音楽

クラシックとジャズと

クラシックも確かに楽しい。
書かれてある楽譜の情報を、
細かく読んでいくと、
そこには明確な意図があって、
理屈がある。
意図なり理屈がみえると、
途端に仲良くなれる。
つまり信頼関係が生まれる。
100年以上地下に閉じ込められていた誰かを救出したような感覚。
遺された楽譜の音符を、
胸躍らせるながら紐解く感覚。

もし正解がある事を前提でやれば、
すごいストレスなんだろうけど、
その行為自体は、
本来とても温かくて、
人間的な営みだと思う。

遠い昔の遠い国の誰かが、
遠い将来の遠い誰かに手紙を書いた。
言葉は国ごとに違うから、
もっと物理的に分かりやすい形で遺す。

楽譜というのは、その意味では合理的な記号だといえるかもしれない。

それを、遠い未来の誰かが
親しみを持って読み取ってゆく。

それは愛だと思う。

対象は作曲者であると同時に、人類全般に向けたものであるとも思える。

クラシック音楽が考古学的な意味ではなく、
価値があるというのは、
そこに理由があるんじゃないかと、
僕は個人的に信じています。

ジャズについては、
近いけれどまた違う意味がある。
これはもっとスポンティニアスな捉え方がなされている。
楽曲の枠組みに寄生しながら、
その中で今を生きる。
そうするためには、
寄生する対象を、
それこそ自分自身であるかのように、
分析し、受容しなくてはならない。
つまり、
あなたのこの行為には、
全面的にリスペクトしつつも、
そこにはまだ語られていない可能性がありますから、
それを再構築して、今の時間に還元します。
そうする事によって、
この作品を、今の時間に新鮮な意味を持って存在させる事ができるのだと、
つまりはそれがジャズ的なスタンダードに対する立ち位置なんじゃないかなあと、
勝手に思います。


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スコアリーディング

アマオケにいた頃、
柄にもなくコンマスをやっていた事がある。
まったく無謀も無謀。
今思えば恥知らずもいいところだ。
その頃、馬鹿なりに発表会の曲のスコアを買って、
しこしことスコアを読んでいた。

楽典の知識は、
もともと系統だって教育されていない。
スコアリーディングについて初めて習ったのは、
山梨の大学オケで、
楽器を手にして間もない頃。
当時オケが音楽監督として依頼して
トレーニングをうけていた指揮者が、
団員向けに楽典講座とか、スコアリーディングとかのレクチャーをしてくれていた。
穴埋めプリントまであって、
それをもとに先輩から指導されながら、
夜中の大学の講義室で、
ちょーたんたんちょーちょうたんたん
とか唱和していた。

ドミナント、サブドミナント
平行調、同主調

本業であるはずの機械工学そっちのけで
いかれたみたいにやっていた。
その時代、その大学オケは留年率が非常に高く、
教授陣から批判の目が向けられていた。
本業に背を向けて、
一種のゲリラみたいな存在。

馬鹿といえば、馬鹿の一言で片付けられる事柄。
大人の目線から見れば、
馬鹿だと、それだけの事だけど、
本業から離れた所で夢中になれる場所ってのは、
確かに危険だけれど
魅力的ではあるのもまた確かである。
この怪しさを知ってる事は、
その後の人生をたくましく乗り切る燃料くらいにはなると思う。
僕は今、実感を持って断言するくらいの自身は持ち合わせている。

スコアリーディングの知識は、
そんな夜のゲリラ的な教育によって身につけた。
あとはほぼ独学。
勿論その後も場所は違えども、
学生オケにはいたから、
みんなで依頼した指揮者の先生から、
いろんなことを学んだ。

