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2018年5月

手頃な現実逃避 in蒲郡

それこそ三十前半まで「仕事してる自分は本当の自分じゃない」と思っていた。
「本当の自分」ってのが何処かにあると、漠然と信じていたという方が、表現としては的確かもしれない。
結局「本当の自分」ってのは幻想でしかなかった。幻想を求める事自体は別に悪い事ではない。
ただ幻想を幻想と分かって求めるのと本物と信じて求めるのとでは、ウイスキーと麦茶の違いくらいはあるかもしれない。どっちがウイスキーかなど聞くことなかれ。

母親の胎内から産まれた時は「本当の自分」であったかもしれず、いやもうその時点では既に無かったのかもしれず、その昔、中学の頃理科の教科書で見たカエルの卵が分裂していくように、社会性を身に付ける過程で、人は自己という存在をどんどん分裂させてゆく。

学校で友達と過ごす自分、
家族と食卓を共にする時の自分、
部屋で一人でいる自分。

キャラクター

随分前から人々は社会的適応の過程で生まれた自己像をこう呼ぶようになった。カール・グスタフ・ ユングの言うペルソナと同義かは知らない。

アナウンサーの古舘伊知郎は沢山の眼鏡を所有していて、シチュエーション毎に使い分けていると昔テレビの番組で話すのを聞いた。

あんな風に人は誰も、自分というものをいろんな場面で使い分けて生きているもので、
それぞれのキャラクターの整合性を保ってやっているかは知らないが、
仮にもし完璧にその整合性をとれている人物がいたとしたら、
多分その人、かなりつまらない印象じゃないかと思う。
いろんな自己をシチュエーション毎に使い分ける事は、文明社会で生きる道を選んだ人類が、長い歴史で純化させたある種の文化であり、人々はそれこそ紀元前から
分裂した自己を如何に統合するかといった悩みに短い一生を捧げながら、日々生きて死んでゆく事を繰り返してきたのである。その事自体が煮込んだスープみたいに、
その人の味になるという気がする。

ところで僕の実家の本棚には日本文学全集があった。

酒飲みの父は独身時代、
給料が入ると殆どアルコール絡みの付き合いに使ってしまう。本人けして読書家ではなかったが、母によれば給料日に自制を込めて一冊ずつコツコツと買い足したらしい。当時はそれが流行りだったのか、家には先述の日本文学全集の他に母が買い貯めた河出書房の西洋美術全集なるものがあった。
小学校高学年から高校にかけて、
僕はその日本文学全集と西洋美術全集を交互に読み漁る。太宰治やルノワール。芥川龍之介、オデュロンルドン。

ちなみに最近は本なんて殆ど読まない。
大体字を見ると眠くなってしまう。
文字を眺めるのは近頃は仕事関係の用事ばかり。

週末くらい仕事を忘れて、
ゆっくりと家族との時間を過ごしたいのだけれど、
家にいても積み残したり継続中の仕事について考えてしまう。うっかりついでにうんざりするのが関の山。
風呂上がりにスーツ姿で寛ぐサラリーマンがいないように、仕事の自分は所詮仕事用の自分でしかない。
部屋着の自分になる事を心から欲する自分がいる。

そんな訳である晩、同じく仕事に首まで浸かりつつある妻君と、ある企てをする事を思い付く。

別に大した事じゃない。週末に家族旅行をしようって話。
たまの二日、生活の場所を変えて仕事の入り込む隙を無くす事で、頭の中がリフレッシュできるのではないかと、そんなプロジェクト。

場所は蒲郡

道が空いてれば家から一時間弱で着く。
海が綺麗で温泉もある。
美味しい魚もある。
早速宿を予約、
そんなこんなで、この土日は竹島近くの某ホテルで過ごした。



脳科学的には、
リフレッシュの基本は、
普段過剰に使っている脳の部位と、
全く別の場所を刺激する活動をする事が大切らしい。
普段理屈をこねくり回す傾向のある職務内容が多いから、こんな風にぼんやりと風景を描き写す行為は、
妙に気分がすっきりする。



