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2018年6月

人生は夢だらけ

数日前に、椎名林檎とトータス松本の
「目抜き通り」を聴きまくっているって記事を書いたんだけど、
まあ、当然の成り行きなんだろうけど、
今は、同じく椎名林檎の
「人生は夢だらけ」のMVを、
夜な夜なダイニングで
YouTubeのエンドレスリピート。

僕の年代は
たとえミシェルルグランの名前すら知らないにしても、
ミシェルルグランの音は無意識の底に宿して生きているはず。
かく言う僕は、
そのつまり、
大好きです。
ルグラン。

シェルブールの雨傘。
ロシュフォールの恋人たち。

リアルタイムではなく、
リバイバルの関係上、
僕たちはあの雰囲気にハマってしまう。

細かい歌い回しも完璧。
東京事変の彼女も、
無罪モラトリアムの彼女も、
勿論最高ですけど。




1950年代のアメリカが好きな人は、
大抵ディズニーリゾートが好きなんだそうですが、
僕はディズニーランドの描く50年代も、
ユニバーサルスタジオの描く50年代も、
僕にとって一抹の違和感がある。
訪れるたび、その理由を想い、
そしていつしか楽しいはずの時間は終わる。

僕の中学時代は、
1950年代アメリカでできていました。

ヒーローはジーンケリー。
プラターズにポールアンカ、
ビリーヴォーンにニールセダカ。

あの時代への憧れが、
その後の20世紀の文化史であるとすら思える。
80年代なんて、
まさに50年代リバイバルなんじゃないかと。

良いものは、何年経っても良い。
「雨に唄えば」は今でも名作だし、
マイルスのマラソンセッションは、
こんな世の中にあっても、
疲れた誰かを癒すのです。

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コシファントゥッテ

学生時代に一度だけ、
アマチュアオペラの舞台美術をやった事がある。
単に大人たちに都合が良いよう利用されただけなのだが、
当時は多少わくわくもしたし、
今となってはいい思い出だ。

大学一年の僕は、
先輩にうまい具合に乗せられて、
クラスの友達数人を引っ張り出し、
四枚のパネルを製作するはめになる。
結構ハードなたつ仕事、しかもノーギャラである。

学んだ事は二つ。

一つは刷毛の洗い方。
これは後々そこそこ役にたった。
毛先を鷲掴みして洗う。

もう一つ
こちらは全く役に立たない人生訓。
身の丈を越えるような役割を与えられる時、
大抵誰も、僕に対して期待してなんかいないということ。
集団や組織にとって、
一人の人間は所詮、
チェスの駒である。

これはその後の人生で痛いほど知った。
でもそれはそれで、
まあそういうものだ。
若い頃は、まだ納得できなかったから、
多少傷ついたけど。

本番が終わり、
僕は大学オケの部室にいた。
チューバの先輩が足のない僕を、とりあえずここまで送ってくれたのだ。
三月のことだ。
日付はとうにまわっていて、
あと一、二時間待てば日が昇り、
大学から駅に向かうバスに乗れる事が分かっていた。

僕は寒い部屋で一人、
眠るわけにもいかず。
部室のコタツに入りながら、
夜明けまで音楽を聴いて過ごすことにした。
ここで眠るよりも、
慣れたベッドで寝たかったのだ。
当然学生オケの部室だからクラシックのCDばかり。
少し迷ってから、
マーラーの五番目の交響曲の、
あの有名なアダージェットを聴くことにした。
バーンスタインが指揮してるやつだ。

入口のアルミ戸を開けて、
明け方の空、吸い込んだタバコの煙をぷはあっと吐き出す。
紫煙の先の星空が次第に青みがかり、
まるで何事もなかったかのように、
また新しい一日が始まる。
疲れた夜明けには、
特有の癒しがある。
鼻先をくすぐる、
淡くて漠然とした希望。