系統立ててアカデミックには学んでないけど、
例えば、代々畳屋をやっている家の小僧が、
跡を継いでしばらくして、
ああそういや親父が昔あんなこと言ってたなあって
ふと思い出すような程度の、
つまりは整理されない形での知識は摂取していた。
きっとそれは価値ある原石だったはずだが、
本来の価値を発揮できる可能性は、
その後の運命に丸投げだったような、
つまりは大事なことを紙に認めて、
それこそラムの瓶に詰めて無人島から海に投げ捨てるような、そんな未来への無責任な投資だったのかもしれない。

アマオケで僕は、
そんな知識を引き出しに、
あとはヤマハで買った本だとかを頼りに、
拙い知識で
ベートーヴェンやモーツァルトのシンフォニーだとかを、ひたすら読み込んだ。

断言できるが、アカデミックな教育を受けてない身であっても、ベートーヴェンのシンフォニーは、最高に楽しい読み物だと思う。特に第九は最高だ。
ベートーヴェンは作品に誰もが納得できるような説得力を持たせようとしていたと思う。
それがスコアから立ち上がろうとする時、
彼がみんなに分かってもらおうとする意思が、
100年以上の時を越えて、まだ生きているように感じられた。一種の生きた祈りみたいなもの。
こんなズブの素人ですら感動するんだから、
遠い国の、昔々の人なんだけど、
やっぱりベートーヴェンは偉大だと思う。

さて、今夜僕は
ベートーヴェンではなくて、
ジェローム・カーンを読んでいる。
ALL THE THINGS YOU ARE
変な曲だ。
72小節中8回も転調している。
(8回という数は正しいかどうかわからない。例のごとく素人の判断で不器用にやった作業の結果だから)
アドリブを一本の線で作るには、この転調の波を綺麗に乗り越えるスキルが必要なんだけど、
それにはやっぱり、こうした分析が必要なんだなあと、あらためて思う。
autumn leavesなんて、テーマの雰囲気とキーのスケール、あとオカズのブルーノートでとりあえずは様になるけれど、
この曲はそうはいかない。でも、うだうだコードネームを眺めながら、ドミナント探して、これかなどうかなってやるのも、何だかんだいって楽しい気晴らしだと思う。
なんてったって、ALL THE THINGS YOU AREは名曲。
すごくモダンで都会的な響きが、どんな仕組みで出来ているのか、気になるといえば気になるのです。
スタンダードナンバーだし基本的な曲だから、
ネットを検索したら、解釈なんて沢山書いてあるに違いないけれど、
楽譜とにらめっこで、自分なりにやってみるのは
趣味としてはなかなか楽しい。
音階練習は、いつも全調でやってきたけれど、
これは転調の多い曲をやる時かなり力になる。
あと、三種類のディミニッシュ分散和音が、
こんなにも便利なもんだとは思わなかった。




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LIKE SONNY

土日はランニング。

もうすっかり、
そんなふうの人になってしまった。

耳にイヤホン詰めて、
prime musicで古いjazzを聴きながら、
夕方の田んぼ道の風を感じながら、
息のきれないペースで走る。

こうして走っていられる時間が愛おしくすら思える。
健康的であるかなんて、
どうだっていい。

僕の住むこの大地を自分の足で感じ、
遠く鈴鹿の山々から吹き降りる風を浴びて(途中工業地帯の煙突からの排煙をブレンドしている。そんなの了承済みだ)
アスファルトからの反動を腰に感じながら、
ゆったりと走る。

この行為は苦行とは真逆。
癒しのランニング。

太古の記憶を呼び覚ますために、
あるいは生物としての自己を揺り起こすために、
ランニングという、
人によっては、何でわざわざ辛い思いをしているのだと理解しがたい気持ちになるような行為に、
夢中になるのだろう。

