ばよりん

ぱあっと消えちゃうかもね

気づけば日付が変わっていました。
あと24時間後には2019年です。
さっきまでひたすら楽器を弾いていました。
昨日一日でトータルで換算すれば5時間くらい弾いてました。
オケやってた頃は、それこそ8時間くらい弾き続けてましたから、それに比べたら大した事ないですが、
でもこれだけ思うままに楽器鳴らせたのは久しぶりの事です。
僕の人生のうち半分以上になりました。
楽器と共にある時間がです。
少し前までは楽器を弾いていれば、
それだけで満たされていました。
楽器と自分、ただそれだけでよかった。

最近時々たまらなく寂しくなる。
楽器を弾いて楽しいのは楽しいけれど、
その楽しさを共感できる人もいなければ、
楽器を弾く事を楽しく感じている人が身近にいない。
昔はそれでも全然よかった。
でも近頃、なんだか虚しくなるのです。

楽器は正直で、音楽というのも正直で、
こちらが真剣にアプローチすれば、
何らかの反応をしてくれる。
そこに悪意や偏見なんてないから好きだったけど、
何でしょうね、
この虚しさ。

iPhoneのアプリで、毎月千円出せば
昔一枚二千円以上出して買っていた音楽ソフトが、何枚だって聴き放題。
最初は喜んで聴いていたけれど、
やっぱりなんか無性に虚しい。
そして寂しいのです。

昨夜、久しぶりにTBSのレコード大賞観たけれど、
どこか抜け殻のようだった。
エリックミヤシロがバンドでトランペット吹いてても、
例えばあそこに、ポールマッカートニーが乱入したとしても、やっぱり虚しい。


10年前には多分まだ生きていたかもしれない。
音楽の魔法。
今はもう消えかけたロウソクのようです。

受け手の僕の心のせいなのか、
あるいは時代や社会の変化なのか、
多分どっちもでしょうね。
明らかに、今の社会は
少なくとも昔ほどには
音楽を必要としていない。
最近のテレビの音楽番組は、
やたらと昔の映像ばかり流す。
レジェンドとか言って昔の有名人を引っ張り出して、
古い歌を歌わせる。
文化的な価値観がもう既に崩壊してしまっているのに、
それを受け入れられないから、
しがみついて、骨の髄まで、前の世代のすねかじりです。

僕に関して言うなら、
もっとずっと前から
それこそ中学時代からそうだった。
時はCD全盛時代。
ミリオンセラー続出の時代です。
でも僕は古い音楽、
1950年代から1960年代の音楽に夢中になった。
あの時代の音は、聴いていて寂しくなかったんです。
そこにはたしかに、不思議な魔法の粉がかかっていた。
それすら、もうなくなりかけている。
みんな気づいているだろうか?
それとも僕の思い過ごしでしょうか?

あと10年もしたら、
「ねえねえ、知ってた?昔はさあ、みんな自分の手で楽器を弾いて音楽作ってたんだって。間違えないように練習したりしてさ。おっかしくない?だってアプリで勝手に作るだろよ、音楽なんてさ。」
とか、
「あのさ、こないだ聞いたんだけど、昔は歌を歌うって職業があったらしんだよね。つまりね、みんなの前で歌うと金もらえんの。信じられる?そんなAIのやること真似して金貰えんだからさ。」
なんて時代になるのかどうなのか。

このブログ自体、
もう潮時かもしれませんが。

そもそも、もうアマオケ辞めて何年も経ってますし、
オケ活動も2017年の夏に終わってしまいましたからね。

このブログも2019年、
存続しているかどうか、
怪しい限りです。

ある日、ぱあっと消えちゃうかもね。

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クロイツェル→バッハ→片付け

小野アンナの音階教本をそうやって一つ一つ音の幅を確認していると、凡人な僕は、大抵フラット系が終わる頃に集中力が尽きます。修行ではなくあくまで趣味であり息抜きなので、そうなったら次は曲を弾きます。といってもクロイツェルですけどね。しかも2番。これはキーがCです。この曲は途中転調するけど、全部の音程を意識してると気が狂うので、とりあえずFの音の扱いに焦点を絞って、ゆっくり弾きながらエチュードが曲になるようにアプローチしていく。
とりあえず様になるまで何回も弾いて、そうしたらあとはちょっと違うボウイングバリエーションを一つ二つやる。
大抵その頃には楽器を弾くのに満足しているから、さっさと片付けてしまう事もあるし、バッハの無伴奏パルティータかなんかを数小節弾いてみたりしてからケースに楽器をしまったりしています。
演奏技術が向上しているかどうかは不明ですが、趣味としての音楽の味わい方はちょっとは深まったかもしれません。

