ばよりん

相手が物である事の救い

最近仕事が忙しすぎて、
楽器ケースを開ける回数が減っていましたが、
ある日久しぶりに弾いたら、
何だか違和感を感じる。
楽器を右手にバイオリン、左手に弓を持っているような違和感。
あ、これは楽器と自分とが疎遠になるサインだと、ピンときました。
当たり前のように体に馴染んでいた道具が、
何だかよそよそしく感じられるという事は、
つまりは生活の中で、その道具の価値が以前と変わってしまうという事かもしれません。
相手が人ならまた別なストーリー展開がありますでしょうが、
今回の件に関しては、イニシアチブは全面的に僕自身にあり。
つまり僕が楽器を自分の方に引き止めようと行動すれば、この危機は何事もなかったように、あっさりと解決する。

なんてこたない。
単なる練習不足。

そんな時、一発で効く頓服みたいな方法がある。
といっても地味な基礎練習。
ボウイングと音階練習。
地味だけれど一番の近道。
30分で元の感覚が返ってきました。
関係修復完了。

バッハの無伴奏をとにかくゴーって音で鳴らして、
楽器を響かせて響かせて、
リハビリ終了。
身体はポカポカ、楽器も程よく汗ばむ。

気付いたら一年くらい弦を張り替えていません。
ドミナントがいい具合にヘタって、
発音や音程の誤差に寛容になっています。

でも別に切れてないし、
まあ替えなくていいかなとも思う自分がいます。
ただ自分の楽しみで弾くというのは、
つまりそういう事なんでしょうね。
誰かと一緒に弾くという事は、
自分の音に対する意識も同時に高まります。
自分が自分のために楽器を弾くという事だけのために、
楽器を所有し使用するのは、果たしてあるべき姿として自然なのだろうか。
弾き手と楽器という関係を超えて、
音楽である事を求めるなら、やっぱり他者の存在を想定しなくちゃならない。

つまり楽器はやはり、
手段以上でも以下でもない。

そして人という生き物は、
結局のところ、
一人きりでは完結できない生き物なのでしょうね。
音楽も人の営みである以上、
この運命とは無縁ではいられない。

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楽器の練習って基礎練習のこと?

楽器演奏全般でそうなのかは、わかんないけど、
弾けない弾けないって言いながら、
メトロノームカチカチしてゆっくりさらうような、
地道な作業をしても、一向に弾けなかったフレーズが、
あることをすると、ウソみたいに弾けるようになる事がある。
結論からいえば、それは世に基礎練習って呼ばれてるもの。
ほんとに不思議なんだけど、
音階練習とか、クロイツェルみたいなエチュードを無心にやると、今までうまくいかなかったあれやこれやが、ウソみたいに弾けたりする。
まさに雲が晴れて青空が見えたような気分。
気持ちいいの一言。
あれは何だろうって、いつも思います。
だって、ある曲を弾くために練習するとしても、
曲をさらうのは楽譜を理解するためであり、
実際演奏するためのスキルは、
曲ではなく基礎的な練習によって身につくという不思議。




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ニコロサンティに浮き足立つ連休前半

四月から異動になり、
それこそ最初の一週間は、
忙しすぎて曜日の感覚はおろか、
昨日今日も分からない程でしたが、
何とか連休まで壊れることなく、
無事でいられました。

休日は仕事の事を考えないようにしつつ、
自分の足元を見つめながら、
身体感覚を取り戻す事に努めました。

しばらくご無沙汰だったランニングも再開。
二週間ぶりに走ると、外の空気が大分と変化していることき気づきました。
気温もさることながら、
匂いが違う。

道路脇から、何とも言えない花の香りがしたり、
水を張った水田の前を通ると生臭かったり、
草むらから、ちょっと獣のような匂いがしたり。
別に野獣がいるとかじゃなくて、
なんか昔飼っていた芝犬の首輪の辺りのにおいのような、そんなんです。

