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あるもの使い果たして返せ

なかなか仕事が忙しくて、
夜は食べると眠くなるしで、
夜中に走る事が習慣化しにくい今日この頃ですが、
元々禁煙のために始めたランニングは、
禁煙後一年を間近にして、実はその目的は達成しているのだけど、
ランニングには実は副産物があって、
それは僕にとって、
体力の維持でも、ダイエットでもなく、
実は精神的な安定なのでした。
好きな音楽と共に、
外の空気を吸いながら、
肌に季節の風を感じ、
リズミカルに地面からくる振動を、
脚や腰に感じながら汗を流す行為は、
最強のストレス解消法なんじゃないかと最近思うのです。
昔、何を思ったか朝5時に鎌倉の円覚寺に行って、
坐禅した事があるんですが、
あの後、午前中ずっと
足腰が軽くて、心身ともに軽やかでポジティブに過ごせたのですが、
あれと近い効果があるんじゃないかなあと思うのです。

坐禅とランニング、
実は似ている?

そんなこと考えていたら、
あ、朝走ればいいじゃん。
と思いまして、
早速目覚ましを、いつもより一時間早く合わせ、
世に言う朝ランをする事にしました。

走っている最中に便意をもよおす事に対する対策さえしっかりすれば、
かなり気持ちいい時間が過ごせるし、
その後の一日が、まるで別物になります。
朝の一時間は、昼の一時間と比べ物にならないくらい充実させる余地があります。
すごい不思議だけど、その事に気付けただけで大きな収穫でした。

今週は月火水と走って、脚が筋肉痛で痛くなったので二日、木金と休みました。
二日休むと次の日に走ると前より楽に走れる事が分かっているので、明日が楽しみです。

新任の頃は、毎日が本当にかったるくて、
仕事を覚えたら、きっと今よりもっと楽に生きられるはず、と思っていたら、
その実仕事自体はどんどん増えてゆき、ストレスも質は違うとはいえ、それなりに増したように思います。
しかし、それは結果論。
当時の僕はいっぱいいっぱいでしたし、
今だってそれは変わらない。

四十を過ぎて、
若い頃を懐かしむ反面、老いに対するリアルな不安、
そしてその先にある死が、実像として立ち上がる予感を感じます。
死を意識する事は、つまりは自己の生の意味を問うことでもあります。
自分の身体はいつかは返すレンタル品だと、個人的にはそう思っていますから、
かりそめの自分は、なるべく使いきって返したいなと思うのです。
別に大袈裟な意味ではなく、ただ、やれることはやってから返したいと。
それだけです。
脳細胞は加齢と共に減り続けるのは確かですが、
それだって可能な限り、ちゃんと使いつくすことが、
与えられた自分の使命かもしれなくて、
いつもじゃなくて、たまにでいいから、
思い返す必要があるんじゃないかと思います。

今僕は通勤に片道1時間15分かかるのですが、
これは1日の中で、かなり大切な時間でもあります。

理由はまず、一人であるという事。
これは重要。
若い頃は一人の時間なんて、いくらでも作れたけど、大人にとって一人の時間というのは、ある意味贅沢なんだと思うのよ。

二つ目、これは境界であるというファンタジー。
夕と夜の間、夜と朝の間、
この世にあるまじき事は大抵その時間に現れる。
らしい。

仕事の自分、
家庭の自分、

その境界にいる事が、
僕の中に本来の自分を見つけるために必要な時間。

車で音楽を聴いたり、
ポッドキャストを聴いたりしながら、
フロントグラス越しに朝の街や、夜の街を見ています。

最近はスマホアプリでWNYCのラジオを聴きながら帰っています。
WNYCはニューヨークのラジオ局。
便利な時代です。そんな遠い国にラジオが、
リアルタイムで聴けるのですから。

初めの二日間は全く何言ってるかわからなくてBGM化していました。別にそれでよかった。だって英語の勉強じゃないんだから。結果は必要なくて、ただ日本語にうんざりしていたから、違う世界の違う言葉を流そうと思っただけのこと。スワヒリ語とかでも良かったけど、英語くらいの距離感が安心できたんだと思います。

そうやって月曜、火曜と過ごしていたら、
なんと木曜日くらいに、いきなり、何言ってるかある程度分かるようになってきました。
中学や高校で英語の授業で習った事が、今も僕の脳内の忘れた棚に置かれていて、それが息を吹き返したよう。
中学、高校英語くらいの知識で、大体何の話かくらいは分かるんですね。

使い果たさなくてはと思う。
あるもの全部使い果たせ。

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