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小野アンナ

一週間ぶりに楽器を弾いたから、
とりあえず小野アンナの音階教本
2オクターブのスケール。
何年か前に毎日ひたすら全調やってたのは、3オクターブの方。
今は2オクターブの方を、音程の幅を意識しながら、じっくり何度も弾くのが最近のやり方。
昔は開放弦のある調が好きでした。
GメジャーとかDメジャーとか。
つまりシャープ系の曲。
弦同士で共鳴しやすくて楽器もよく鳴るから、弾いてて気持ちがいい。
でもここ最近、この開放弦が邪魔くさい。
フラット系の方が調整が効く分、音程がつくりやすいんですよね。
開放弦の共鳴みたいにガイドになるものがない分、不安にはなるけれど、五度とオクターブはきっちり固めて、スケール上に出てくる半音の幅を作る。分散和音ではまた違ったアプローチだから、この幅がスケールの場合とは結構違う。そういうのを一つ一つ確認しながらやると、時々びっくりするくらいいい音階になる。音階が歌になったり、分散和音がハーモニーの色彩をまとったりというか、つまり音が全く別次元にいく感じがする。
単にいままでできてなかっただけのこと。音階弾けてないのに気づいてもいなかった。
だから、なんじゃこりゃーって感じ。
正しい音程って一つじゃないなんて、学生時代は考えもしなかったなあ。
音程は場面に応じて使い分けるものらしい。
ただし、どんな時にも間違っちゃいかんのは、オクターブと5度?もしかしたら4度もか?
この感覚をオーケストラの中でやろうとすると大変な事になるかもしれないなあ。
まわりの音に調和するようなところを探せばいいんだけどね。とりあえず弾いている曲の調の中のルートの音は、ベースが弾いてる事が多いから、自分がルートや5度だったらそれに合わせて、3度とかだったら場面ごとにベースからの幅で取るのかなあ。きっと慣れれば感覚で探るようになるんだろうけど。

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空間を響かせる事と生きる事

G線をならそうとすると前屈みになる。
E線を鳴らす時は逆に上へ伸び上がる。
バイオリンには魂柱なるものと、
バスバーなるものがある。
その構造を知って弾くのとそうでないのとぢゃあ
雲泥の差。
分かって弾けば、
裏板の響きを感じながら音を出す充実感を、
楽器からいただける。
音を出す事は息をする事とルーツは同じ。
しっかり震わせて。
命の限り。

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バイオリンと音程

ジャズのアドリブをちょっとかじった時期がありました。コード進行でアドリブするには、度数で音を見ていく事が大切で、コードのルートか3度かとかもそうですが、スケールの中の第何音とかいうことも、意識するようになります。
そうこうしてるうちに、ふと音階を度数で把握する事は、実はバイオリンという楽器を弾く時に、音程を正確にとる上で、ジャズ云々関係なく、必須項目なんじゃないかと思えてきました。
音程は生もの。
トリルの時の半音の幅は狭すぎると気持ち悪い。
メロディを弾くときは、まずその調の音階を弾いて、第三音、第七音が何の音か頭に入れる。この二つの音が、メロディを歌う時に重要な気がする。具体的にはちょっとだけ高くとると曲の場所によっては気持ちいい。
曲の中で、メロディとしての音程とか、ハーモニーとしての音程とか、例えばさっきのトリルじゃないけど、変化を際立たせる味付けみたいな音程の工夫とか、ほんの僅かな高低なんだけど、根拠を持って耳と感性を開いて集中していると、音楽が息をし出す。
これは大変だ。バイオリンってちゃんと弾こうとしたら、めちゃくちゃ難しい。
誤差数ミリの世界で、意思のある音程で弾くこだわり。
休日の夜中、気づけば3時間弾きっぱなし。
クロイツェルをパラパラめくってゆっくり弾いたり、
ローデかじってみたり。