そんなこと書いておきながら、
僕だって以前はそうだった。
身体を動かして気持ちいいなんて、
ケって思っていた。

でもやったら分かってきた。
この中毒性。
人類がその染色体に刻んだ遠い昔の記憶。
それこそ何万年も前からの。

それを感じられる事は、
文明やら科学やら、
経済やら文化やらにがんじがらめの僕たちを、
大いなる寛容によって慰めてくれるのだ。

今日は8キロ、
昨日は9.5キロ走った。
昨日の疲労がまだ残っていたから、
今日は8キロでやめた。

最近は大体いつも
3キロくらい走ると、いい気分になる。
走り始めは嬉しくてついペースがオーバーしてしまうんだけど、
3キロあたりで心地よいペースが掴めたら、
あとは風に吹かれてればいい。
顎を引いて、
背中を意識し、
肘を後ろに引きながら、
身体を起こす。
遠くに目線を向けて、
あとは頭に浮かぶ考えを、
それこそ流れて行く風景を眺めるように、
ただ傍観していけばいい。
そうすれば、
いずれ背中がポカポカ温まり、
幸福な時間が訪れる。

今日はソニーロリンズ。
1950年代後半。
bluenoteレーベルに吹き込んだ音源を聴きながら走った。

今日は海からの風がきつい。
キャップが飛ばされそうだ。

風の感触は相変わらず埃っぽい。
これは春だということ。

家の近くに来た。
桜並木のうち一本に、
花が咲いているのを見つける。
今年は開花が早い。









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モンクとランニング

セロニアスモンクを聴きながら
夜の街をランニングする。

モンクの指が鍵盤の上を飛び跳ねる。
そこにエレガントな音が広がる。
セロニアスモンクの音楽は、
エレガントの一言に尽きる。
エリントンとはまた違った上品さ。

アスファルトを左右交互に飛び跳ねるナイキのシューズ。
着地のたびに腰に響く衝撃が心地よい。
じわりと背中が熱くなるくらいになったら、
あとは流れに任せて、
ただ走る心地よさに身をまかせる。
考えるのは、
この幸福な時間をいかに長引かせるかという事。
脇を締めて腕を軽く後ろに振っていると、
頭を固定して背骨が左右に波打つように揺れながら、
見事な運動サイクルを作っていくのが感じられる。
紐の一端を持って、ゆらゆら揺らすと、
波のようになるけれど、
それを身体全体でやっているような感覚。
そこまでいくと、
まわりの空気の温度、匂い、肌触り全てが
なんだか愛おしくなる。
走る前に頭にあった、
あんなにも不快な出来事が、
別にどうでもよくなるから不思議だ。
この感覚の虜になって以来、
職場で嫌な気分になると、
「ああ、走りたい。今夜8キロ走ってやる」
なんて心で呟いている自分がいる。
土日は約10キロ、
平日は1日。
節制して5キロ。
そんなペースで走っている。
若くないから、身体の疲労を考慮してあげなくてはいけない。
だから毎日は走れない。
筋肉の疲れを無くす時間が必要なんだ。

セロニアスモンクには、
アップライトのピアノがよく似合う。
アルバムによっては、
あ、これグランドピアノじゃなくてアップライトでしょって音がする。
僕はアップライトの音の方が、モンクの場合は好きです。
エヴァンスは逆にグランドピアノの音が好きだけどね。

ランニングという行為は、
何処か座禅に似ていると思っている。
なんの根拠もないけれど。

ジョンとヨーコの出会いのエピソードじゃないけれど、
所詮、人は最終的には、
自分の全部にyesを与える何かを探しているんだよね。
それを身体の奥に持てるかどうか。
それに特化するなら、僕らはちゃんと向き合わなくてはいけないのだけど、現実社会ってのは、本当に慎重すぎるね。
でも、ストッパーとしてなら、
この時差は必要十分条件なんじゃないかな。





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アンプラグド

Eric Claptonの「unplugged」を聴く。
リリースは1992年。
当時の僕は高校生。
親の眠った隙に受験勉強のふりをして
戸棚にあった父親のサントリーオールドをバレない程度にひっかけて、
Lonely strangerあたりからの感じに酔っていた。

