音楽

4本の弦

最近すっかり
このブログでバイオリンの話題を書いてませんが、楽器自体は、今でも弾いています。
ただ楽器演奏のテクニックに関する上達は、最近特に望んでいなくて、楽器の構造上の事(5度チューニングに関する特性)だとか、音楽の理屈についての事をちょっとずつ考えて確認しながら楽しんでいます。

この夏以来、以前みたいにはアマチュアオーケストラで楽しむ事ができなくなってしまったので、
今はもっと広い意味で、楽器を通じた楽しみ方を模索しています。
例えばジャズのアドリブ。マニアックなとっつきにくさがありますが、理論ばかりを優先すると、さっぱりアドリブにならず、感性のまま歌う事をすれば手数が足りず。つまりは両方を上手く脳内で構造化してゆく事が、この手の技術の習得方法なんだなあと思う今日この頃。

これは、クラシックのエチュードみたいに体系化が難しい事柄だろうなあと思います。
現にネットにはさまざまなメソッドだとか、理論だとかがあがってますが、実践におけるプレイヤーの認知過程にまで降りた説明はなかなかありません。
こういった事は楽譜やテキストでは、比較的伝わりにくいノウハウなんでしょうね。
この点、どこか外国語の学習にも似ています。
文法だとか、単語だとか、確かに必須だけれども、
これを脳内で再構築していかなくては、
使えるものにはならない。
使える日常会話を暗記するのは、無意味ではないけれど、そこから先に何か自分から発信するためには、脳内にある特定の回路を構築しなくてはならないんです。



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趣味ら蔵

趣味は大切な現実逃避の手段である。

先日、半ば強制的に職場からストレスマネジメントの研修に行かされたのだけど、(別に僕がストレスフルな日々を送っているからといった理由ではなく、ある年齢層の暇な人間を数人派遣しろといった上層からの指令による)その研修で話されたのが、仕事に関して使って疲労した脳を休めるには、その脳の部位から遠い場所の脳を使う事が有効だということ。
つまり脳内の血流が一箇所に集中せざるを得ない状況は、他に血流を流す以外に解決できないという事らしい。肩や腰みたいに、脳は揉みほぐせないからね。

だから趣味は、日常的に使わない脳の部位を刺激するものがいい。
僕にとってそれは絵を描く事であり、
楽器をいじる事である。
この部類の事柄の特徴は、
言語を用いないという事。
左脳ではなく、右脳優位な状況ともいえる。

最近、それに加えて新しい現実逃避のツールを発見した。
外国語学習である。
別に海外に逃亡したいわけではない。
外国語学習のシステムが、
僕の凝り固まった脳を自由にしてくれるようだ。

言語は何だって良かった。
日本に住んでいるなら、
ポルトガル語とかハングル語、中国語なんか実用的な気がするけれど、今回は実用目的ではなく、外国語学習のプロセスがその目的であるから、
なるべく、その学習ツールが手に入りやすい言語
つまりは、英語学習を使うことにした。

世間一般の人は耳を疑うかもしれないが、
ここ最近僕がやっている英語学習は、
ゴールがない。
つまり英語で誰かとコミュニケーションする事は目的ではない。
英語学習という行為自体が癒しになるのだ。

この感覚は、バイオリンの学習における、クロイツェル教本や音階練習を、演奏技術の向上を目的とするのではなく、その練習過程を通じた気持ちの安定を目的とする事に限りなく近い。

英語の言語感覚と日本語の言語感覚は、かなりな違いがある。そもそもソフトが違うのだ。さらにそれは、長い歴史の積み重ねの下に、民族のDNAに刷り込まれているような部類の感覚だ。例えば「株」と訳される場合もある英単語「share」この言葉と株が繋がる感覚は、英語ならではだと思う。株=stockって言い方もあるらしいけど、株=shareって、なんか本来の感じが出てる気がする。

外は大分と雨が降ってきた。
まだ月曜日。
もう日付けが変わってしまった。
厳密には既に火曜。
今夜も夜更かしをしてしまいました。
明日も仕事。
ストレスの海に頭から突入する覚悟をする事から、
日々の下らない日課は生まれる。



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秋空とシナトラのマリアージュ








先週の話。

休日の公園は、家族連れでいっぱい。
芝生の丘にコンパクトなテントを持ち込んでごろ寝するお父さんや、
遊具で遊ぶ子どもたち。
こんな光景に合う音楽って何かなあと、
イヤホンを耳に突っ込んで、
SONYのWALKMANで色々試していたら、
1940年から1950年にかけて録音された、
若きフランクシナトラの歌が一番しっくりきました。
小さな驚きと、静かな幸せ。
料理に合うアルコールを選ぶように、
風景に合う音楽を選ぶのも、楽しいものです。