なんだか面白くなってきました。

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アンサンブル

去年の話。
職場にフルート吹きがいまして、
大学卒業したての彼と、
クリスマスソングを一緒に演奏しました。
彼はフルート、
僕はバイオリンではなくギター。
10年ものの、その安物ギターは、ネックが完全に反ってしまっていて、Fを押さえるとかなり左指が痛い。
痛みをこらえて、「サンタが街にやってくる」を弾く。
生楽器同士のアンサンブルというのは、
最も原初な体験。
お互いにお互いを把握する余裕があれば、
これほど豊かな温もりを感じられる体験はありません。
それを感じるために、
楽器演奏の基礎技術を身につけて、
かつ相手の音を聴く耳を作る。
ある程度のテクニックなしに、
アンサンブルの本質的な感動は体験できないと、
感じる事ができました。
音楽には、楽器を飼いならす技術からくる余裕と、まわりに関心を向けられる余裕ある耳なり心が必要です。
本番、若い彼はテンポがはしり気味でしたが、僕にはそれすら嬉しかった。
個人内テンポは、心臓の鼓動に影響を受けるから。
ここに大切な何かがあると、
僕は信じたいのです。

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楽器の弾き方遍歴

大学時代に弾いていたのは、
チェコの古い楽器でした。
f字孔から覗くと、
ラベルにJan Bastaと書いてある。
温かくて素朴な音色が素敵でした。
ただ、音量が出ないのが若い僕には少し不満でした。
素朴な温かい音色というのは、
裏を返せば発音がはっきりせず、
音がこもりがちであるという事。
学生時代の僕は新しい弦を試したり、
弾き方を工夫したりしながら、
よく響いて、遠くまで届く音を、無い技術を駆使しながら追求していました。今となってはいい思い出です。
大学四年でした。
いつの間にか世の中は僕を置いて、
21世紀になっていました。
大学を無事卒業できるのか、
果たして来年の今頃は無事就職できているのだろうか。
頭は漠然とした不安でいっぱいでしたが、
今思えば大して深刻でもなかった。

大学に専用棟というプレハブの建物がありました。
とにかくボロいその建物には、小規模なオケのリハーサルならできそうな広さの部屋が一つと、
あとその半分くらいの部屋と、
それにトイレかな、一応ありました。
そんな作りでした。
今でもあるのでしょうか。
専用棟。
とにかく汚い。
大きな部屋には隅にアップライトピアノが一台。
そこは合唱団の練習場所でもあったので、いつ調律しただか分からないそのピアノできっと音取りしてたんでしょうね。
演劇部もここで稽古してたようで、壁には舞台で使う道具が立てかけてあったり。
一言でいうならカオス。
そんな部屋で平日の夕方、
一人楽器を構え、少し高いその天井をじっと見つめながら、
力一杯大きな音をロングトーンで鳴らす。
鳴らし切ったあと、
じっと耳をすます。
部屋が響いているかどうか、
この部屋を響かせたかどうか、
耳はそれを確かめていました。

