音楽

人生は夢だらけ

数日前に、椎名林檎とトータス松本の
「目抜き通り」を聴きまくっているって記事を書いたんだけど、
まあ、当然の成り行きなんだろうけど、
今は、同じく椎名林檎の
「人生は夢だらけ」のMVを、
夜な夜なダイニングで
YouTubeのエンドレスリピート。

僕の年代は
たとえミシェルルグランの名前すら知らないにしても、
ミシェルルグランの音は無意識の底に宿して生きているはず。
かく言う僕は、
そのつまり、
大好きです。
ルグラン。

シェルブールの雨傘。
ロシュフォールの恋人たち。

リアルタイムではなく、
リバイバルの関係上、
僕たちはあの雰囲気にハマってしまう。

細かい歌い回しも完璧。
本当に魅力的です。

東京事変の彼女も、
無罪モラトリアムの彼女も、
勿論最高ですけど。




1950年代のアメリカが好きな人は、
大抵ディズニーリゾートが好きなんだそうだが、
僕はディズニーランドの描く50年代も、
ユニバーサルスタジオの描く50年代も、
一抹の違和感はある。
訪れるたび、その理由を想い、
そしていつしか楽しいはずの時間は終わるのだが。

僕の中学時代は、
実は1950年代アメリカでできている。

MGMミュージカルが好きで、
ヒーローはジーンケリー。
プラターズにポールアンカ、
ビリーヴォーンにニールセダカ。

あの時代への憧れが、
その後の20世紀の文化史であるとすら思える。
80年代なんて、
まさに50年代リバイバルなんじゃないかと、
勝手に思っている。

良いものは、何年経っても良い。
「雨に唄えば」は今でも名作だし、
マイルスのマラソンセッションは、
こんな世の中にあっても、
疲れた誰かを癒すのです。

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コシファントゥッテ

大学時代に一度だけ、
アマチュアオペラの舞台美術をやった事がある。
単に大人たちに都合が良いよう利用されただけなのだが、
僕は当時、多少わくわくもしたし、
今となってはいい思い出だ。

Così fan tutte
女はみんなこんなもの

ひどいタイトルだ。

うまい具合に乗せられて、
クラスの友達数人を引っ張り出して、
四枚のパネルを製作するはめになる。
結構ハードな仕事、しかもノーギャラである。

学んだ事は二つ。

一つは刷毛の洗い方。
これは後々そこそこ役にたった。
毛先を鷲掴みして洗う。


もう一つ
こちらは全く役に立たない人生訓。
身の丈を越えるような役割を与えられる時、
大抵誰も、僕に対して期待してなんかいないということ。
集団や組織にとって、
一人の人間は所詮、
将棋の駒である。

これはその後の人生で痛いほど知った。
でも、それはそれで、まあそういうもんだ。
若い僕は、まだ納得できなかったから、
多少傷ついたけど。

本番が終わり、
僕は大学オケの部室にいた。
チューバの先輩が足のない僕を、とりあえずここまで送ってくれたのだ。
三月のことだ。
日付はとうにまわっていて、
あと一、二時間待てば日が昇り、
大学から駅に向かうバスに乗れる事が分かっていた。

僕は寒い部屋で一人、
眠るわけにもいかず。
部室のコタツに入りながら、
夜明けまで音楽を聴いて過ごすことにした。
ここで眠るよりも、
慣れたベッドで寝たかったのだ。
当然学生オケの部室だからクラシックのCDばかり。
少し迷ってから、
マーラーの五番目の交響曲の、
あの有名なアダージェットを聴くことにした。
バーンスタインが指揮してるやつだ。

入口のアルミ戸を開けて、
明け方の空、吸い込んだタバコの煙をぷはあっと吐き出す。
紫煙の先の星空が次第に青みがかり、
まるで何事もなかったかのように、
また新しい一日が始まる。
疲れた夜明けには、
癒しがある。
鼻先をくすぐる、
淡くて漠然とした希望。

