ばよりん

涙のキッス

普段は別にそうじゃないけど、
ある時ふと、たまらなくサザンが聴きたくなる。
そんな人、ある年齢層に於いては、
そこそこの割合でいることと思う。
こう言う僕も、実はそっちの部類だ。

僕の住む地方はそうでもないが、
たまに見るニュースによれば、
ここ数日、例年にない積雪がある地域がたくさんあるらしい。
もっとも「例年にない」なんて言葉の、それ自体の特殊性すら、枕詞くらいにしか感じられない程に、(枕詞はピロートークの和訳ではありません)ここ10年、あるいは20年の気候は、例年という言葉を置き去りにして、ある処へとジリジリと向かっているらしい。

そんな土曜の昼下がりに
どうしてサザンが聴きたくなったのか、
僕自身にもわからない。
大抵こういった類の感覚は、
特別な理由もなく、
当然の事実のように現れるものだ。
ふとカレーうどんが食べたくなるみたいに。

昼下がり、
ソファで横になり、
イヤフォンを耳に差し込む。

アルバム名は
World Hits!? of Southern All Stars
演奏は
関口和之&砂山オールスターズ

サザンであって、サザンでない?
僕は昔から、このカバーアルバムが好きだ。
リリースは2001年。

この6曲目に収録されている、
「涙のキッス」のボサノヴァバージョンが、
当時も今も、僕のお気に入りだ。
キーの3番目の音をフラットさせて歌っている。
これが気持ちいい。エグいブルーノート。
うっとりとリビングの白い天井を眺める。
そして世界は、
ゆっくりと僕を包み込みだした。



SONYがWALKMANを生み出した事に、
僕たちは心から感謝しなくてはいけない。
耳に入れたスピーカーで音楽を聴くという行為によって、
人は目の前の味気ない風景を、
一瞬のうちに何か別なものへと変換する手段を手に入れたのだから。

親密な距離で鼓膜を優しく揺らす音の波によって、
僕の脆い境界線に薄い膜が生まれ、
望むなら、
失いかけた自分がまだ此処にあるのだと、
確認する事すらできる。

青年期の僕は、周りの刺激に対して今よりもずっと脆かった。
まるで全身の皮が薄く擦り剥けてしまったかのように、
ちょっとした風に、跳び上がるくらい痛がっていた。
それに対して僕は、
自意識過剰ぎみになっていて、
自然に振る舞えるようになるために、
まるで最高機密のように、細心の注意をはらいながら、
痛みをひた隠しにし、
あたかも気にしていないように取り繕う事にばかりに夢中になっていたらしい。
らしいと言うのは、
つまり若い僕は、
そんな事知らなかったのだ。
無意識にしていた。
今は振り返れば、そうだったなという話。

運悪く敏感すぎるアンテナを、
生まれつき持ってしまった人にとって、
ある意味に於いて、音楽は救いなのかもしれない。

その頃の僕は、
毎日貪るように音楽を聴いていた。
たまたまそれはクラシックでり、古いジャズであり、
そしてボサノヴァだった。
暗闇の天井を眺め、スピーカーの傍に寝っ転がる。

音楽は奇跡だ。
そこに鳴っている事で、
空気の色が変わる。
見える景色が、在るもの自体はそのままなんだけど、
全く別の風景に変わってしまう。

匂いのある音が好きだ。
空気を感じさせる音楽が好きだ。
息や体温で丁寧に温めた音の鳴る空間には、
匂いや、色がある。

真冬の低い太陽が、リビングの床にぽかぽかと照りつける。くっきりした影から湯気が立ち上る。

何となくわかり始めた。
過去の事。
記憶の整理。
別にそれをしたから、何か外的に変わるものではない。
だけど、今やトラウマみたいになっている過去の風景に、危うい感性によって自らかけてしまった呪いのような縛りを、ふわりと解きほぐせたなら、多分数ミリ程度の事だろうけど、僕の心は軽くなり、
今より少しは楽に生きられるようになるかもしれない。いや、なれないかもしれない。

音楽は不思議だ。
幾何学的な論理的組み合わせで出来ている物が美しいわけでもないらしい。
チャーリーパーカーのソロを分析していると、
なんでそんな音使おうと発想するのかわかんなくなるようなことをしている。
理屈の上では、あまりしっくりしなくても、
音源を聴くと、バチって合っている。
パーカーが天才たる理由。

試しにコンファメーションのソロをしてみても、スイング時代のように、手癖でなんとなしにコードトーンとスケール、あとたまにブルーノートで遊ぶだけ。それなりに様にはなるけれど。
パーカー聴くと、モダンだなあと感心する。
バイオリンでJAZZは、なんだか難しいなあ。