そうやって何日もやって、
気付いたことがありました。
一つは倍音
そしてもう一つは共鳴です。

バイオリンには4本の弦が張ってあります。
弦を押さえる位置によって、隣の弦が響いているのがわかります。それ以外でも、なんというか、楽器が鳴るツボみたいなものがあるのが分かりました。
そこの近辺を目指して音をとってゆく。
誤差があると鳴らないから、
近似値あたりでビブラートをかけて当てていく。
すると音がピーンと張りつめて、スコーンと抜けてゆく。弓はアタックを強めにしてあとは圧を抜きぎみて弓のスピードを上げる。それ以降、僕は10年くらいそんな弾き方をしていました。
弦の響きを妨げないように、弓が弦をがっつり捉える時間を最小限にしたいから、跳ばしぎみに弾く癖がついてしまいました。
いい癖ではありません。
共鳴を音程をとるガイドにしたのはいいのですが、
次第に旋律や音階の中の半音の幅が気になりだしました。
音階で言うと、3度と4度の幅だったり、7度と8度の幅だったりです。
そこを狭くすると気持ちがいい。
でも、その気持ち良さは単に狭ければいいのではないようでした。
例えばハ長調をファーストポジションで弾く場合に、まあ普通に考えて、D線の1の指と3の指の3分の1の位置に
2の指(中指)を置けばいいのだろうけど、それを狭くしたいという欲求は、つまり1の指が早く2にいきたいっていう衝動から来ているわけで、その時点で寄っていくのは2ではなく1だというわけです。
共鳴で音をとる立場として、3と4の指(薬指と小指)はそれぞれ左右の弦との関係上ズラせれない。でも例えば変ホ長調の場合は?
つまり3度と4度、7度と8度の関係における、下から押し上げるやり方をするなら、共鳴の考えは捨てなくちゃならないのです。
これを本当に厳密にやろうとしたら、音階練習がえらいことになりそうでした。
ところでバイオリンで平均律で弾ける人って、
すごいなあと思います。
僕はそこまで自分の感情をコントロールできません。
理想は使い分けられる技術でしょうけど、そこまでには沢山の知識と、あと考える力が必要なんでしょうね。
僕には一生無理でしょう。
右手のクセを治すのには、
5年くらいかかりました。
とにかくワンボウをゆっくり、
同じ密度を保って元から先まで弾けるようにしました。
弓の形状を意識することが、この作業に大いに役立ちました。
大学卒業後の数年間はアマチュアオケで過ごしましたが、この頃は、どちらかといえば、楽器演奏を身体面からのアプローチで追求していました。
このブログで何度となく話題にしている事です。
腕は何処から生えているか考える。
楽器は思ってるほど重くはない。
右手薬指を意識してみる。
左手指を扇子のように広げる。
などなど。
つまりは楽器を弾くための身体感覚を研ぎ澄ませる事で課題を解決しようとしていました。
それは一定の効果をもたらしましたが、
やはりそれだけでは限界がきます。
アマチュアオケをリタイアして、
基礎練とバッハを無限に続ける時代に入ると、
次第に身体だけでなく、
頭を使うようになりました。
例えば速いフレーズを正確に弾くためには、
究極的に無駄を削るしかなく、
つまりは事前に頭で準備して、
身体で先を見越して準備するしかない。
入念な準備こそが、それを可能にすると分かった時、
なあんだ、何でこんなことに気づけなかったんだろうと思いました。
古武術に近い話ですが、つまりは先の先を読んでしたたかに準備するしかないのです。
ある音を弾きながら次の次を予測して準備する。
その積み重ねだったのが分かったら、
なんだかちょっと夢がさめてしまった気分。


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Let me take you down, cos I'm going to …

誰に聴かせるでもなく、
ひたすらヴァイオリンを練習する。
誰に見せるでもなく、
黙って紙に鉛筆を走らせスケッチする。
このブログもそう。
誰に読ませるでもなく、
夜中に黙々と文字を打つ。

脳内にいろいろなイメージが常に漂っている。
物心ついた頃から
それは当たり前に漂っていた。
音楽を聴く時、
イメージは鮮やかに、
そして立体的に変化していく。
そんな時、僕はゆっくりと目を閉じて、
その瞼の裏側に広がる風景や、
湧き上がる言葉たちを、
ただそれらが湧き上がるままにまかせ、
ぼんやりと眺めていた。
他人には見えない世界。

昔から誰かと二人きりで話をしていると、
「そんな風にいろんな事考えてたんだね」と驚かれる事が多い。
誰にも見つからない
究極の隠れ家を持つ孤独。

Nothing’s gonna change my world

その事を仮に、
心の中にある秘密の森だとしたら…
僕は小さい頃から、
所謂その森の中で育ち、
その森に住んでいるのかもしれない。
どっぷり浸かっている時代もあれば、
そこそこな時期もあった。

その森を心の中で、
密かに飼っている人が、
僕の他にもいる事を、
ある時僕は知ることになる。

森を飼う人は、
外見上特に目立つところはない。
物静かな引っ込み思案とは限らない。
むしろ社交的で、いつも仲間に囲まれているような人だっていた。
共通しているのは、
彼ら彼女らには、
どんなに理知的にかつ巧妙に隠そうとしても、
隠しきれない孤独が、
体全体から滲み出ている。
それに気づく人はほとんどない。
本人すら、その孤独の存在に気付いていない事すらあるのだから。
苦痛が、例えばふとした笑顔の横顔の口角に見えたり、瞳の端の湿っぽい反射に現れたりする。
ほんの些細な青白い影。
そこに僕は深い森をみることができた。