汗だくで家に着くと、ふわぁって清々しい香り。
となりの蜜柑畑の樹に花が満開でした。


忙しさで気付きませんでしたが、
まわりの世界は、新しい季節に目覚め
生命力を高めているのですね。
大地の不気味な程のうごめき。

忙しいと過集中になる。
過集中になってる本人は気付かないけど、
でも、そんな時は大抵
身体はひっそりとサインを発している。

首が前に出ているのです。
斜角筋が縮まっている。
斜角筋は首から上位肋骨にかけてつながる筋肉。
そして、その収縮に対して補完する形で
首の後ろ、
つまり頭と首の境目あたりがキューって狭くなる。
そこから僧帽筋の収縮が始まり肩が上がる。

身体的な変化として自覚する症状としては、
呼吸の浅さや肩こり、あるいは頭痛。

このスパイラルを解くには、
ただその事に気付けばいいと、
最近気付きました。
でも、きっかけは必要です。
コツは、
「反対側にあるものを意識する」

これは暗示にも似ているような、
ある種の心理的テクニック。

具体的には、両方の肩甲骨の間を狭くして、
かつ下方に下げるように意識してみること。
背中にひっぱられた頭は背骨の上に乗り
バランスを取り戻す準備をはじめる。
あとは顎を引いて、ゆっくりと左右に顔を向けながら
頭はそんなに重くはないのだと確認できれば終了。

今日は午前中、家族で大高緑地へ。
小学三年生になった息子は、
一人ゴーカートデビュー。
慎重な運転。
慎重さというのは、大胆さと同じくらい大切だ。
でも大胆さ程の派手さがないから、
ついネガティブな評価を受けがちだけど、
僕は深い慎重さから生まれる大胆さこそが本物だと思っている。
だから彼の慎重すぎる性格を、僕はちょっぴり羨ましくもあり、誇らしくも思っている。
親バカといえばそれまでだけど。
慎重さは繊細さから来る面もあるから、
いろいろと大変な事もあるだろうけどね。

近くにあるショッピングモールで午後は買い物。
僕はここ数年、
普段着のように気軽に弾ける、ちょっと雑に使っても心が痛まないようなバイオリンを探しているんだけど、
今日島村楽器で試奏させてもらった
ニコロサンティって楽器はかなり良かった。
五万円いかないビギナーズセットながら、
かなりのクオリティ。
たしかに音量は物足りないかもしれないけど、
操作性は三十万以上の楽器と遜色ないです。
むしろ状態の悪い三十万くらいの古い楽器よりいいんじゃないかと思えるほど弾きやすく反応もいい。
弾いていてちゃんと手応えがある。
音は飛ばないけど音色はストレスなく温かい。
これは大切な要素。
楽器を弾く温かさを感じられるのは、
趣味で楽器を楽しむ上で重要な事です。
別に大きな音なんか出なくていいのよ。
セットで五万円以下!
マイスター茂木最高!
バイオリンってさ、
本来もっとカジュアルな楽器でもいい筈だから、
手頃な価格設定で、
このくらいなクオリティの製品が、
もっと世の中に出回ったらさあ、
バイオリンは、お金持ちの坊っちゃまが嗜むもの
だとか、
バイオリンは、幼少期からやらないとマスターできないもの
だとかいったような、
昭和の頃にまことしやかに語られていたような事が、
バカらしく思える日だって近いかもしれませんよね。
いい物弾かせていただきました。
GOSTOSO!



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根本さえつかめたら

多分長くやればやるほどに、
これこれは、こういうもんだと、
いつしか勝手に決め込んでいる。
しかし彼らの言う普通とは
「彼らの」普通でしかない。

それぞれの普通を主張したって、
多分何の解決にもならない。

新しい「普通」を生み出す意識を、
お互い心の片隅に持つこと。

僕たちに見合うような、
新しい価値観を、相手と探すんだって覚悟は、
違う誰かとコミュニケーションする際の
言わばお守りのような物。

これを心に持って人と接すれば、
人に自分を非難される痛みや、
批判から自己を守る為にする様々な取り越し苦労から、
ちょっとだけ解放されるかも。

大切なのは、
方法ではない。
根拠であり、目的、意図なんじゃないだろうか。

どんな多様な文化的背景を背負った集団であっても、
共通の目的によって集まったのなら、
その目的を明確にすれば、
新しい価値基盤を生み出せるに違いない。
それは繊細だけれどダイナミックな企て。