その後いろいろあったけど、

あの夜明けのアダージェットは、
多分一生ものだなあと思う。
いい風景だった。

そんな風景、
誰しも一つや二つ
あると思う。


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相手が物である事の救い

最近仕事が忙しすぎて、
楽器ケースを開ける回数が減っていましたが、
ある日久しぶりに弾いたら、
何だか違和感を感じる。
楽器を右手にバイオリン、左手に弓を持っているような違和感。
あ、これは楽器と自分とが疎遠になるサインだと、ピンときました。
当たり前のように体に馴染んでいた道具が、
何だかよそよそしく感じられるという事は、
つまりは生活の中で、その道具の価値が以前と変わってしまうという事かもしれません。
相手が人ならまた別なストーリー展開がありますでしょうが、
今回の件に関しては、イニシアチブは全面的に僕自身にあり。
つまり僕が楽器を自分の方に引き止めようと行動すれば、この危機は何事もなかったように、あっさりと解決する。

なんてこたない。
単なる練習不足。

そんな時、一発で効く頓服みたいな方法がある。
といっても地味な基礎練習。
ボウイングと音階練習。
地味だけれど一番の近道。
30分で元の感覚が返ってきました。
関係修復完了。

バッハの無伴奏をとにかくゴーって音で鳴らして、
楽器を響かせて響かせて、
リハビリ終了。
身体はポカポカ、楽器も程よく汗ばむ。

気付いたら一年くらい弦を張り替えていません。
ドミナントがいい具合にヘタって、
発音や音程の誤差に寛容になっています。

でも別に切れてないし、
まあ替えなくていいかなとも思う自分がいます。
ただ自分の楽しみで弾くというのは、
つまりそういう事なんでしょうね。
誰かと一緒に弾くという事は、
自分の音に対する意識も同時に高まります。
自分が自分のために楽器を弾くという事だけのために、
楽器を所有し使用するのは、果たしてあるべき姿として自然なのだろうか。
弾き手と楽器という関係を超えて、
音楽である事を求めるなら、やっぱり他者の存在を想定しなくちゃならない。

つまり楽器はやはり、
手段以上でも以下でもない。

そして人という生き物は、
結局のところ、
一人きりでは完結できない生き物なのでしょうね。
音楽も人の営みである以上、
この運命とは無縁ではいられない。

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目抜き通りへ

誰も知らない わたしが何なのか
当てにならない 肩書きも苗字も
今日までどこをどう歩いて来たか
わかっちゃあいない 誰でもない

ここ数日、3分ちょっとのこの曲を
暇があったらリピートかけてエンドレスで聴いている。
半分中毒のようになっている。

椎名林檎とトータス松本が、
昨年、東京銀座にできたという商業施設のために吹き込んだ、「目抜き通り」という歌。

先週の中頃、仕事でちょっとしたトラブルがあって、
納得いかない事があった。
そんな事など、これまでいっぱいあった。
しかし今思うに、
大抵戦うべきは、
自分自身。

といっても、
別にアスリートが言うような
自分の限界を超えるみたいな
マッチョで安直なあれではなくて、
ここで言いたいのは、
自分の中のコンプレックスだったり、
シャドーだったり、
そういったこと。

結局は対人関係のストレスは、
突き詰めれば、
ストレスを感じる
その本人の課題である場合が殆ど。

今回のモヤモヤも、
つまりは僕の内面の問題。

そもそも、そうでなければ
こんなに長くモヤモヤなんてしない。
課題は自己にあり。
相手は触媒ではあるが、
原因ではない。

そんなこと
自分以外にとってはどうでもいい事だから、
今日もこの社会で生きるためには、
いかに自己を慰めて、
いかにまたこの下らない世界に出かけていけるかということが大切。

この歌がそれを後押ししてくれると、
きっと無意識の自分は思ったのだろう。

朝から車でエンドレスリピート。


あの世でもらう批評が本当なのさ
デートの夢は永い眠りで観ようか
最期の日から数えてみてほらご覧
飛び出しておいで目抜き通りへ!


