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2018年3月

花見





いきつけの公園で、
3月最後の一日を過ごしています。

今日は光が心地いいし、
空気も澄んでいるから、
目に入ってくる色が鮮やかです。

桜は満開。
時々優しい吹く風に、
ピンクの花弁が、
わあって具合に
薄水色の空へ舞い上がっていきます。

一本の桜の下へ敷物を敷いて、
ごろんと寝っ転がってみる。


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クラシックとジャズと

クラシックも確かに楽しい。
書かれてある楽譜の情報を、
細かく読んでいくと、
そこには明確な意図があって、
理屈がある。
意図なり理屈がみえると、
途端に仲良くなれる。
つまり信頼関係が生まれる。
100年以上地下に閉じ込められていた誰かを救出したような感覚。
遺された楽譜の音符を、
胸躍らせるながら紐解く感覚。

もし正解がある事を前提でやれば、
すごいストレスなんだろうけど、
その行為自体は、
本来とても温かくて、
人間的な営みだと思う。

遠い昔の遠い国の誰かが、
遠い将来の遠い誰かに手紙を書いた。
言葉は国ごとに違うから、
もっと物理的に分かりやすい形で遺す。

楽譜というのは、その意味では合理的な記号だといえるかもしれない。

それを、遠い未来の誰かが
親しみを持って読み取ってゆく。

それは愛だと思う。

対象は作曲者であると同時に、人類全般に向けたものであるとも思える。

クラシック音楽が考古学的な意味ではなく、
価値があるというのは、
そこに理由があるんじゃないかと、
僕は個人的に信じています。

ジャズについては、
近いけれどまた違う意味がある。
これはもっとスポンティニアスな捉え方がなされている。
楽曲の枠組みに寄生しながら、
その中で今を生きる。
そうするためには、
寄生する対象を、
それこそ自分自身であるかのように、
分析し、受容しなくてはならない。
つまり、
あなたのこの行為には、
全面的にリスペクトしつつも、
そこにはまだ語られていない可能性がありますから、
それを再構築して、今の時間に還元します。
そうする事によって、
この作品を、今の時間に新鮮な意味を持って存在させる事ができるのだと、
つまりはそれがジャズ的なスタンダードに対する立ち位置なんじゃないかなあと、
勝手に思います。


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スコアリーディング

アマオケにいた頃、
柄にもなくコンマスをやっていた事がある。
まったく無謀も無謀。
今思えば恥知らずもいいところだ。
その頃、馬鹿なりに発表会の曲のスコアを買って、
しこしこと読んでいた。

楽典の知識は、
もともと系統だって教育されていない。
スコアリーディングについて初めて習ったのは、
山梨の大学オケで、
楽器を手にして間もない頃。
当時オケが音楽監督として依頼して
トレーニングをうけていた指揮者が、
団員向けに楽典講座とか、スコアリーディングとかのレクチャーをしてくれていた。
穴埋めプリントまであって、
それをもとに先輩から指導されながら、
夜中の大学の講義室で、
ちょーたんたんちょーちょうたんたん
とか唱和していた。

ドミナント、サブドミナント
平行調、同主調

本業であるはずの機械工学そっちのけで
いかれたみたいにやっていた。
その時代、その大学オケは留年率が非常に高く、
教授陣から批判の目が向けられていた。
本業に背を向けて、
一種のゲリラみたいな存在。

馬鹿といえば、馬鹿の一言で片付けられる事柄。
大人の目線から見れば、
馬鹿だと、それだけの事だけど、
本業から離れた所で夢中になれる場所ってのは、
確かに危険だけれど
魅力的ではあるのもまた確かである。
この怪しさを知ってる事は、
その後の人生をたくましく乗り切る燃料くらいにはなると思う。
僕は今、実感を持って断言するくらいの自身は持ち合わせている。

スコアリーディングの知識は、
そんな夜のゲリラ的な教育によって身につけた。
あとはほぼ独学。
勿論その後も場所は違えども、
学生オケにはいたから、
みんなで依頼した指揮者の先生から、
いろんなことを学んだ。

系統立ててアカデミックには学んでないけど、
例えば、代々畳屋をやっている家の小僧が、
跡を継いでしばらくして、
ああそういや親父が昔あんなこと言ってたなあって
ふと思い出すような程度の、
つまりは整理されない形での知識は摂取していた。
きっとそれは価値ある原石だったはずだが、
本来の価値を発揮できる可能性は、
その後の運命に丸投げだったような、
つまりは大事なことを紙に認めて、
それこそラムの瓶に詰めて無人島から海に投げ捨てるような、そんな未来への無責任な投資だったのかもしれない。

アマオケで僕は、
そんな知識を引き出しに、
あとはヤマハで買った本だとかを頼りに、
拙い知識で
ベートーヴェンやモーツァルトのシンフォニーだとかを、ひたすら読み込んだ。

断言できるが、アカデミックな教育を受けてない身であっても、ベートーヴェンのシンフォニーは、最高に楽しい読み物だと思う。特に第九は最高だ。
ベートーヴェンは作品に誰もが納得できるような説得力を持たせようとしていたと思う。
それがスコアから立ち上がろうとする時、
彼がみんなに分かってもらおうとする意思が、
100年以上の時を越えて、まだ生きているように感じられた。一種の生きた祈りみたいなもの。
こんなズブの素人ですら感動するんだから、
遠い国の、昔々の人なんだけど、
やっぱりベートーヴェンは偉大だと思う。