その後いろいろあったけど、
あの夜明けのアダージェットは、
多分一生ものだなあと思う。
そんな風景、
誰しも一つや二つ
あると思う。

Così fan tutte
女はみんなこんなもの


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相手が物である事の救い

最近仕事が忙しすぎて、
楽器ケースを開ける回数が減っていましたが、
ある日久しぶりに弾いたら、
何だか違和感を感じる。
楽器を右手にバイオリン、左手に弓を持っているような違和感。
あ、これは楽器と自分とが疎遠になるサインだと、ピンときました。
当たり前のように体に馴染んでいた道具が、
何だかよそよそしく感じられるという事は、
つまりは生活の中で、その道具の価値が以前と変わってしまうという事かもしれません。
相手が人ならまた別なストーリー展開がありますでしょうが、
今回の件に関しては、イニシアチブは全面的に僕自身にあり。
つまり僕が楽器を自分の方に引き止めようと行動すれば、この危機は何事もなかったように、あっさりと解決する。

なんてこたない。
単なる練習不足。

そんな時、一発で効く頓服みたいな方法がある。
といっても地味な基礎練習。
ボウイングと音階練習。
地味だけれど一番の近道。
30分で元の感覚が返ってきました。
関係修復完了。

バッハの無伴奏をとにかくゴーって音で鳴らして、
楽器を響かせて響かせて、
リハビリ終了。
身体はポカポカ、楽器も程よく汗ばむ。

気付いたら一年くらい弦を張り替えていません。
ドミナントがいい具合にヘタって、
発音や音程の誤差に寛容になっています。

でも別に切れてないし、
まあ替えなくていいかなとも思う自分がいます。
ただ自分の楽しみで弾くというのは、
つまりそういう事なんでしょうね。
誰かと一緒に弾くという事は、
自分の音に対する意識も同時に高まります。
自分が自分のために楽器を弾くという事だけのために、
楽器を所有し使用するのは、果たしてあるべき姿として自然なのだろうか。
弾き手と楽器という関係を超えて、
音楽である事を求めるなら、やっぱり他者の存在を想定しなくちゃならない。

つまり楽器はやはり、
手段以上でも以下でもない。

そして人という生き物は、
結局のところ、
一人きりでは完結できない生き物なのでしょうね。
音楽も人の営みである以上、
この運命とは無縁ではいられない。

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ヒツヨトサレヨガサレマイガ

今朝は5時前に目が覚めた。
目覚めた瞬間やらなきゃならない仕事の事が頭に浮かびうんざりする。
二度寝しようにも気になって眠れない。

夏至が近いから、
日が大分と長くなってきている。
それが今日の早すぎる目覚めを導いたのかもしれない。

少し肌寒いくらいの冷気が開けた窓から部屋に入ってきた。昨晩は蒸し蒸しして寝苦しかったのに。

必要とされてるうちが華よ

と、遠い記憶に微かに残っている、
どこかの誰かの声。


ヒツヨウトサレテルウチガハナヨ


寝室の天井を眺めながら心の中で呟いてみる。

例えば芸歴が半世紀以上の国民的落語家が、
「皆様が、こうして呼んでくださるうちは、頑張りたいなと思います。」
なんて、
さも言いそうな台詞。

こんなのは、実はただの嫌ったらしい見栄なんじゃないかと、ベッドで一人思う。

ヒツヨウトサレテルウチガハナヨなんて言ってちゃだめなんじゃないか?
確かに世の中は厳しい。
そもそも社会は、利己的な自己の集まりで構成されているもの。

When people can be so cold?
They'll hurt you, yes, and desert you
And take your soul if you let them, oh, but don't you let them