物語を生み出す。

僕はこの手の事を考える時、
大学オケで初めてコンサートマスターをした時のことを思い出す。
2001年8月。
愛知県芸術劇場コンサートホール。
真夏の夜の夢の序曲は散々な出来。
でも中プロのシューベルトの未完成は、
僕にとって忘れられない演奏体験になった。
その瞬間まで僕は、
コンサートマスターというのは
団員を演奏面でリードする存在だと思っていた。
あるいはコントロールするくらいの勢いでいた。
でも二楽章のオーボエソロの伴奏中に、
僕は気づいた。
僕なんかが、この2キロにも満たない脳みそであれこれ考えても、どうにかなるわけがない。
所詮世界の一部に過ぎないのだから、
この音の流れに、飛び込めばよいのだと。
もう楽譜の残りは僅かだったけど、あの時間は最高の演奏体験だった。
当時の僕は、色々あって他人を信頼できない辛さを抱えてたから、無意識のモーメントによる、神秘的な奇跡だといえばそれまでだけど、
客席に届いた音はどうであれ、
個人的な演奏体験としては、
あの時間の密度は、それこそ人生を変えるくらいのレベルだったと思う。
音楽というのは、
人の原始的な部分にアプローチする力があるからこそ、
そういった要素があるのではないかと思う。

僕は世界の一部であり、
同時に世界は僕である。

その時個人は溶解し、
時間は永遠になる。

今夜も僕は一週間ぶりに楽器ケースを開け、
ブダペスト在住の背の高い大きな手のグミナール氏が、
2007年に作ったバイオリンを弾いている。
楽器は弾かれる事を前提に作られたもの。
つまり誰かの行為によって、その目的が完結する運命を背負っている。
だから、こうして週末の夜に
ケースから出して弦を震わせる事は
単に楽器を鳴らす以上の意義がある。

張られているドミナントは一年以上張り替えていない。
そろそろ交換しなくては。




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バイオリンセラピー?

自分の心を守るためにと、
休日は仕事の事を考えないよう決意しても、
ふと気を抜けば
やはり考えている。

うっかり昼寝をしても
不本意ながら夢の中でさえ、
仕事の段取りを考えていた。
後味の悪い寝覚め。

しばらくぶりに楽器を弾いた。
指のたこが治って、
弦を押さえると少し痛い。
音階練習をゆっくりやって、
iPadで伴奏アプリを鳴らしながら、
ALL THE THINGS YOU AREを弾いて、
アドリブフレーズを試してみたり、
適当な楽譜(バッハの無伴奏だとか)をゆっくり弾いてみた。
最近は、よくメンデルスゾーンの協奏曲をさらっている。モノにしようなんてこれっぽちも考えてなんかいないけど、キレイなメロディは弾いていて楽しい。
指を動かす行為は、頭を空っぽにできる。
三楽章をひたすらメトロノームでさらうんだけど、
これがまたなかなか癒される。

調子に乗って、昔弾いたオケのパート譜なんかを引っ張り出して弾いてみると、昔と全く違うアプローチで楽譜を把握しようとする自分がいた。
楽譜は同じでも捉え方や弾き方は無数にある。
音楽は、思った以上に自由だし多様らしい。



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クラシックとジャズと

クラシックも確かに楽しい。
書かれてある楽譜の情報を、
細かく読んでいくと、
そこには明確な意図があって、
理屈がある。
意図なり理屈がみえると、
途端に仲良くなれる。
つまり信頼関係が生まれる。
100年以上地下に閉じ込められていた誰かを救出したような感覚。
遺された楽譜の音符を、
胸躍らせるながら紐解く感覚。