池の周りを歩きながら、
また、とりとめもない思索。

「人は結果でしか見てくれない」
若い頃よく言われた言葉。
オトナの社会ってのは厳しいんだぞ!結果がスベテなんだぞ!って、叱咤激励の意味で言われたのかもしれないこのネガティブなセリフも、
例えばこう言い換えて見たら、
イメージがちょっとは薄まるのかもしれません。

「人は結果でしか見てくれない」のではなく、
「人は結果でしか見ることができない」と。

そうすることで、わかってくれないと嘆く事から、
少しだけ主体的になれるかもしれない。

言葉には魔力があると思う。

でも、そこで新たな悩みが生まれる。
この「結果」というのの意味。
「結果」を判断するのは誰なのか?
そこがつまりはこの問題の根っこなのかもしれません。

池に綺麗な空が映っています。
やっと秋が感じられそうです。

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Aos Pés da Santa Cruz



Aos Pés da Santa Cruz
十字架のもとで

昔からこの曲が好きで、
これまで何らかの機会に、それこそ何度も
色々な風景のバックに流してきたのだけれど、
今回、またブームがやってきた様子。
車の中で飽きる事なくリピートしています。

オルランドシルバの古いサンバカンソンのバージョンだったり、
若きジョアンジルベルトの爽やかなバージョンだったり。
ぼやーっと疲れた夏の夕焼けを眺めながら聴くには、うってつけの曲。
その気だるさの美しいことったら!


歌詞もいい。

君は振りをしていただけで
僕をだましたんだね
嘘をついて
神の前で罪を犯した
心には自由がある
自分の理性すらわからないもの
君は誓いを立てては忘れてしまう
同じように
今回も
約束して
永遠の愛を誓い
そのあとで 
忘れてしまうさ


そして歌の後
ジョアンは、口笛を吹く。
それは風に舞って、
高い空に吸い込まれそうなくらいに、
はかなく、そして哀しい音色。

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演奏会に向けて

ああだこうだ言っても、
8月になれば演奏会がある訳ですし、
一旦参加するって言ったんだから、
どんなメンタルだろうが、
結局は準備するしかない。

あれから一ヶ月。
マーラーとリヒャルトを、
ある独特なやり方でさらっています。
邪道も邪道ですが、
乗り切る事が目標だからしょうがない。

まずパート譜をできるだけ暗譜する。
多分、昔からそうしていたと思います。
じゃないと弾けない。
初見?
楽譜は録音が発明される以前における、
記録と伝達のツールです。

次に音源と合わせて弾く。
人によっては怒られかねない方法。
これまた、大々的に採用。
イヤホンでエリアフ・インバル指揮のフランクフルト放送交響楽団と共演。
耳の記憶というのは、眼より野生的というか、本能的というか。反射との結びつきが強い。
だから、そこを刺激しながらやっていくと、
同じ練習でも、使える練習にできるかも。

邪道と知ってのこと。
スコアを読み込むのが一番なんだろうけど、
残念ながら、3ページくらい見たところで眠ってしまうのです。
その点ブラームスやベートーベンのスコアは、
幾何学的に面白くて、比較的飽きなかったのだけど。


息子の楽器のサイズアップのついでに、
自分の弓の毛替えをしてもらいました。
ついでに、張ってから一年になる弦を交換。
音が見違える程出しやすくなりました。
音の反応が早い。

マーラーの巨人冒頭のフラジオレットが、出しやすくなりました。フレッシュな弦は弾きやすいです。




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わかりますか?

頑張らない。
無理をしない。
言うは易しで、現実はかなり難しい。

自分の事は、
自身が一番わかる筈だという思い込みは、
いつしか、もろくも崩れ去り、
ストレスの負荷を自身で把握できなくなっているのが現状です。

以前は何の苦もなく耐えられた事が、
もう、自分の頑張りでは、
どうにもできなくなりつつある。

心のコップには、
いつもなみなみと水が注がれていて、
少しの負荷で溢れ出てしまう。

一般的に
人混みで過ごす様々な刺激に対し、
人は無意識の内にフィルターをかけており、
自分が壊れないように守っているのだと思いますが、
僕の場合、疲れているせいか、
それが上手くいきません。
こういった類の話は、
人にはなかなか伝わらない。
それがまた、僕を落ち込ませます。