当時のアイドルは、
ドリカムでもB’zでもなく、
むしろスタンゲッツやチェットベイカーだったけど、

このアルバムは古くさいJAZZばかり聴いていた僕でも、夢中になる何かがあったのだろう。
今夜はその頃の思い出を、仕事帰りにコンビニで手に入れたトリスハイボールで解凍しながら、
グラスの氷とともに、カラカラと解凍している。

今思うと随分と老けた高校生だった。
中学時代何もしなくても成績は学校中で一位二位だった秀才が、
いい気になって高校も同じようにしていたらいつしか赤点だらけ。
ふてくされていたと言えば聞こえがいいが。

そもそも物理の公式をテストの度に毎回イチから組み直して解いていたせいだ。
何も考えずに公式にぶっ込めばいいのに。
イチから論理を組み立てようとするから、
テストも時間内に終わらない。
まるでリックや手癖を完全に否定して
無からその場でアドリブをしようとするのと一緒だ。

案の定成績は下降線をたどる。
周りの友達の立ち居振る舞いの変化には酷く傷つけられた。
部活の帰り道、自転車で帰る自分の影をじっと見つめる。
このイメージを油絵で描いたら、
みんなをあっ言わせる、
いい絵になるかななんて一人で妄想する。
今考えれば馬鹿馬鹿しいというか幼すぎるけど、
当時の僕の頭の中は、
厭世的な気分でいっぱい。
中学時代にわざとらしい敬語で、
どうしたら勉強できるようになるのですかと
尋ねてきた時計屋の息子は、
高校二年の夏には、廊下を歩く僕から目をそらすようになった。
進学校というのは少なからず、
そういった傾向がある。
今はあの頃ほど大学は狭き門じゃないから、
そんなコンプレックスなんて感じなくても生きられるかもしれないが、
当時は少なからずそうだった。

立っているために、
僕は新しい価値観を自分で築かなくてはいけなかった。
たとえ仮設であったとしても。

仲間がいたらまた違ったろう。
その点では恵まれなかった。
だから結局は自分一人で作るしかなかった。

10代に学んだ大切な事は、
一人きりで考えるということ。
まわりはあてにならない。
自分だけで感じ自分で考えるしかない。
なんて書くとちょっと勇敢に聞こえるかもしれない。
でも半分追い込まれるように
逃げるみたいにしてたどり着いた対処法だから、
ブザマと言えば無様。

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10年



久しぶりに楽器を弾く。
などと言っても、三日ぶりだけど。

銀色の楽器ケースを開けて、飴色の愛器と再会。
2007年製のブダペスト生まれ。
作者はストラディバリウスとかグァルネリデルジェスのレプリカを得意だと、あの日店員が話していたのを思い出した。一番太い弦を弾くと裏板がビンビン響いた。
弾く事で身体がどんどん暖かくなる感触。
普段買い物に関しては、慎重に慎重を重ね、
熟考したあげく結局は買わないような僕が、
弾いたその場で意思を固めた。2008年のこと。
あれから10年。

楽器の反応が良いという事は、
演奏面で大きな影響があったと思う。
何かを意図して楽器に働きかけ、
それに対して何らかの反応が楽器からあり、
またそれを感じる事で次の働きかけを生み出す。
一種のコミュニケーションだと思う。
楽器と人とがやりとりしながら、
お互いに育ってゆく。
そんな僕と楽器との閉じた時間が、
この10年、
崩れかけそうになる僕自身の心を、
どれだけ支えてくれた事だろう。

楽器をケースから取り出し、
左の鎖骨にのせる。
鎖骨に裏板の縁が当たりコツンと響く。
この音を聴くのが好きだ。
身体と楽器が握手する。
箱の響きを自分の胸郭の一部だと受け入れる感じ。
Bluetoothのペアリングみたい。
この感覚を大事にしたいから、
肩当ては使っていない。