もし正解がある事を前提でやれば、
すごいストレスなんだろうけど、
その行為自体は、
本来とても温かくて、
人間的な営みだと思う。

遠い昔の遠い国の誰かが、
遠い将来の遠い誰かに手紙を書いた。
言葉は国ごとに違うから、
もっと物理的に分かりやすい形で遺す。

楽譜というのは、その意味では合理的な記号だといえるかもしれない。

それを、遠い未来の誰かが
親しみを持って読み取ってゆく。

それは愛だと思う。

対象は作曲者であると同時に、人類全般に向けたものであるとも思える。

クラシック音楽が考古学的な意味ではなく、
価値があるというのは、
そこに理由があるんじゃないかと、
僕は個人的に信じています。

ジャズについては、
近いけれどまた違う意味がある。
これはもっとスポンティニアスな捉え方がなされている。
楽曲の枠組みに寄生しながら、
その中で今を生きる。
そうするためには、
寄生する対象を、
それこそ自分自身であるかのように、
分析し、受容しなくてはならない。
つまり、
あなたのこの行為には、
全面的にリスペクトしつつも、
そこにはまだ語られていない可能性がありますから、
それを再構築して、今の時間に還元します。
そうする事によって、
この作品を、今の時間に新鮮な意味を持って存在させる事ができるのだと、
つまりはそれがジャズ的なスタンダードに対する立ち位置なんじゃないかなあと、
勝手に思います。


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スコアリーディング

アマオケにいた頃、
柄にもなくコンマスをやっていた事がある。
まったく無謀も無謀。
今思えば恥知らずもいいところだ。
その頃、馬鹿なりに発表会の曲のスコアを買って、
しこしこと読んでいた。

楽典の知識は、
もともと系統だって教育されていない。
スコアリーディングについて初めて習ったのは、
山梨の大学オケで、
楽器を手にして間もない頃。
当時オケが音楽監督として依頼して
トレーニングをうけていた指揮者が、
団員向けに楽典講座とか、スコアリーディングとかのレクチャーをしてくれていた。
穴埋めプリントまであって、
それをもとに先輩から指導されながら、
夜中の大学の講義室で、
ちょーたんたんちょーちょうたんたん
とか唱和していた。

ドミナント、サブドミナント
平行調、同主調

本業であるはずの機械工学そっちのけで
いかれたみたいにやっていた。
その時代、その大学オケは留年率が非常に高く、
教授陣から批判の目が向けられていた。
本業に背を向けて、
一種のゲリラみたいな存在。

馬鹿といえば、馬鹿の一言で片付けられる事柄。
大人の目線から見れば、
馬鹿だと、それだけの事だけど、
本業から離れた所で夢中になれる場所ってのは、
確かに危険だけれど
魅力的ではあるのもまた確かである。
この怪しさを知ってる事は、
その後の人生をたくましく乗り切る燃料くらいにはなると思う。
僕は今、実感を持って断言するくらいの自身は持ち合わせている。

スコアリーディングの知識は、
そんな夜のゲリラ的な教育によって身につけた。
あとはほぼ独学。
勿論その後も場所は違えども、
学生オケにはいたから、
みんなで依頼した指揮者の先生から、
いろんなことを学んだ。

系統立ててアカデミックには学んでないけど、
例えば、代々畳屋をやっている家の小僧が、
跡を継いでしばらくして、
ああそういや親父が昔あんなこと言ってたなあって
ふと思い出すような程度の、
つまりは整理されない形での知識は摂取していた。
きっとそれは価値ある原石だったはずだが、
本来の価値を発揮できる可能性は、
その後の運命に丸投げだったような、
つまりは大事なことを紙に認めて、
それこそラムの瓶に詰めて無人島から海に投げ捨てるような、そんな未来への無責任な投資だったのかもしれない。

アマオケで僕は、
そんな知識を引き出しに、
あとはヤマハで買った本だとかを頼りに、
拙い知識で
ベートーヴェンやモーツァルトのシンフォニーだとかを、ひたすら読み込んだ。