竹島は最近縁結びのパワースポットとしても有名だ。
長い連絡橋を手を繋いで仲睦まじく渡る男女が多い。
近くの水族館はこじんまりとしているが大人気。いつも長蛇の列。







僕は個人的に水族館の水槽の底の方にいる、ぼんやりとした無防備な魚を眺めるのが好きだ。
水族館の楽しみは、そんな脱力系の魚たちを探す事に尽きると勝手に確信する自分。

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日常の中の非日常。

相変わらず目処の立たぬ仕事を切り上げ、
いつもの帰り道。
右手に古いガソリンスタンド。
ロープで囲われて、
「しばらく休業します」と手書きの看板。
されどガラス張りの事務所には今夜も明かりが灯り、
タンクトップの男性が新聞を読んでいる。
齢70代くらいのその男性は、
僕が帰る時間帯、
いつも同じ格好でそこにいるもんだから、
何だか気になってしょうがない。
まるでそこだけが周りから隔絶され、
時間が止まっているような、
そんな不自然な空間。

帰宅後、
ナイキのシューズを着て、
夜の街を走る。
自分の足でアスファルトを蹴って。

今夜は5キロって決めてたから、
少しペースをあげてみる。
昼の名残の生暖かい空気と、
夜のひんやりした空気とが、
マーブル状に折り重なって、
僕の身体を通り過ぎてゆく。

空腹だから身体がすこぶる軽い。
気持ちよく時間が過ぎてゆく。

折り返し地点のホームセンター前交差点を過ぎて、
軽い下り坂。
田んぼには水が張られている。
遠く電車が通り過ぎるのが見える。
窓の明かりの連続が、その水面に映っている。
驚いたサギが
バサバサと飛び立つ。

何の飾りもない。

当たり前の風景。
当たり前の日常。

長く生きていると、
時々それが感じられなくなる。
この空気の匂い

肌触り
十代の頃、
当たり前にあったそれらの日常は、
別に時代の流れに巻き込まれて、
消えてしまったのではなく、
毎日の繰り返しというメッシュでこし取られた結果の積み重ねによって、
僕自身が気付く事ができなくなっただけなのかもしれない。

明日も明後日も、
たぶん僕は生きているはずだけど、
こういった感覚を
ちゃんと保ち続けるための努力は、
必要だと思う。



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ロボコップとフレンチコネクションのザッピング

リビングのソファに寝っ転がって、
リモコン片手にチャンネルサーフィン。
BSで「ロボコップ2」と「フレンチコネクション」を交互に見ながら、
麻薬捜査は大変だなあなんてやってたら、
我が家の猫ちゃん、
スコティッシュフォールドがやってきて、
寝っ転がる僕のお腹で喉をゴロゴロ一休み。

フレンチコネクションのラストは、
第三の男に対するオマージュだったんですね。

ジーンハックマンはルックス的に言えば、
ジョセフコットンよりはむしろ、
オーソンウェルズに近いですけど。

ロボコップにせよ、フレンチコネクションにせよ、
警官や刑事がとにかく人を殺しすぎです。
確かに相手は悪役だけど、
でも、あんなにもあっさり殺す事に、
僕なんかはちょっと違和感がある。
少なくとも日本では多少の迷いはあるような気がします。
そんなこと言ってられないといえば、それまで。
これが国の事情なのか、
文化の違いなのか、
よくわかりませんが。



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雨上がりのアスファルト、ボサノヴァ

ここ数日のどんよりとした空も、
午後になると雲が晴れて、
久しぶりに黄金色の17時。
いつもなら帰る頃は真っ暗だけど、
今日は出張だったから、
職場へ帰らず自宅へ直帰。
濡れたアスファルトがキラキラと光る中を
のんびりドライブ。

仕事というのは社会的な営みだから、
たとえ在宅ワークであっても、
他者との関係の中で行われるもの。

例えば一人で黙々と籐籠を編む伝統工芸の職人さんであっても、それを生業とする限り、
当然自分の作品を手にする誰かを想定し、
自分にとっても、相手にとっても
価値あるものを作ろうとするもの。

その想定する他者というのは、
自分がおもんばかるところの他者であり、
それは、自己の想像するところのものであるわけだから、
つまり自己の投影というフィルターを通る事がある意味決められてしまっている。
そこが、仕事に現れるその人らしさなんじゃないかなあと思うし、
その事が社会にあって、
人に孤独を感じさせる要因でもあり、
また他者との共感という救いを自ら手に入れるための、
小さなドアなんだと思う。

