。
そのままfffでトレモロ刻むから、
右手に力が入り、
弓は変な方にズレてしまう。

物理的にも精神的にも、
自分の音がモニターできない。
一種の浮遊状態。
頭の中で鳴る音と、
周りの音がリンクせず、
体の動きに対して、音のフィードバックが無い。
すると、いつしか自分の身体が空間に実体を留めなくなる。
冷や汗、
次に手の感覚が無くなり

そして固まる。


時計を見る。
あと10分がんばれば、
予定では、練習が終わる。

ひどい頭痛。
周りに気を遣わせないためにも、
笑顔は取繕わねばならない。

最終的には、なんとか隣の人や周りの動きをマネするだけ。

自分が何故ここにいるかすら分からない。

昔から、
多分全体の半分以上、
僕はこんな感じだったのかもしれない。

ただ、音楽が好きだったし、
憧れもあったから、
いつも歯を食いしばって頑張ってきた。
おまけに無理してることに、
本人は全く気付いていなかった。

最近、もういいんじゃないかなと思う。

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居心地の悪さ

ああ、
楽しく弾きたい。
楽器を弾く事で心からウキウキしたい。

もちろん、
楽器ケースを開けて、
音を出すだけで既に、
心は浮き立つけれど、

楽器を使って、
日々の生活を、
もっと生き生きできないかなあ。

オケでクラシックばかり弾いてきたけれど、
そもそも、クラシックは、
そんなに好んで聴いちゃいない。
バイオリンって楽器自体は好きだけど。

多感な頃にオケという集団で過ごしたせいで、
これまで、オケで弾くことに、
特に疑いなんて抱かなかったけれど、
そもそも、僕がしたいのは、
それだったかというと、
正直分からない。

僕はただ、
楽器で音楽をしたいだけなんだけど、
特にオケがしたいとか、
古いヨーロッパのシンフォニーなんかを弾きたい訳では、もともとは、そうじゃなかったんじゃないかなあと、

こんな年になって、今更だけど、
ぼんやりと思う今日この頃。

昔から、
たまにオケで感じる、
あの奇妙な感覚。
それは、ちょっぴり嫌な気持ち。
あれは、どんなに基礎練習をしたって、
どんなに演奏技術が向上したって、
多分根本的な解決にはならない。
あの場違いな気分。
胃の底から来るような、
居心地の悪さ。
これは、いくら練習しても、
たとえ上達したとしても、
多分変わらないかな。

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不器用なサーフィン

夏の演奏会に向けて
日曜はオケの練習日。
何はさておき、
オケという場で、
楽器が弾ければ
ただそれだけで、
とにかく満足。

譜読みのストレスは、
昔も今も同じ。

ただ、昔と違うのは、
周りの音を感じられる程度の、
「いいかげんさ」を持てるようになったこと。

上手に弾こうとか、
いい音を出そうとか、
はたまた無謀にも、
何か表現してやろうとか、

そんな諸々については、
おそらく今はもう、
どうだっていい。

大きな音の流れに
なるべく長く乗っかっていたい。
サーフィンみたいに。
僕が今、オケで弾く事に求めているのは、
波乗りに近い楽しみかもしれない。


サーファーが、よい波をとらえた時みたく、
集団の生み出すリズムや、
曲のハーモニーの流れに乗っかれた時は、
まさに至福の時間。
世界は僕で、僕は世界な気分。

一方、波に上手く乗れずあたふたする時は、
ぽつんと一人、世界から取り残された気分。
ものすごく落ち込む。

若い頃はこの孤独感に、とてもじゃないが耐えられなかった。

精神的にもろく、繊細な人は、
あのタイプの孤独に対して、
過剰な自己主張、
或いは、まわりの世界への執拗な反抗によって対処する。
それを地でやってしまった愚直な若者こそが、
つまりは僕自身だったのだと思う。
なに、これは僕に限った話じゃない。

理由なき反抗

当の本人は、それなりに、
脇目も振らず、一生懸命。
言いかえるなら、
自分に一生懸命頑張っていた。
愚かなダンスに過ぎないにしても。

でも所詮、
孤独を感じようが、
まわりと一体感を感じようが、
一人は結局一人であり、
自分はいずれの場合も、
無くなりはしない。
ただ、それだけの事。

そんなことを言いながら、
僕は今だって
相変わらずに繊細で、
そして傷つきやすく、
他人に安心して心が開けない。
不器用な少年は、
不器用で屈折した大人になった。


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