新しくできる商業施設のCMソングの歌詞に、
死をイメージさせるフレーズをちりばめているにも関わらず、
でも何だかそれでも生きる事への勇気をもらえるような力がある。

椎名林檎やっべっ

そう呟くと信号は青になり、
結局僕は、今朝も仕事に向かう。



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雨上がりのアスファルト、ボサノヴァ

ここ数日のどんよりとした空も、
午後になると雲が晴れて、
久しぶりに黄金色の17時。
いつもなら帰る頃は真っ暗だけど、
今日は出張だったから、
職場へ帰らず自宅へ直帰。
濡れたアスファルトがキラキラと光る中を
のんびりドライブ。

仕事というのは社会的な営みだから、
たとえ在宅ワークであっても、
他者との関係の中で行われるもの。

例えば一人で黙々と籐籠を編む伝統工芸の職人さんであっても、それを生業とする限り、
当然自分の作品を手にする誰かを想定し、
自分にとっても、相手にとっても
価値あるものを作ろうとするもの。

その想定する他者というのは、
自分がおもんばかるところの他者であり、
それは、自己の想像するところのものであるわけだから、
つまり自己の投影というフィルターを通る事がある意味決められてしまっている。
そこが、仕事に現れるその人らしさなんじゃないかなあと思うし、
その事が社会にあって、
人に孤独を感じさせる要因でもあり、
また他者との共感という救いを自ら手に入れるための、
小さなドアなんだと思う。

結局人は寂しい生き物だから、
一生かけて、
その共感の鉱脈を探って一喜一憂しながら、
食って寝て死んでいくだけなのかもしれない。

世界との一体感を求めるのは、
人の宿命なんじゃないかと最近思う。
大体この世に生まれるという事は、
母体からの切断という悲劇から始まるわけだから。

仕事をしながら、
でも自分である事。
自分でありながら、
世界でもある事。

これをいろんな場面で、
とっかえひっかえ、
縦に横に斜めに見ながら、
ああでもない、
こうでもないってやりながら、
誰もかれも、
そうやって生きて、
そして死んでゆく。

夜になる前の、
空が赤紫に染まる頃、
信号待ちで、
トムジョビンの名作「三月の水」を、
ジョアンジルベルトの歌とギターで聴きながら、
フロントガラス越しに、
飛行機雲をぼんやり目で追っている。

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根本さえつかめたら

多分長くやればやるほどに、
これこれは、こういうもんだと、
いつしか勝手に決め込んでいる。
しかし彼らの言う普通とは
「彼らの」普通でしかない。

それぞれの普通を主張したって、
多分何の解決にもならない。

新しい「普通」を生み出す意識を、
お互い心の片隅に持つこと。

僕たちに見合うような、
新しい価値観を、相手と探すんだって覚悟は、
違う誰かとコミュニケーションする際の
言わばお守りのような物。

これを心に持って人と接すれば、
人に自分を非難される痛みや、
批判から自己を守る為にする様々な取り越し苦労から、
ちょっとだけ解放されるかも。

大切なのは、
方法ではない。
根拠であり、目的、意図なんじゃないだろうか。

どんな多様な文化的背景を背負った集団であっても、
共通の目的によって集まったのなら、
その目的を明確にすれば、
新しい価値基盤を生み出せるに違いない。
それは繊細だけれどダイナミックな企て。

物語を生み出す。

僕はこの手の事を考える時、
大学オケで初めてコンサートマスターをした時のことを思い出す。
2001年8月。
愛知県芸術劇場コンサートホール。
真夏の夜の夢の序曲は散々な出来。
でも中プロのシューベルトの未完成は、
僕にとって忘れられない演奏体験になった。
その瞬間まで僕は、
コンサートマスターというのは
団員を演奏面でリードする存在だと思っていた。
あるいはコントロールするくらいの勢いでいた。
でも二楽章のオーボエソロの伴奏中に、
僕は気づいた。
僕なんかが、この2キロにも満たない脳みそであれこれ考えても、どうにかなるわけがない。
所詮世界の一部に過ぎないのだから、
この音の流れに、飛び込めばよいのだと。
もう楽譜の残りは僅かだったけど、あの時間は最高の演奏体験だった。
当時の僕は、色々あって他人を信頼できない辛さを抱えてたから、無意識のモーメントによる、神秘的な奇跡だといえばそれまでだけど、
客席に届いた音はどうであれ、
個人的な演奏体験としては、
あの時間の密度は、それこそ人生を変えるくらいのレベルだったと思う。
音楽というのは、
人の原始的な部分にアプローチする力があるからこそ、
そういった要素があるのではないかと思う。