断言できるが、アカデミックな教育を受けてない身であっても、ベートーヴェンのシンフォニーは、最高に楽しい読み物だと思う。特に第九は最高だ。
ベートーヴェンは作品に誰もが納得できるような説得力を持たせようとしていたと思う。
それがスコアから立ち上がろうとする時、
彼がみんなに分かってもらおうとする意思が、
100年以上の時を越えて、まだ生きているように感じられた。一種の生きた祈りみたいなもの。
こんなズブの素人ですら感動するんだから、
遠い国の、昔々の人なんだけど、
やっぱりベートーヴェンは偉大だと思う。

さて、今夜僕は
ベートーヴェンではなくて、
ジェローム・カーンを読んでいる。
ALL THE THINGS YOU ARE
変な曲だ。
72小節中8回も転調している。
(8回という数は正しいかどうかわからない。例のごとく素人の判断で不器用にやった作業の結果だから)
アドリブを一本の線で作るには、この転調の波を綺麗に乗り越えるスキルが必要なんだけど、
それにはやっぱり、こうした分析が必要なんだなあと、あらためて思う。
autumn leavesなんて、テーマの雰囲気とキーのスケール、あとオカズのブルーノートでとりあえずは様になるけれど、
この曲はそうはいかない。でも、うだうだコードネームを眺めながら、ドミナント探して、これかなどうかなってやるのも、何だかんだいって楽しい気晴らしだと思う。
なんてったって、ALL THE THINGS YOU AREは名曲。
すごくモダンで都会的な響きが、どんな仕組みで出来ているのか、気になるといえば気になるのです。
スタンダードナンバーだし基本的な曲だから、
ネットを検索したら、解釈なんて沢山書いてあるに違いないけれど、
楽譜とにらめっこで、自分なりにやってみるのは
趣味としてはなかなか楽しい。
音階練習は、いつも全調でやってきたけれど、
これは転調の多い曲をやる時かなり力になる。
あと、三種類のディミニッシュ分散和音が、
こんなにも便利なもんだとは思わなかった。




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10年



久しぶりに楽器を弾く。
などと言っても、三日ぶりだけど。

銀色の楽器ケースを開けて、飴色の愛器と再会。
2007年製のブダペスト生まれ。
作者はストラディバリウスとかグァルネリデルジェスのレプリカを得意だと、あの日店員が話していたのを思い出した。一番太い弦を弾くと裏板がビンビン響いた。
弾く事で身体がどんどん暖かくなる感触。
普段買い物に関しては、慎重に慎重を重ね、
熟考したあげく結局は買わないような僕が、
弾いたその場で意思を固めた。2008年のこと。
あれから10年。

楽器の反応が良いという事は、
演奏面で大きな影響があったと思う。
何かを意図して楽器に働きかけ、
それに対して何らかの反応が楽器からあり、
またそれを感じる事で次の働きかけを生み出す。
一種のコミュニケーションだと思う。
楽器と人とがやりとりしながら、
お互いに育ってゆく。
そんな僕と楽器との閉じた時間が、
この10年、
崩れかけそうになる僕自身の心を、
どれだけ支えてくれた事だろう。

楽器をケースから取り出し、
左の鎖骨にのせる。
鎖骨に裏板の縁が当たりコツンと響く。
この音を聴くのが好きだ。
身体と楽器が握手する。
箱の響きを自分の胸郭の一部だと受け入れる感じ。
Bluetoothのペアリングみたい。
この感覚を大事にしたいから、
肩当ては使っていない。