視覚的な刺激
聴覚的な刺激。
それらに対処していく気力が尽きてしまい、
空間全体が重くなる。
歩くために足を持ち上げるのも大変になるのです。

そこまでいくと、それを乗り越えるだけの気力すらない。
多分そこに至る過程で使い切ってしまって、
電池の切れかけた鳩時計みたいになっているのです。
肩はこわばり、頭痛と動悸がしてくる。
顎に力が入られず、
とりあえず目の前の事を処理するので精一杯。


今の僕には、
そんなふうになってしまう前に、
それを見越して対策を施す事が、
生きていくために、
必要なんだと思います。

昔はこんなんじゃなかったんですが、
しょうがないですね。

先日あるCDをネットで買いました。
中古で2千円ちょっと。
MFQ(モダンフォークカルテット)のムーンライトセレナーデという、1980年代のアルバム。
MFQは、ハワイ出身のベテランコーラスグループ。フォーフレッシュメンみたいなジャンルの人たちです。
夏に聴くには最高なアルバム。
この音との出会いは、もう二十年以上前のこと。
中学時代に手に入れた、ポリドールのリゾートサウンドドリームという、販促用のサンプラーCDに入っていたのです。
当時母が街の小さな楽器店で、CDの仕入れ担当をしていたので、例えばCBSSONYのサンプラーとか、よく持って帰ってきてくれました。
ミルトンナシメントという人を知ったのも、例のリゾートサウンドドリームでしたし、ジョビンのWAVEも、このCDで初めて聴いたのでした。
何年も経って、僕はこのMFQのアルバムを購入することにした。
その点ではポニーキャニオンの戦略は、
見事に達成されたのかもしれません。
まあ20年以上後では、
遅すぎもいいとこですが。

こういった類の音楽は、
何気ない風景をバックに、何気なく聴くのが一番いい。
というのが、僕の経験上何となく学んだ事でしたから、
今回も例のごとく、
真夏の東海道新幹線の車窓の風景を眺めながら、
愛用のSONYのWALKMANで、
付属のノイズキャンセリングイヤホン経由で浴びることにしました。

ルックフォーザシルバーライニングという、ジャズのスタンダードナンバーがあります。
名演かどうかは別として、
チェットベイカーの1950年代の歌で有名な
あの古い歌です。
あれを1985年にMFQが歌っている。

車窓の風景を眺めながら、
それを聴く。

Look for the silver lining
Whenever a cloud appears in the blue
Remember, somewhere the sun is shining
And so the right thing to do is make it shine for you

A heart full of joy and gladness
Will always banish sadness and strife
So always look for the silver lining
And try to find the sunny side of life

A heart full of joy and gladness
Will always banish sadness and strife
So always look for the silver lining
And try to find the sunny side of life

ふと空を見上げたら、
山の間に入道雲。
雲の周りに白い光の筋。

ああ、今はこんな日々だけれど、
ちゃんと前を見て生きて行かないといけない。

そう思ったら、
途端に涙が出てきました。

三列シートの一番窓際でしたから、
顔をそむければ、他には気付かれない。
そっと左を向くしかない。

別に涙を誘うような曲調でも、アレンジでもないんですよ。
でも駄目でした。
やっぱり疲れてるんでしょうね。

新幹線は走り続ける。

何が原因とか、誰が悪いとか、
多分そんな話ではなくて、
僕の人生上の課題なんだと思います。
生きるということは、そういうことなのだと、
僕はそれこそ幼い頃から、
薄々感じていた筈でした。

人一倍感受性の高い人間は、
その感じやすさによって、
どうでもいいような出来事によって自らを傷つけ、
ふらふらになって生きるしかないのです。
繊細さは不器用さを生み出す足かせのようなもの。

でも、僕から感受性を無くしたら
果たして何が残るのかと考えたら、
やはり、これを抱えて
やっていくしかないと思うのです。

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音楽は



好きなときに始めて、
好きなときに終わる。

そんな営みだって、
ちゃんと音楽と呼んでくれるかしら。

向かいにある蜜柑畑の虫の声。
ある意思の下に発せられし音を、
仮に音楽と呼ぶなれば、

鳴声然り、
人の会話然り、
まな板叩く包丁の音然り。

少なくとも音楽は、
幾何学的な枠の中で構築された、壮大な構造体でのみある訳ではない筈。

4歳の娘ちゃんの
たどたどしい唄声が、
何よりの証拠。

僕は、そんな娘ちゃんが、
鼻歌を歌うみたいに、
バイオリンを弾けたら、
もうそれでいいんだ。




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もうやめよう





もう充分じゃないだろうか。
自分で言うのもなんだけど、
ここまで不器用なりに、
よく頑張ってきた。

車のハンドルを握り、
夕空を眺める。

空っぽの頭。
空っぽの心。




オケの練習が
意識はできてないだけで、
実は苦痛だったのかもしれない。
昨日今日の話じゃない。
それこそ学生オケの頃から。

沢山の刺激がいっぺんに入ってきて、
まともに対処できない。

頭は興奮状態
というかパニック。
そんな時も、周りは一時だって待ってなんかくれない。
いつだって音楽は流れ続ける。

フリーズしてしまう。
それは部屋で何度もさらった箇所。
パート譜のその部分、
目では捉えているし、頭の中で音が鳴る。
でも、身体が反応しない。
かと言って、ぼーっとしている暇はない。
列車は走り続けるのだから。