弓を手にする。弓を持ったまま右手の小指でクルクルとネジを巻く。
弓の張りを作るためだ。
弓の毛は季節の変化に気付かせてくれる。
湿度のせいだと思うが春は若干ゆるむ。
弦を鳴らすと楽器も響くが、
弓も響いている。
弦から浮かすのと弦に押し付けるのとの中間の、
しっかりと詰まった充実感の先に、
弓の響きが生まれるようだ。
僕は演奏技術が足りないから、
その状態を思うままに再現できないけれど、
ふとした時に色んなもの、
弦の響きだとか、楽器の箱、弓の幹が共鳴しあって、
同時にそこに触れている自分自身も震えていると感じられた時の、
例えば毛布にくるまれながら、
優しく抱きしめられたような、
あの安心感は、
かけがえのないものだと、いつも思う。

ゆっくりとボウイングを始める。
はじめはG線、
弓の根元から先まで。
大きな太い線を塗りつぶすみたいに。
弓の返しの直前まで息を込める。
弓の長さを感じながら、
自分の身体が空間の中でどれだけの範囲に存在しているかを身体で感じる。
隣の弦に移る。D線。
一番無理のない音がする。
両隣の弦からの共鳴によるサポートが得やすいからか、
弦自体の響きがよくわかる。
A線。
少し頼りないけれどプレーンな音。
そしてE線。
外交的な音。
我が強くなるとなぜかわからないけど音が下品になる。
所詮こんな細い弦だけでは、世界を揺すぶる事なんてできないんだ。
身の丈を知るE線の響きは、もっと透明で清潔感のある音なのかもしれない。
未熟な僕には、なかなかそんな音
出せないけれど。

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うっかりからびっくり

知らない間にAmazonのプライム会員になっていたらしい。
年会費払っちゃったし、
しょうがないので、
会員特典をなるべく活用しようと
プライムミュージックなるものを使うことに。

iPhone経由でカーステレオにBluetoothで飛ばし、通勤のBGMとして使う。
JAZZのアルバムが比較的充実しているので、なかなか重宝している。
昔から欲しいなあと思っていながら、なかなか手に入れる機会のなかったリーコニッツの「サブコンシャスリー」とかリッチーカミューカのアルバムなんかをフルで聴き放題。
うっかりハマってしまった。
これじゃあCD買う気も失せてしまう。

こういったシステムのいいのは、
とっつきにくいけど、ちょっと気になるといったジャンルの音楽に対して、金銭的なリスクをそれほどかけずに冒険ができるという事。その意味では、音楽の聴き方の幅を大いに広げる事になるのかもしれない。
アルバートアイラーや坂田明のアルバムを、二、三千円投資して手に入れる覚悟。
CDを買うのは躊躇したけれど、聴いたらやっぱり良かった。
なんて事が気軽にできることは、
幸せな事だと思う。
圧縮音源だけれど、でもソフトを再生する際の動作音は殆ど無いし、通勤のBGMなら全く問題ない。



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感覚過敏とハードロック、それからスティーブライヒについて

土曜、午後一時過ぎ
家に帰るため、駅で準急に乗り込む。
車内はそこそこ混み合っている。
空港行きの列車だ。
4割くらいの乗客の傍には大きなスーツケースが置かれている。レジャーの人もいればビジネスの人もいる。
誰かデパートで惣菜か弁当を買ったのか、揚げ物の匂いがする。それと冬物の衣服の匂いが混ざり合い、暖房の風でかくはんされる。
思わずポケットから不織布のマスクを取り出した。
煙草を吸うのをやめてから、やけに匂いに敏感になった。
喫煙は人の感覚を少しだけ麻痺させる効果がある。敏感な人間にとってこういったものは、まわりの世界に圧倒されず、真っ当に味わうためのツールになる。
当然アルコールにもその効果はあると思う。
ドア脇から外を眺める。