弓を手にする。弓を持ったまま右手の小指でクルクルとネジを巻く。
弓の張りを作るためだ。
弓の毛は季節の変化に気付かせてくれる。
湿度のせいだと思うが春は若干ゆるむ。
弦を鳴らすと楽器も響くが、
弓も響いている。
弦から浮かすのと弦に押し付けるのとの中間の、
しっかりと詰まった充実感の先に、
弓の響きが生まれるようだ。
僕は演奏技術が足りないから、
その状態を思うままに再現できないけれど、
ふとした時に色んなもの、
弦の響きだとか、楽器の箱、弓の幹が共鳴しあって、
同時にそこに触れている自分自身も震えていると感じられた時の、
例えば毛布にくるまれながら、
優しく抱きしめられたような、
あの安心感は、
かけがえのないものだと、いつも思う。

ゆっくりとボウイングを始める。
はじめはG線、
弓の根元から先まで。
大きな太い線を塗りつぶすみたいに。
弓の返しの直前まで息を込める。
弓の長さを感じながら、
自分の身体が空間の中でどれだけの範囲に存在しているかを身体で感じる。
隣の弦に移る。D線。
一番無理のない音がする。
両隣の弦からの共鳴によるサポートが得やすいからか、
弦自体の響きがよくわかる。
A線。
少し頼りないけれどプレーンな音。
そしてE線。
外交的な音。
我が強くなるとなぜかわからないけど音が下品になる。
所詮こんな細い弦だけでは、世界を揺すぶる事なんてできないんだ。
身の丈を知るE線の響きは、もっと透明で清潔感のある音なのかもしれない。
未熟な僕には、なかなかそんな音
出せないけれど。

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涙のキッス

普段は別にそうじゃないけど、
ある時ふと、たまらなくサザンが聴きたくなる。
そんな人、ある年齢層に於いては、
そこそこの割合でいることと思う。
こう言う僕も、実はそっちの部類だ。

僕の住む地方はそうでもないが、
たまに見るニュースによれば、
ここ数日、例年にない積雪がある地域がたくさんあるらしい。
もっとも「例年にない」なんて言葉の、それ自体の特殊性すら、枕詞くらいにしか感じられない程に、(枕詞はピロートークの和訳ではありません)ここ10年、あるいは20年の気候は、例年という言葉を置き去りにして、ある処へとジリジリと向かっているらしい。

そんな土曜の昼下がりに
どうしてサザンが聴きたくなったのか、
僕自身にもわからない。
大抵こういった類の感覚は、
特別な理由もなく、
突然に、さもそれが公然の事実であるかのように、
目前に現れるものだ。

昼下がり、
ソファで横になり、
イヤフォンを耳に突っ込む。

アルバム名は
World Hits!? of Southern All Stars
演奏は
関口和之&砂山オールスターズ

サザンであって、サザンでない?
僕は昔から、このカバーアルバムが好きだ。
リリースは2001年。

この6曲目に収録されている、
「涙のキッス」のボサノヴァバージョンが、
当時も今も、僕のお気に入りだ。
キーの3番目の音をフラットさせて歌っている。
これが気持ちいい。エグいブルーノート。
うっとりとリビングの白い天井を眺める。
そして世界は、
ゆっくりと僕を包み込みだした。



SONYがWALKMANを生み出した事に、
僕たちは心から感謝しなくてはいけない。
耳に入れたスピーカーで音楽を聴くという行為によって、
人は目の前の味気ない風景を、
一瞬のうちに何か別なものへと変換する手段を手に入れたのだから。

親密な距離で鼓膜を優しく揺らす音の波によって、
僕の脆い境界線に薄い膜が生まれ、
望むなら、
失いかけた自分がまだ此処にあるのだと、
確認する事だってできる。

青年期の僕は、周りの刺激に対して今よりもずっと脆かった。
まるで全身の皮が薄く擦り剥けてしまったかのように、
ちょっとした風に、跳び上がるくらい痛がった。
それに対し僕は、
自意識過剰になりながら、
そうなりがちな自己を抱えた若者が大抵そうであるように、
自身が周りの世界で自然に振る舞えるように、
自分の危うい感受性のアンテナを、
まるでそれが最高機密であるかのように、
細心の注意をはらいながら世間から巧妙に隠し、
外からの刺激によって傷だらけになっているのに、
あたかもそれを気にしていないように取り繕う事にばかりに夢中になっていた。