だめだ、弾けない。
また落ちた。
ここは、一小節いくつ振りだ?
ボウイングが前のプルトと違うじゃないか。
ボウイングを写さなきゃ。
えーっと、この部分はどんな指使いだったかな。
え?ここは、そんなに速くなるの?
ロングトーンが木管と、どう考えてもハモってない。
そもそも楽譜上ハモらないのか?
あ、置いてかれた!
今はどこだ?
テンポは?
頭拍が分からない!
次はどこから?練習番号の何番?それはパート譜のどこのこと?
空間が歪んでいく。

弓が弦の上でパニック状態。
周りを気にし過ぎるから、
音を控えめにするために、
次第に浮かせ気味で、歯が浮いたような音しか出せなくなる。
そのままfffでトレモロ刻むから、
右手に力が入り、
弓は変な方にズレてしまう。

物理的にも精神的にも、
自分の音がモニターできない。
一種の浮遊状態。
頭の中で鳴る音と、
周りの音がリンクせず、
体の動きに対して、音のフィードバックが無い。
すると、いつしか自分の身体が空間に実体を留めなくなる。
冷や汗、
次に手の感覚が無くなり

そして固まる。


時計を見る。
あと10分がんばれば、
予定では、練習が終わる。

ひどい頭痛。
周りに気を遣わせないためにも、
笑顔は取繕わねばならない。

最終的には、なんとか隣の人や周りの動きをマネするだけ。

自分が何故ここにいるかすら分からない。

昔から、
多分全体の半分以上、
僕はこんな感じだったのかもしれない。

ただ、音楽が好きだったし、
憧れもあったから、
いつも歯を食いしばって頑張ってきた。
おまけに無理してることに、
本人は全く気付いていなかった。

最近、もういいんじゃないかなと思う。

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やり過ぎ病のささやかな望み

連休中にギターを、あまりにやり過ぎたせいで、
左手の指が腱鞘炎になりそうになり、
とりあえず今ギターはお休み。
バイオリンのみ弾いています。

最近、やり過ぎ病ってのは、ある技能を身につける時、稀に効果的に働く場合がありますが、やり過ぎ病の当の本人は、行為そのものが目的化しているので、ある種の中毒に近い物だと考えるようになりまして、
つまり寝食忘れてのめり込んでいては、脳は喜んでも、いつか身体が壊れてしまう訳ですから、
もし、のめり込みのコントロールが不能になる予感がしたり、実際身体が危険信号を発した時は、意識的にその事象から離れる事を気をつけようと思います。
腱鞘炎になっちゃ元も子もない。
やり過ぎは毒です。

バイオリンに関しては、夏の演奏会の曲の譜読みが一通り終了。
といっても、楽譜にある最低限の情報のうち、さらに必要最低限の物を音にできるようになったに過ぎないのですが。

一通り楽譜は見たので、月終わりにある合奏練習に参加しよかな。
途中山梨でオケの演奏会に参加した事を除いて、
ここ数年、ひたすら部屋に籠って基礎練ばかりでしたから、
だからまた、自分と同じように楽器が好きな、いろんな人たちの音の中に身を置いてみたいんです。
曲なんて、何だっていいから、
集団の中で、音が出したい。





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おげんさんショック

先日のおげんさんショックにより、
Amazon経由でアルバムまで買ってしまい、
YELLOW DANCERを通勤中に聴き、
二曲目のWEEK ENDのEARTH WIND AND FIREっぷりにのけぞって、三曲目SUNのJackson5っぷりに鳥肌が立ち、その他ジャケットも含めたYMOっぽさやら、細野晴臣のHOSONO HOUCEみたいなのとか、あとティンパンアレイっぽい曲とか、はっぴいえんどっぽいのもあって、本当に楽しい時間が過ごせました。
いい音楽というのは、目の前の世界をガラッと変える力がある。
薄灰色に曇った街を、一気にクリアーな色に変えたり、
見慣れた風景に、フィルターをかけて、いつもと違った色合いを持たせる事だってできる。
おかげで何気ない通勤の農道風景も、新鮮な気持ちで通り過ぎることができました。


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