僕が中学、高校の時分、
母は街の小さな楽器店でパートをしていた。
CDの仕入れ担当だった。
毎晩居間のこたつで、母が新譜カタログを見ながら注文を決めているのをテレビを横目にぼんやりと眺めていた。ポリドールや東芝EMI、CBSソニーにポニーキャニオン。
たまに置いてあるカタログをめくって、「このCD、欲しいんだけど」とか言って、他と一緒に注文してもらっていた。その頃買ってもらったCDは、僕の思春期に僅かながら淡い彩りを与えてくれた。
勿論今も大切に聴いている。
スタンゲッツの「ピープルタイム」、
パットメセニーの「シークレットストーリー」

何が売れるかをリサーチするために、
毎週、母はMTVを録画して研究していた。
ボビーブラウンとか、ニルバーナとか。
僕のお気に入りはモコモコの帽子を被ったジャミロクワイだったが、
母はヨーロッパというイケメンハードロックバンドが好きだった。
「ファイナルカウントダウン」
ヨーロッパに限らず、エアロスミスだとか、ガンズアンドローゼズとか。
いつしか僕の周りにハードロックが流れるようになった。
エクストリームの「ポルノグラフィティ」を母が持って帰った時は、ウブで繊細な僕は僕なりに随分と動揺したものだ。
あのアルバムに入っているmore than wordsは名曲だけど、当時の僕はあのアルバムジャケットの怪しさだけで既にノックアウトだった。

僕がロックが好きになったのは大学に入ってから。
カティサークをガブ飲みしてフラフラで音楽を聴くようになってからだ。以前はエレキギターの歪んだ音に、ただ圧倒されてしまいヘトヘトだったが、アルコールによって感覚が麻痺してしまうと、その音圧がいい具合に心地よかった。


列車は高架を走る。
遠くに埋め立て地。工場からたくさんの煙。
車内の騒音をフィルターするために、
耳にイヤホンを突っ込んだ。
ノイズキャンセリング機能にやわな僕は今でも救われている。聴いているのは、ロックでもジャズでもなく

スティーブライヒの
「ディファレントトレインズ」

from N.Y. to Los Angeles

ちなみに僕の乗るこの列車は、
ロサンゼルスには向かわない。


ハードロックといえば、
ブラ1にハードロック感じてオケやろうと思った先輩を思い出す。
山梨の大学にいた頃のこと。
その先輩は学生オーケストラでチェロを弾いていた。「あの冒頭のツェーってのが、ハードロックだあ」って感動したらしい。飲み会の度に話してた。今でもよく覚えている。同い年のビオラの友達はBON JOVIが好きだった。カラオケで歌う発音は抜群だった。


列車はガタゴト。
イヤホンからライヒ。



この曲は繰り返される単語のフレーズに音高を当てはめて弦楽器で弾く。
往年の名番組「笑っていいとも!」の伝説のコーナー「サックスは最高」を思い出す。
小倉久寛がテナーサックスである単語を模倣して、聴いた回答者が何を言ったか当てるクイズだ。
どうでもいい話。

そうこうしていたら、
いつの間にか目的の駅に着く。
外は曇り空。
雨がホームの端に、
ポツポツと淡墨のドットを並べている。



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涙のキッス

普段は別にそうじゃないけど、
ある時ふと、たまらなくサザンが聴きたくなる。
そんな人、ある年齢層に於いては、
そこそこの割合でいることと思う。
こう言う僕も、実はそっちの部類だ。

僕の住む地方はそうでもないが、
たまに見るニュースによれば、
ここ数日、例年にない積雪がある地域がたくさんあるらしい。
もっとも「例年にない」なんて言葉の、それ自体の特殊性すら、枕詞くらいにしか感じられない程に、(枕詞はピロートークの和訳ではありません)ここ10年、あるいは20年の気候は、例年という言葉を置き去りにして、ある処へとジリジリと向かっているらしい。

そんな土曜の昼下がりに
どうしてサザンが聴きたくなったのか、
僕自身にもわからない。
大抵こういった類の感覚は、
特別な理由もなく、
突然に、さもそれが公然の事実であるかのように、
目前に現れるものだ。