僕は世界の一部であり、
同時に世界は僕である。

その時個人は溶解し、
時間は永遠になる。

今夜も僕は一週間ぶりに楽器ケースを開け、
ブダペスト在住の背の高い大きな手のグミナール氏が、
2007年に作ったバイオリンを弾いている。
楽器は弾かれる事を前提に作られたもの。
つまり誰かの行為によって、その目的が完結する運命を背負っている。
だから、こうして週末の夜に
ケースから出して弦を震わせる事は
単に楽器を鳴らす以上の意義がある。

張られているドミナントは一年以上張り替えていない。
そろそろ交換しなくては。




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クラシックとジャズと

クラシックも確かに楽しい。
書かれてある楽譜の情報を、
細かく読んでいくと、
そこには明確な意図があって、
理屈がある。
意図なり理屈がみえると、
途端に仲良くなれる。
つまり信頼関係が生まれる。
100年以上地下に閉じ込められていた誰かを救出したような感覚。
遺された楽譜の音符を、
胸躍らせるながら紐解く感覚。

もし正解がある事を前提でやれば、
すごいストレスなんだろうけど、
その行為自体は、
本来とても温かくて、
人間的な営みだと思う。

遠い昔の遠い国の誰かが、
遠い将来の遠い誰かに手紙を書いた。
言葉は国ごとに違うから、
もっと物理的に分かりやすい形で遺す。

楽譜というのは、その意味では合理的な記号だといえるかもしれない。

それを、遠い未来の誰かが
親しみを持って読み取ってゆく。

それは愛だと思う。

対象は作曲者であると同時に、人類全般に向けたものであるとも思える。

クラシック音楽が考古学的な意味ではなく、
価値があるというのは、
そこに理由があるんじゃないかと、
僕は個人的に信じています。

ジャズについては、
近いけれどまた違う意味がある。
これはもっとスポンティニアスな捉え方がなされている。
楽曲の枠組みに寄生しながら、
その中で今を生きる。
そうするためには、
寄生する対象を、
それこそ自分自身であるかのように、
分析し、受容しなくてはならない。
つまり、
あなたのこの行為には、
全面的にリスペクトしつつも、
そこにはまだ語られていない可能性がありますから、
それを再構築して、今の時間に還元します。
そうする事によって、
この作品を、今の時間に新鮮な意味を持って存在させる事ができるのだと、
つまりはそれがジャズ的なスタンダードに対する立ち位置なんじゃないかなあと、
勝手に思います。


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スコアリーディング

アマオケにいた頃、
柄にもなくコンマスをやっていた事がある。
まったく無謀も無謀。
今思えば恥知らずもいいところだ。
その頃、馬鹿なりに発表会の曲のスコアを買って、
しこしこと読んでいた。

楽典の知識は、
もともと系統だって教育されていない。
スコアリーディングについて初めて習ったのは、
山梨の大学オケで、
楽器を手にして間もない頃。
当時オケが音楽監督として依頼して
トレーニングをうけていた指揮者が、
団員向けに楽典講座とか、スコアリーディングとかのレクチャーをしてくれていた。
穴埋めプリントまであって、
それをもとに先輩から指導されながら、
夜中の大学の講義室で、
ちょーたんたんちょーちょうたんたん
とか唱和していた。

ドミナント、サブドミナント
平行調、同主調

本業であるはずの機械工学そっちのけで
いかれたみたいにやっていた。
その時代、その大学オケは留年率が非常に高く、
教授陣から批判の目が向けられていた。
本業に背を向けて、
一種のゲリラみたいな存在。