運悪く生まれつき、
敏感すぎるアンテナを持ってしまった人にとって、
ある意味に於いて、
音楽は救いになり得ると信じている。

ちなみにその頃の僕は、
毎日貪るように音楽を聴いていた。
たまたまそれはクラシックでり、古いジャズであり、
そしてボサノヴァだった。
暗闇の天井を眺め、スピーカーの傍に寝っ転がる。


音楽は奇跡だ。
そこに音楽が鳴っている事で、
空気の色が変わる。
見える景色が、
在るもの自体はそのままなんだけど、
全く別の風景に変わってしまう。

匂いのある音が好きだ。
空気を感じさせる音楽が好きだ。
息や体温で丁寧に温めた音の鳴る空間には、
匂いや、色がある。

真冬の低い太陽が、リビングの床にぽかぽかと照りつける。くっきりした影から湯気が立ち上る。

何となくわかり始めた。
過去の事。
記憶の整理。
別にそれをしたから、何か外的に変わるものではない。
だけど、今やトラウマみたいになっている過去の風景に、危うい感性によって自らかけてしまった呪いのような縛りを、ふわりと解きほぐせたなら、多分数ミリ程度だろうけど、僕の心は軽くなり、
今より少しは楽に生きられるようになるかもしれない。いや、なれないかもしれない。





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音楽談義から鯛の目玉、そしてギター無窮動へ

音楽は体育会系か、それとも文化系か
といったテーマで朝まで妄想生談義もいいけれど、
(ブラバンって指導の文化とか、どちらかといえば体育会系なんじゃないの?とか、ヴィルトゥオーゾ的な器楽演奏はある意味アスリート的だよなあとか、話題はいっぱいありそうです。)

例えば音楽は理系か、それとも文系かという妄想談義も、なかなかにいいかもしれない。
ちなみに僕としては、「音楽は自然科学的な強固な構造体によって、活動を制限されている本能である。」というのが個人的な見解なんだけど。
あえて理系か文系かといえば、
そのどちらとも言えないという点が、
つまりは、妄想のネタとして上質な部位であると思われる。マグロの頰肉みたいにね。

頰肉といえば、大学時代に食べた鯛の頰肉と目玉の味を思い出す。
家庭教師先が、とある業種の社長宅で、息子の勉強を教え終わると、毎週会社脇のカウンターのある寿司屋で晩ご飯をごちそうになっていた。
猿山の猿みたいに生気のみなぎった顔をした社長が、ビールのジョッキを手に赤い顔してよく話していた。
「先生よお、ウチの坊主馬鹿だからさあ、せめて〇〇大学でもいいから、大学って名前のつくとこに入れたいわけさ。そうすりゃ、とりあえず跡とりとしては格好がつくってわけだからさあ。だから、とりあえず高校に行けるように何とか頼むさ。高校受験合格したらさあ、家族でハワイ行くって決めてるからさ、先生も一緒に連れてくよ。なあに、部屋は別に取るからさあ、な、頼んだよ先生。」
鯛の尾頭付き。
毎週僕の目の前にやってくる。
「ほれ、この目ん玉がうめえんだ。せんせえ、早く食べなよ。」
コラーゲンたっぷりの目玉。僕はその手の食感が苦手であったが、半分無理しながら「あ、美味しいです。いつもありがとうございます。がんばります。」とか伏し目がちに言って、コップのビールで流し込む。
僕が好きだったのは、分厚い玉子焼き。
寿司屋で食べる玉子焼きって、何であんなに美味しいのでしょうね。

さて脱線もいいところ。
話題は音楽に戻ります。
僕はバイオリンを自分の好きなように、
やりたいように弾く事を、
いつしか夢見るようになってしまったのですが、
最近はクロイツェルではなくて
ギター無窮動なる教本をさらうことにハマっています。
ある基本のコード進行に沿って、延々と八分音符を弾きまくるもの。
これ一冊で、少なくとも二年くらいは楽しめそうです。




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