結局人は寂しい生き物だから、
一生かけて、
その共感の鉱脈を探って一喜一憂しながら、
食って寝て死んでいくだけなのかもしれない。

世界との一体感を求めるのは、
人の宿命なんじゃないかと最近思う。
大体この世に生まれるという事は、
母体からの切断という悲劇から始まるわけだから。

仕事をしながら、
でも自分である事。
自分でありながら、
世界でもある事。

これをいろんな場面で、
とっかえひっかえ、
縦に横に斜めに見ながら、
ああでもない、
こうでもないってやりながら、
誰もかれも、
そうやって生きて、
そして死んでゆく。

夜になる前の、
空が赤紫に染まる頃、
信号待ちで、
トムジョビンの名作「三月の水」を、
ジョアンジルベルトの歌とギターで聴きながら、
フロントガラス越しに、
飛行機雲をぼんやり目で追っている。

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楽器の練習って基礎練習のこと?

楽器演奏全般でそうなのかは、わかんないけど、
弾けない弾けないって言いながら、
メトロノームカチカチしてゆっくりさらうような、
地道な作業をしても、一向に弾けなかったフレーズが、
あることをすると、ウソみたいに弾けるようになる事がある。
結論からいえば、それは世に基礎練習って呼ばれてるもの。
ほんとに不思議なんだけど、
音階練習とか、クロイツェルみたいなエチュードを無心にやると、今までうまくいかなかったあれやこれやが、ウソみたいに弾けたりする。
まさに雲が晴れて青空が見えたような気分。
気持ちいいの一言。
あれは何だろうって、いつも思います。
だって、ある曲を弾くために練習するとしても、
曲をさらうのは楽譜を理解するためであり、
実際演奏するためのスキルは、
曲ではなく基礎的な練習によって身につくという不思議。




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ソロモンク 1995

セロニアス・モンクの
「ソロモンク」ってアルバムを
今夜は聴いています。
1965年録音。コロンビアレコード。

僕がこのアルバムを手にしたのは1995年。
JR甲府駅ビルの新星堂で輸入盤のCDを買ってきて、
下宿で何度も何度も聴いていた。
若い頃にこうやって聴いた音は、
その頃に感じた事、
例えば風の匂いだとか、
壁や絨毯の感触、
肌に感じる気温など、
全部ひっくるめた感覚の記憶とともに、
一生変わらない個人的な価値を持っていると、
当時の僕は
知っていたか、
知らなかったか、
二十年以上の時間を経て、
その実僕は、
今それを、こうして感じている。

昔、作家の景山民夫が、
テレビの番組で
このアルバムを夜中に一人で聴いていると、
仕事がはかどるって言ってた。
その彼は1998年に自宅書斎でプラモデル作ってる時に火事で亡くなったらしいけど。

僕は1995年、
山梨の下宿でこの「ソロモンク」を、夜な夜なプレイヤーで再生しながら、
セブンイレブンで買ったジンライムを、
安物のグラスに入れて飲んでいた。

そのせいか、
僕はこんな歳になった今でも、
この1965年録音、
コロンビアレコードによるところの、
セロニアスモンク演奏による
「ソロモンク」を聴くと、
スーツの肩パットでいかり肩の景山民夫と、
まずいジンライムを思い出す。

青春ってのは、
失ってしばらくしてから、
わかるもんだよって、
言ったのは、誰だったか。
いつの飲み会だったか。
もう忘れちゃったけど、
あれは本当というか、
そもそも常識だったのですね。
あの頃はわかんなかった。
こんな日々はずっと続くのさって、
それこそ小沢健二じゃないけど、
何の疑いもなく思ってた。
それか若いって事の良さでもある。

ビートで区切る事で、
人は時間を前へ進めて、
早く経過させる事が可能だ。
確かにその間の密度は高まるけど、
終わりに向けて疾走する時間感覚は、
所詮時間そのものを、
消費する行為の、
以上でも以下でもない。

目的に向かって何かをする時、
時間はあっという間に過ぎ去るけど、
目的自体を探し求める時には、
時間はゆっくりと流れるのだということは、
どうやら確かなんじゃないかなあ。







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