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音楽談義から鯛の目玉、そしてギター無窮動へ

音楽は体育会系か、それとも文化系か
といったテーマで朝まで妄想生談義もいいけれど、
(ブラバンって指導の文化とか、どちらかといえば体育会系なんじゃないの?とか、ヴィルトゥオーゾ的な器楽演奏はある意味アスリート的だよなあとか、話題はいっぱいありそうです。)

例えば音楽は理系か、それとも文系かという妄想談義も、なかなかにいいかもしれない。
ちなみに僕としては、「音楽は自然科学的な強固な構造体によって、活動を制限されている本能である。」というのが個人的な見解なんだけど。
あえて理系か文系かといえば、
そのどちらとも言えないという点が、
つまりは、妄想のネタとして上質な部位であると思われる。マグロの頰肉みたいにね。

頰肉といえば、大学時代に食べた鯛の頰肉と目玉の味を思い出す。
家庭教師先が、とある業種の社長宅で、息子の勉強を教え終わると、毎週会社脇のカウンターのある寿司屋で晩ご飯をごちそうになっていた。
猿山の猿みたいに生気のみなぎった顔をした社長が、ビールのジョッキを手に赤い顔してよく話していた。
「先生よお、ウチの坊主馬鹿だからさあ、せめて〇〇大学でもいいから、大学って名前のつくとこに入れたいわけさ。そうすりゃ、とりあえず跡とりとしては格好がつくってわけだからさあ。だから、とりあえず高校に行けるように何とか頼むさ。高校受験合格したらさあ、家族でハワイ行くって決めてるからさ、先生も一緒に連れてくよ。なあに、部屋は別に取るからさあ、な、頼んだよ先生。」
鯛の尾頭付き。
毎週僕の目の前にやってくる。
「ほれ、この目ん玉がうめえんだ。せんせえ、早く食べなよ。」
コラーゲンたっぷりの目玉。僕はその手の食感が苦手であったが、半分無理しながら「あ、美味しいです。いつもありがとうございます。がんばります。」とか伏し目がちに言って、コップのビールで流し込む。
僕が好きだったのは、分厚い玉子焼き。
寿司屋で食べる玉子焼きって、何であんなに美味しいのでしょうね。

さて脱線もいいところ。
話題は音楽に戻ります。
僕はバイオリンを自分の好きなように、
やりたいように弾く事を、
いつしか夢見るようになってしまったのですが、
最近はクロイツェルではなくて
ギター無窮動なる教本をさらうことにハマっています。
ある基本のコード進行に沿って、延々と八分音符を弾きまくるもの。
これ一冊で、少なくとも二年くらいは楽しめそうです。




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指板の上でダンスできたら

バイオリンは、まだ弾いてます。
でもおけは、やってません。

右隣は五度上。
となれば左隣は五度下だけど、
四度上(のオクターブ下)ともいえる。
すると指板は五度圏のダイヤルのようになっていく。
楽器を構えた状態での指板の左右方向における関係性は、これまでさほど意識してませんでした。

例えばコードのルート(根音)からメロディを始めるとつまらないので、三度の音やせめて五度の音からと思うのですが、コードネーム見てぱっと反射的に動けない。
そこで見えてきたのがさっきの話。五度は右隣。三度は六度下って考えて左隣にある一つ下の音。六度は逆に右隣の一つ上。七度はルートの一つ下。なんて考える。画像として考えるとなんとかなるものですね。

街は秋が深まってきているからという訳ではないけれど、伴奏アプリを使って、最近は「枯葉」でアドリブしながら遊んでいます。使ってるの有料のアプリなんですが、最近のテクノロジーはすごいですね。テンポは勿論、リズムもさまざまに変えられます。ラテンとか、ボサノバとか。




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4本の弦

最近すっかり
このブログでバイオリンの話題を書いてませんが、楽器自体は、今でも弾いています。
ただ楽器演奏のテクニックに関する上達は、最近特に望んでいなくて、楽器の構造上の事(5度チューニングに関する特性)だとか、音楽の理屈についての事をちょっとずつ考えて確認しながら楽しんでいます。

この夏以来、以前みたいにはアマチュアオーケストラで楽しむ事ができなくなってしまったので、
今はもっと広い意味で、楽器を通じた楽しみ方を模索しています。
例えばジャズのアドリブ。マニアックなとっつきにくさがありますが、理論ばかりを優先すると、さっぱりアドリブにならず、感性のまま歌う事をすれば手数が足りず。つまりは両方を上手く脳内で構造化してゆく事が、この手の技術の習得方法なんだなあと思う今日この頃。