鳥がさえずり、
隣に眠る五歳の娘が寝返りをうつ。


敢えてこう言い張るのも、
粋じゃないかと思う。

ヒツヨウト
サレヨウガ
サレマイガ
ワタシハヒトリ
タダ
ワタシナリケリ

よし!
と心で思う。
そいつをきっかけに、
ガバッとベッドから起き上がる。



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人間観察

今でも相変わらず、
単位が足りなくて大学を卒業できない夢を見る。

最近は夢の中で、「いや待てよ、卒業してないなら免許もないし、今の仕事もしてないよな」と思う瞬間があって、そう思いながらもストーリーの流れに漂っている事が多い。
夢の只中にありながら、
本人それが夢である事に、薄々気付いている。
にもかかわらず、その状況を楽しんでいる。
そんな、ちょっと不思議な気分。

先日、接待の飲み会があった。
明日も仕事があるから、
呑みはそこそこにという雰囲気なぞ微塵もなく、
その会に呼ばれし面々、
誰も彼も実によく呑む。

主賓は、
つきだしはおろか、
食事には全く箸をつけず、
ただひたすら酒を呑むのみ。
生粋の酔っ払いを、
久しぶりに見た。

母が昔師事していた今は亡き俳句の師匠が、
当時無類の酒飲みであったのだが、
その彼、好物は「焼酎茶漬け」。
茶碗に飯と漬物、そこにお茶でもだし汁でもなく、
麦焼酎を、たぷたぷと注ぎかっ込むそうな。


僕自身、呑んで愉しくはなるが、
性格の変化は大して無いらしく、
いつもより多少よく喋るようにはなるけども、
誰かに絡むような事はまず無い。
顔色も変わらず、ひたすら呑んでいる。

酒席では大抵、
他の人たちが愉しく過ごしている様子をニコニコ観察しているのが好きだ。

人はある年齢を境にして、
知らず知らずのうちに、
通り過ぎた時代の空気や、
幼少期の些細な体験やら、
過去の人間関係やら、
そういったものを心の奥底に溜め込んでいる。
それが顔に現れ、会話の端々に見え隠れする。
それを黙って眺めるのが好きなんだと思う。



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目抜き通りへ

誰も知らない わたしが何なのか
当てにならない 肩書きも苗字も
今日までどこをどう歩いて来たか
わかっちゃあいない 誰でもない

ここ数日、3分ちょっとのこの曲を
暇があったらリピートかけてエンドレスで聴いている。
半分中毒のようになっている。

椎名林檎とトータス松本が、
昨年、東京銀座にできたという商業施設のために吹き込んだ、「目抜き通り」という歌。

先週の中頃、仕事でちょっとしたトラブルがあって、
納得いかない事があった。
そんな事など、これまでいっぱいあった。
しかし今思うに、
大抵戦うべきは、
自分自身。

といっても、
別にアスリートが言うような
自分の限界を超えるみたいな
マッチョで安直なあれではなくて、
ここで言いたいのは、
自分の中のコンプレックスだったり、
シャドーだったり、
そういったこと。

結局は対人関係のストレスは、
突き詰めれば、
ストレスを感じる
その本人の課題である場合が殆ど。

今回のモヤモヤも、
つまりは僕の内面の問題。

そもそも、そうでなければ
こんなに長くモヤモヤなんてしない。
課題は自己にあり。
相手は触媒ではあるが、
原因ではない。

そんなこと
自分以外にとってはどうでもいい事だから、
今日もこの社会で生きるためには、
いかに自己を慰めて、
いかにまたこの下らない世界に出かけていけるかということが大切。

この歌がそれを後押ししてくれると、
きっと無意識の自分は思ったのだろう。

朝から車でエンドレスリピート。


あの世でもらう批評が本当なのさ
デートの夢は永い眠りで観ようか
最期の日から数えてみてほらご覧
飛び出しておいで目抜き通りへ!


新しくできる商業施設のCMソングの歌詞に、
死をイメージさせるフレーズをちりばめているにも関わらず、
でも何だかそれでも生きる事への勇気をもらえるような力がある。

椎名林檎やっべっ

そう呟くと信号は青になり、
結局僕は、今朝も仕事に向かう。



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