昼下がり、
ソファで横になり、
イヤフォンを耳に突っ込む。

アルバム名は
World Hits!? of Southern All Stars
演奏は
関口和之&砂山オールスターズ

サザンであって、サザンでない?
僕は昔から、このカバーアルバムが好きだ。
リリースは2001年。

この6曲目に収録されている、
「涙のキッス」のボサノヴァバージョンが、
当時も今も、僕のお気に入りだ。
キーの3番目の音をフラットさせて歌っている。
これが気持ちいい。エグいブルーノート。
うっとりとリビングの白い天井を眺める。
そして世界は、
ゆっくりと僕を包み込みだした。



SONYがWALKMANを生み出した事に、
僕たちは心から感謝しなくてはいけない。
耳に入れたスピーカーで音楽を聴くという行為によって、
人は目の前の味気ない風景を、
一瞬のうちに何か別なものへと変換する手段を手に入れたのだから。

親密な距離で鼓膜を優しく揺らす音の波によって、
僕の脆い境界線に薄い膜が生まれ、
望むなら、
失いかけた自分がまだ此処にあるのだと、
確認する事だってできる。

青年期の僕は、周りの刺激に対して今よりもずっと脆かった。
まるで全身の皮が薄く擦り剥けてしまったかのように、
ちょっとした風に、跳び上がるくらい痛がった。
それに対し僕は、
自意識過剰になりながら、
そうなりがちな自己を抱えた若者が大抵そうであるように、
自身が周りの世界で自然に振る舞えるように、
自分の危うい感受性のアンテナを、
まるでそれが最高機密であるかのように、
細心の注意をはらいながら世間から巧妙に隠し、
外からの刺激によって傷だらけになっているのに、
あたかもそれを気にしていないように取り繕う事にばかりに夢中になっていた。

運悪く生まれつき、
敏感すぎるアンテナを持ってしまった人にとって、
ある意味に於いて、
音楽は救いになり得ると信じている。

ちなみにその頃の僕は、
毎日貪るように音楽を聴いていた。
たまたまそれはクラシックでり、古いジャズであり、
そしてボサノヴァだった。
暗闇の天井を眺め、スピーカーの傍に寝っ転がる。


音楽は奇跡だ。
そこに音楽が鳴っている事で、
空気の色が変わる。
見える景色が、
在るもの自体はそのままなんだけど、
全く別の風景に変わってしまう。

匂いのある音が好きだ。
空気を感じさせる音楽が好きだ。
息や体温で丁寧に温めた音の鳴る空間には、
匂いや、色がある。

真冬の低い太陽が、リビングの床にぽかぽかと照りつける。くっきりした影から湯気が立ち上る。

何となくわかり始めた。
過去の事。
記憶の整理。
別にそれをしたから、何か外的に変わるものではない。
だけど、今やトラウマみたいになっている過去の風景に、危うい感性によって自らかけてしまった呪いのような縛りを、ふわりと解きほぐせたなら、多分数ミリ程度だろうけど、僕の心は軽くなり、
今より少しは楽に生きられるようになるかもしれない。いや、なれないかもしれない。





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ちんたら運動

正月は休んでましたが、
昨日から、また走っています。
運動することが好きなわけではなくて、(生まれて此の方、運動が好きだったためしなどありません)
音楽を聴きながら、走るという行為がただ単に楽しいだけなのだと思います。別にペース配分とか、フォームだとか、ましてやタイムなんて、実はどーだってよくって、好きなsoul musicをランダム再生しながら、プレイヤーは次にどのナンバーを選ぶかに、僕は専ら夢中です。他にもそんな人、探せばいるかもしれないけれど、
かなりなマイノリティだと思います。

「お、でましたっ!バリーホワイト!テンション上がるわあ」
とか、
「ここでノーランズかよ!」
とか、
「やっぱグロリアゲイナー最高だよね!」
だとか思いながら、その選曲の偶然に勝手に興奮しながら、
ついでのように、ちんたら走り、
たまに夜空の星を見ている。



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