これは、クラシックのエチュードみたいに体系化が難しい事柄だろうなあと思います。
現にネットにはさまざまなメソッドだとか、理論だとかがあがってますが、実践におけるプレイヤーの認知過程にまで降りた説明はなかなかありません。
こういった事は楽譜やテキストでは、比較的伝わりにくいノウハウなんでしょうね。
この点、どこか外国語の学習にも似ています。
文法だとか、単語だとか、確かに必須だけれども、
これを脳内で再構築していかなくては、
使えるものにはならない。
使える日常会話を暗記するのは、無意味ではないけれど、そこから先に何か自分から発信するためには、脳内にある特定の回路を構築しなくてはならないんです。



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趣味ら蔵

趣味は大切な現実逃避の手段である。

先日、半ば強制的に職場からストレスマネジメントの研修に行かされたのだけど、(別に僕がストレスフルな日々を送っているからといった理由ではなく、ある年齢層の暇な人間を数人派遣しろといった上層からの指令による)その研修で話されたのが、仕事に関して使って疲労した脳を休めるには、その脳の部位から遠い場所の脳を使う事が有効だということ。
つまり脳内の血流が一箇所に集中せざるを得ない状況は、他に血流を流す以外に解決できないという事らしい。肩や腰みたいに、脳は揉みほぐせないからね。

だから趣味は、日常的に使わない脳の部位を刺激するものがいい。
僕にとってそれは絵を描く事であり、
楽器をいじる事である。
この部類の事柄の特徴は、
言語を用いないという事。
左脳ではなく、右脳優位な状況ともいえる。

最近、それに加えて新しい現実逃避のツールを発見した。
外国語学習である。
別に海外に逃亡したいわけではない。
外国語学習のシステムが、
僕の凝り固まった脳を自由にしてくれるようだ。

言語は何だって良かった。
日本に住んでいるなら、
ポルトガル語とかハングル語、中国語なんか実用的な気がするけれど、今回は実用目的ではなく、外国語学習のプロセスがその目的であるから、
なるべく、その学習ツールが手に入りやすい言語
つまりは、英語学習を使うことにした。

世間一般の人は耳を疑うかもしれないが、
ここ最近僕がやっている英語学習は、
ゴールがない。
つまり英語で誰かとコミュニケーションする事は目的ではない。
英語学習という行為自体が癒しになるのだ。

この感覚は、バイオリンの学習における、クロイツェル教本や音階練習を、演奏技術の向上を目的とするのではなく、その練習過程を通じた気持ちの安定を目的とする事に限りなく近い。

英語の言語感覚と日本語の言語感覚は、かなりな違いがある。そもそもソフトが違うのだ。さらにそれは、長い歴史の積み重ねの下に、民族のDNAに刷り込まれているような部類の感覚だ。例えば「株」と訳される場合もある英単語「share」この言葉と株が繋がる感覚は、英語ならではだと思う。株=stockって言い方もあるらしいけど、株=shareって、なんか本来の感じが出てる気がする。

外は大分と雨が降ってきた。
まだ月曜日。
もう日付けが変わってしまった。
厳密には既に火曜。
今夜も夜更かしをしてしまいました。
明日も仕事。
ストレスの海に頭から突入する覚悟をする事から、
日々の下らない日課は生まれる。



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ごちそうさまでした。

演奏会が終わりました。
腰や顎が壊れそうなので、何年かぶりで肩当をつけたら、自分の音がモニターできなくなりました。
本番中、音程がひどいことになってたかも。

マーラーは、どっぷりと浸かって弾くと妙な興奮が得られます。ドロドロとした何かが、音楽の底で負のエネルギーを物凄い力で発しているような。目ん玉ひん剥いて没入すると楽しいけど、しんどいですね。疲れちゃう。
リヒュルトは、譜面は難しいけれど、歌えるようになれば何とかなるというのは、数年前にやったツァラトゥストラと同じ。気合いと歌心で乗り切れる?
モーツァルトは、頑張って弾く音楽ではないんだなと、あらためて感じました。頑張らないけど素直に丁寧に、あと朗らかに弾くと、雨上がりの水滴に濡れた、庭に咲く小さな花が浮かび上がる感じ。例えばの話です。
ファゴットって本当に優しい音がしますね。近くで聴けて楽しかったです。

オケは、これでおしまい。
ごちそうさまでした。

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真っ黒い穴

明日は大学オケの同窓会の演奏会です。

個人的には、これで一区切りにしたいと思います。
オーケストラで弾く事は、当分ないでしょう。

なぜだか分からないのですが、
もう昔のように楽しめないのです。

無論、集団で生み出す音の流れを感じて、サーフィンすることは楽しい。
別に全く弾けないわけでもない。
でも何処か虚しいのです。

これといった理由は思いあたりません。

ただ真っ黒い穴が、いつも傍にぽっかりと空いていて、
どんなに僕が盛り上がっていても、
その穴はずっとそこに在り続けているような感覚。

オケで弾いていようが、仕事してようが、誰かと談笑してようが、
穴はいつも、そこにぽっかりと空いていて、
それが時にたまらなく無気力にさせる。

この穴、ブラックホールなんでしょうか?