馬鹿といえば、馬鹿の一言で片付けられる事柄。
大人の目線から見れば、
馬鹿だと、それだけの事だけど、
本業から離れた所で夢中になれる場所ってのは、
確かに危険だけれど
魅力的ではあるのもまた確かである。
この怪しさを知ってる事は、
その後の人生をたくましく乗り切る燃料くらいにはなると思う。
僕は今、実感を持って断言するくらいの自身は持ち合わせている。

スコアリーディングの知識は、
そんな夜のゲリラ的な教育によって身につけた。
あとはほぼ独学。
勿論その後も場所は違えども、
学生オケにはいたから、
みんなで依頼した指揮者の先生から、
いろんなことを学んだ。

系統立ててアカデミックには学んでないけど、
例えば、代々畳屋をやっている家の小僧が、
跡を継いでしばらくして、
ああそういや親父が昔あんなこと言ってたなあって
ふと思い出すような程度の、
つまりは整理されない形での知識は摂取していた。
きっとそれは価値ある原石だったはずだが、
本来の価値を発揮できる可能性は、
その後の運命に丸投げだったような、
つまりは大事なことを紙に認めて、
それこそラムの瓶に詰めて無人島から海に投げ捨てるような、そんな未来への無責任な投資だったのかもしれない。

アマオケで僕は、
そんな知識を引き出しに、
あとはヤマハで買った本だとかを頼りに、
拙い知識で
ベートーヴェンやモーツァルトのシンフォニーだとかを、ひたすら読み込んだ。

断言できるが、アカデミックな教育を受けてない身であっても、ベートーヴェンのシンフォニーは、最高に楽しい読み物だと思う。特に第九は最高だ。
ベートーヴェンは作品に誰もが納得できるような説得力を持たせようとしていたと思う。
それがスコアから立ち上がろうとする時、
彼がみんなに分かってもらおうとする意思が、
100年以上の時を越えて、まだ生きているように感じられた。一種の生きた祈りみたいなもの。
こんなズブの素人ですら感動するんだから、
遠い国の、昔々の人なんだけど、
やっぱりベートーヴェンは偉大だと思う。

さて、今夜僕は
ベートーヴェンではなくて、
ジェローム・カーンを読んでいる。
ALL THE THINGS YOU ARE
変な曲だ。
72小節中8回も転調している。
(8回という数は正しいかどうかわからない。例のごとく素人の判断で不器用にやった作業の結果だから)
アドリブを一本の線で作るには、この転調の波を綺麗に乗り越えるスキルが必要なんだけど、
それにはやっぱり、こうした分析が必要なんだなあと、あらためて思う。
autumn leavesなんて、テーマの雰囲気とキーのスケール、あとオカズのブルーノートでとりあえずは様になるけれど、
この曲はそうはいかない。でも、うだうだコードネームを眺めながら、ドミナント探して、これかなどうかなってやるのも、何だかんだいって楽しい気晴らしだと思う。
なんてったって、ALL THE THINGS YOU AREは名曲。
すごくモダンで都会的な響きが、どんな仕組みで出来ているのか、気になるといえば気になるのです。
スタンダードナンバーだし基本的な曲だから、
ネットを検索したら、解釈なんて沢山書いてあるに違いないけれど、
楽譜とにらめっこで、自分なりにやってみるのは
趣味としてはなかなか楽しい。
音階練習は、いつも全調でやってきたけれど、
これは転調の多い曲をやる時かなり力になる。
あと、三種類のディミニッシュ分散和音が、
こんなにも便利なもんだとは思わなかった。




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LIKE SONNY

土日はランニング。

もうすっかり、
そんなふうの人になってしまった。

耳にイヤホン詰めて、
prime musicで古いjazzを聴きながら、
夕方の田んぼ道の風を感じながら、
息のきれないペースで走る。

こうして走っていられる時間が愛おしくすら思える。
健康的であるかなんて、
どうだっていい。

僕の住むこの大地を自分の足で感じ、
遠く鈴鹿の山々から吹き降りる風を浴びて(途中工業地帯の煙突からの排煙をブレンドしている。そんなの了承済みだ)
アスファルトからの反動を腰に感じながら、
ゆったりと走る。