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ついにニコロサンティを手に入れる

ついに買ってしまいました。
ニコロサンティ。
職場で子供たちの前で弾くために使います。
ケースと弓、肩当てに松ヤニまでついて五万円しません。
今日は購入するつもりである事を前提に、
セットに付いている弓に松ヤニ塗って試奏させてもらいました。
弓はまあ、値段相応。
材質はおそらくブラジルウッド。
コシが弱い分弓を強めに張らないといけないけど、まあコシが弱いのだから、その張力にもあまり持ちこたえられずといった印象。
でも悪くはない。弓の特性を手が掴めば、ちゃんと密度のある音が出る。
楽器と同様、出せる音量には限界はあるが、何より操作しやすい。演奏する上での支障がないのがいいです。
大学オケの部室にあるような貸出用の安いバイオリンは、音は出るけどペグの作りが雑でチューニングするのにストレスだったり、吹き付け塗装でピカピカのカチカチボディでは振動するわけがなく、メタリックな音しか出ません。おまけに板も厚くしないと強度が保てないので、重たいし響かない。やはり二十万くらい出して東欧の手工品を手に入れないとダメかなあというのが、これまでの認識。
でも今回の四万円代のセットは、ある意味革命的です。
下手したら昔弾いてたチェコ製の愛機、ヤンバスタよりいい音がするかも?しれません。
このニコロサンティ、
実際に手にすると、このコスパの良さの理由が見えてきます。弓に関して言える事が、楽器本体にも言えるのです。
つまり材料の質について。
今回購入したニコロサンティの表板の木目は、僕の相棒であるタマスグミナールさんよりかなり密度が薄い。
裏板についても同様の事が言えます。
ネックの材も、あまり綺麗な木目ではありません。

ところが反面、造りがとても丁寧。
実際手にすると、その手触り肌触りがホンモノなんです。
この価格帯で、可能な事を、誠心誠意いたしましたっていう想いが、楽器からちゃんと伝わってくるのです。
これがこの値段なんて信じられない!
安心して弾く事ができます。
そして、楽器を弾くという幸せが十分味わえる箱になっている。

マイスター茂木さん、
ありがとう!これはすごい!





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フィジカルからロジカルへ

今夜もまたバイオリン。
誰に聴かせるでもなく、
ただ自分の為だけに。

こうやって楽器を弾くのは、
ちょっぴりテレビゲームにも似ている。
最近息子がハマっているニンテンドースイッチ。
オデッセイとかいうらしい。
よくわからない。

空間にポツンと降り立つ。
いろいろと試してみる。
上手くいくときもあれば、そうでないときもある。
ただ、そうやって試しながら、
新しい自分が生まれるのを感じる。
昨日は気づかなかったものが、
急に見えてくることもある。
今まで見ていた世界が、ガラッと変わり、
分からなかった事の意味がふいに立ち上がる。

こと楽器演奏の技術に関して、
僕の二十代、三十代は、
ほぼフィジカルな課題に対するアプローチだった。
自分の身体に対するイメージを一つずつ再構築することで、
できないと思っていた事が、
手の内に入るようになる。
繰り返しのスポ根的なエクササイズだけでなんとかしようとするのではなく、感覚を研ぎ澄ます作業。

ブルース リーじゃないが、
「考えるな、感じろ」だ。

肩甲骨から腕である、あるいは鎖骨と胸骨の接点からが腕であるという気づきは、僕の身体意識を根底からくつがえす革命だった。
もう一つは、左手のこと。
手のひらをネックの方に向けるのではなく、指を扇のように開く事。そこに至るには、まず骨格上指が何処から生えているかを意識する必要があった。
右手に関して言えば、手の内旋外旋は尺骨を軸に行われているという事を知る事で、ボウイングが途端にスムーズになるという、つまり小指側を意識する事により、腕は背中から一体になって羽ばたくという事実。
今思えば必然だったが、ある時期から肩当を外すことになり、楽器を鎖骨に載せるようになると、
ますます身体と楽器は近くなり、いくら弾いても以前程は疲れなくなった。

身体に関する事を気にかける必要がなくなればなくなるほど、演奏自体に余裕が生まれた。
つまり、そこに冷静な思考が立ち現れる事になる。

楽譜を読んで、そのままを再現する。
演奏にパッションはいらないのかもしれないとすら最近は思う。
ロジカルな思考を、冷静に、正確に再現する。
楽譜に書かれた情報は、
つまりはそれをちゃんと再現しさえすれば、
ちゃんと美しいわけで、
それ以上でもそれ以下でもないという、
当たり前と言えば当たり前の事。

でも、もし楽譜の情報を再現するだけだったら多分足りない。
音にする過程において、そこには根拠なり理解なり哲学が必要なんだと気づく。
楽譜は設計図。
マニュアルの先にある意図を見通す事で、
毎日は僕たちの手の内に入る。
つまり音に主体性が現れる。
つまり、ただ気合いやパッションでかき鳴らしてもあまり解決はしないのだった。
そう思うと、もしかしたら
5年くらい前と今とじゃ、僕の音は随分と違うのかもしれない。それがいいのか悪いかは、とりあえず抜きにして。

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