愛知教育大学管弦楽団同窓会第13回演奏会

日時:2017年8月19日(土) 13:30
場所:パティオ池鯉鮒(知立市文化会館)
曲目:
マーラー 交響曲第1番「巨人」ニ長調
モーツァルト ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191(186e)
リヒャルト・シュトラウス 歌劇「ばらの騎士」組曲

指揮:米津 俊広
ファゴット独奏:新山王 政和


とんだ紹介ですね。
自己中にも程がある(笑)

演奏会自体はすばらしいんです。
みんな仕事やら何やかやの合間に練習頑張って、
本当に素晴らしい。
何にも問題ない。





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アドレナリンの暴走

土曜日は、夏の演奏会に向けた練習のため北名古屋。
高速を降りてジャンボプール脇にあるホールまで。

10時から16時まで、昼にトイレに行ったり、ボウイング写したりする以外は、殆どずーっと楽器を弾いていました。オケの合わせが休憩の時も、ひたすら弾きまくる。
アドレナリン大量放出のため空腹を感じない。
ちょっとした病気です。

ステージはそんなに広くないので、僕の左隣はホルンの列。
普段のテンションだったら、その音圧に身動きできない程に打ちのめされるのでしょうが、多分相当な興奮状態で、例えば額から血が流れていようが、痛みを感じないくらい。そのホルンと自分の楽器の音をリンクさせてやろうってくらいな意気込み。楽譜は殆ど暗譜ですから、勝手に指が回ってゆく。

マーラーの巨人、四楽章のテンポを速めにさらってしまったようで、自分の身体感覚を修正する必要がありました。この楽章のはやいところは、ダンスみたいです。割れよとばかりに楽器をかき鳴らす。
楽器はさすが弦を張り替えたばかりでしたから、こんな力づくの要求にも、よく反応してくれました。
身体の面では肩甲骨の間が疲れていましたが、一晩寝たら治りました。

無茶苦茶に邪道な個人練習の成果か、とりあえずフリーズせずに乗り切れたのは良かったです。
こんな時に基礎練をすると格段に楽器を弾くのが楽になります。音階練習やらセブシックの移弦練習、ポジションエチュード、あとクロイツェルなんかを丁寧にやるとみるみる身体が軽くなる。

こんな感じであと数回の練習を、
乗り切ろうと思っています。

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演奏会に向けて

ああだこうだ言っても、
8月になれば演奏会がある訳ですし、
一旦参加するって言ったんだから、
どんなメンタルだろうが、
結局は準備するしかない。

あれから一ヶ月。
マーラーとリヒャルトを、
ある独特なやり方でさらっています。
邪道も邪道ですが、
乗り切る事が目標だからしょうがない。

まずパート譜をできるだけ暗譜する。
多分、昔からそうしていたと思います。
じゃないと弾けない。
初見?
楽譜は録音が発明される以前における、
記録と伝達のツールです。

次に音源と合わせて弾く。
人によっては怒られかねない方法。
これまた、大々的に採用。
イヤホンでエリアフ・インバル指揮のフランクフルト放送交響楽団と共演。
耳の記憶というのは、眼より野生的というか、本能的というか。反射との結びつきが強い。
だから、そこを刺激しながらやっていくと、
同じ練習でも、使える練習にできるかも。

邪道と知ってのこと。
スコアを読み込むのが一番なんだろうけど、
残念ながら、3ページくらい見たところで眠ってしまうのです。
その点ブラームスやベートーベンのスコアは、
幾何学的に面白くて、比較的飽きなかったのだけど。


息子の楽器のサイズアップのついでに、
自分の弓の毛替えをしてもらいました。
ついでに、張ってから一年になる弦を交換。
音が見違える程出しやすくなりました。
音の反応が早い。

マーラーの巨人冒頭のフラジオレットが、出しやすくなりました。フレッシュな弦は弾きやすいです。




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音楽は



好きなときに始めて、
好きなときに終わる。

そんな営みだって、
ちゃんと音楽と呼んでくれるかしら。

向かいにある蜜柑畑の虫の声。
ある意思の下に発せられし音を、
仮に音楽と呼ぶなれば、

鳴声然り、
人の会話然り、
まな板叩く包丁の音然り。

少なくとも音楽は、
幾何学的な枠の中で構築された、壮大な構造体でのみある訳ではない筈。

4歳の娘ちゃんの
たどたどしい唄声が、
何よりの証拠。

僕は、そんな娘ちゃんが、
鼻歌を歌うみたいに、
バイオリンを弾けたら、
もうそれでいいんだ。




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