この行為は苦行とは真逆。
癒しのランニング。

太古の記憶を呼び覚ますために、
あるいは生物としての自己を揺り起こすために、
ランニングという、
人によっては、何でわざわざ辛い思いをしているのだと理解しがたい気持ちになるような行為に、
夢中になるのだろう。

そんなこと書いておきながら、
僕だって以前はそうだった。
身体を動かして気持ちいいなんて、
ケって思っていた。

でもやったら分かってきた。
この中毒性。
人類がその染色体に刻んだ遠い昔の記憶。
それこそ何万年も前からの。

それを感じられる事は、
文明やら科学やら、
経済やら文化やらにがんじがらめの僕たちを、
大いなる寛容によって慰めてくれるのだ。

今日は8キロ、
昨日は9.5キロ走った。
昨日の疲労がまだ残っていたから、
今日は8キロでやめた。

最近は大体いつも
3キロくらい走ると、いい気分になる。
走り始めは嬉しくてついペースがオーバーしてしまうんだけど、
3キロあたりで心地よいペースが掴めたら、
あとは風に吹かれてればいい。
顎を引いて、
背中を意識し、
肘を後ろに引きながら、
身体を起こす。
遠くに目線を向けて、
あとは頭に浮かぶ考えを、
それこそ流れて行く風景を眺めるように、
ただ傍観していけばいい。
そうすれば、
いずれ背中がポカポカ温まり、
幸福な時間が訪れる。

今日はソニーロリンズ。
1950年代後半。
bluenoteレーベルに吹き込んだ音源を聴きながら走った。

今日は海からの風がきつい。
キャップが飛ばされそうだ。

風の感触は相変わらず埃っぽい。
これは春だということ。

家の近くに来た。
桜並木のうち一本に、
花が咲いているのを見つける。
今年は開花が早い。









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モンクとランニング

セロニアスモンクを聴きながら
夜の街をランニングする。

モンクの指が鍵盤の上を飛び跳ねる。
そこにエレガントな音が広がる。
セロニアスモンクの音楽は、
エレガントの一言に尽きる。
エリントンとはまた違った上品さ。

アスファルトを左右交互に飛び跳ねるナイキのシューズ。
着地のたびに腰に響く衝撃が心地よい。
じわりと背中が熱くなるくらいになったら、
あとは流れに任せて、
ただ走る心地よさに身をまかせる。
考えるのは、
この幸福な時間をいかに長引かせるかという事。
脇を締めて腕を軽く後ろに振っていると、
頭を固定して背骨が左右に波打つように揺れながら、
見事な運動サイクルを作っていくのが感じられる。
紐の一端を持って、ゆらゆら揺らすと、
波のようになるけれど、
それを身体全体でやっているような感覚。
そこまでいくと、
まわりの空気の温度、匂い、肌触り全てが
なんだか愛おしくなる。
走る前に頭にあった、
あんなにも不快な出来事が、
別にどうでもよくなるから不思議だ。
この感覚の虜になって以来、
職場で嫌な気分になると、
「ああ、走りたい。今夜8キロ走ってやる」
なんて心で呟いている自分がいる。
土日は約10キロ、
平日は1日。
節制して5キロ。
そんなペースで走っている。
若くないから、身体の疲労を考慮してあげなくてはいけない。
だから毎日は走れない。
筋肉の疲れを無くす時間が必要なんだ。

セロニアスモンクには、
アップライトのピアノがよく似合う。
アルバムによっては、
あ、これグランドピアノじゃなくてアップライトでしょって音がする。
僕はアップライトの音の方が、モンクの場合は好きです。
エヴァンスは逆にグランドピアノの音が好きだけどね。

ランニングという行為は、
何処か座禅に似ていると思っている。
なんの根拠もないけれど。

ジョンとヨーコの出会いのエピソードじゃないけれど、
所詮、人は最終的には、
自分の全部にyesを与える何かを探しているんだよね。
それを身体の奥に持てるかどうか。
それに特化するなら、僕らはちゃんと向き合わなくてはいけないのだけど、現実社会ってのは、本当に慎重すぎるね。
でも、ストッパーとしてなら、
この時差は必要十分条件なんじゃないかな。





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