さて、今夜僕は
ベートーヴェンではなくて、
ジェローム・カーンを読んでいる。
ALL THE THINGS YOU ARE
変な曲だ。
72小節中8回も転調している。
(8回という数は正しいかどうかわからない。例のごとく素人の判断で不器用にやった作業の結果だから)
アドリブを一本の線で作るには、この転調の波を綺麗に乗り越えるスキルが必要なんだけど、
それにはやっぱり、こうした分析が必要なんだなあと、あらためて思う。
autumn leavesなんて、テーマの雰囲気とキーのスケール、あとオカズのブルーノートでとりあえずは様になるけれど、
この曲はそうはいかない。でも、うだうだコードネームを眺めながら、ドミナント探して、これかなどうかなってやるのも、何だかんだいって楽しい気晴らしだと思う。
なんてったって、ALL THE THINGS YOU AREは名曲。
すごくモダンで都会的な響きが、どんな仕組みで出来ているのか、気になるといえば気になるのです。
スタンダードナンバーだし基本的な曲だから、
ネットを検索したら、解釈なんて沢山書いてあるに違いないけれど、
楽譜とにらめっこで、自分なりにやってみるのは
趣味としてはなかなか楽しい。
音階練習は、いつも全調でやってきたけれど、
これは転調の多い曲をやる時かなり力になる。
あと、三種類のディミニッシュ分散和音が、
こんなにも便利なもんだとは思わなかった。




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傷ましき腕

これは負け戦だ。
としても、自己の存在を信じられるような、
心の支えというのは、
やはり自己責任という無責任な言葉の下
探さなくてはいけない。
おもてがどんなに冷え切っていても、
心の火に薪をくべ続けねばならない。

自己責任

例えて言うなら、
土砂降りの雨の中で、
泥道で足を滑らし顔から転んだら、
その頭を誰かがブーツの踵で泥の中へと押し込む。
悪いのはあんただよって。
そんな類の言葉だ。

忖度を上手くできる社会は、
裏に凄まじい憎悪を抱えている。
周りを気遣って、
自分を押さえ込んで、
誰からも文句言われないようにした人は、
いつしか押さえ込んだ感情が振り切れそうになると、
静かな暴力性で
自分がコミットした価値観から外れた他者を、
執拗に批判するようになる。
やっかいなのは
周りを伴って、
それこそお誘い合わせのうえで、
集団として押しかけるという事だ。
彼らは、さも自分たちのみが常識的であるがごとく話をしたがるが、
時に冗談めかして横の誰かと微笑み合いながら語るその笑みが、だいたいにおいて、
僕から見たらひどく歪んで見える。

実に悲劇的なのは、
この違和感は、それを感じる当人が、
たとえ、どんな表現テクニックを駆使したところで、
目の前にいる自分たちこそが世界を背負っているとすら疑わない人々には、
けして伝わることはないという事だ。
そう感じた途端、
決まっていつも僕は、
生きる気力が萎える。

この感覚について、
それを被害妄想だと断じる人の事を、
僕は根本的に信用しない。
彼らは散々丸太で殴り倒しておきながら、
悪いのは俺じゃない。
殴られたお前がした事だろと言う。

地面に顔を擦り付けられて、
立ち上がろうにも足が立たない。
孤独な自己は、
この瞬間に輝くと岡本太郎は言う。
額、
首、
肩、
肘、
指、
腰、
膝、
足。
全存在を否定された途端に、
全細胞が沸き立つ。

負け戦だ。
そうとも、確かにそうかもしれない。
しかし、それしかないなら、
そうするしかない。




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ある春の日に

下宿の南側の壁にもたれると、
陽光が背中を温めた。
畳に映る自分の影を見ると、
肩からもやもやと、湯気のような揺らめきが見える。
目を細めながらフィリップモリスを一本、
袋から取り出して火を点けた。
煙を吸い込みながら天井を仰ぎ、
ふうっと吐き出してみる。

一昨日あたりから外が騒がしい。
下の階に住む管理人の息子の小学校が、
どうやら春休みに入ったようだ。
とにかく不用意に声がでかい。

昨晩の飲み残しの
気の抜けたミラービールを喉に流し込んで、
その銀色の空き缶に煙草の灰を落とす。
灰は缶の底に落ちると、
シュッという音がした。
灰皿くらい買えばいいのに。
それすら面倒くさいのだ。

昨夜も眠れなかった。
夜中じゅう起きてテレビを観たが、
寂しさは癒せず、
しょうがないから、
学生手帳の裏についていた全国の大学図書館に片っ端から電話をかけた。
とんだ迷惑なイタズラだ。
夜中の2時、3時。
電話に誰か出るなんて、まずありえない。
自分が耳に当てている受話器の先で、
遠いどこかの街の
真っ暗な図書館で電話が鳴っている。
その事が、どうしようもない寂しさを忘れさせるように感じた。

その夜、一件だけ電話が繋がった。
九州の方にある大学図書館にかけた時だ。
用件を尋ねられ、動揺した僕は
思いつくまま、咄嗟に「開館時間はいつですか?」と尋ねた。申し訳なさに頭にちがのぼる。
受話器の向こうの男性は、
声の感じから自分の父親と同じか少し上の年齢だと分かった。ほんの僅かな沈黙。
「10時からですよ。いろいろあるかもしれないけど、しょうがないから今日はとりあえず寝て、10時にまた来なさい。」
声から体温が感じられる。そんな穏やかな声だった。
僕は、こんな真夜中に電話をして申し訳ないと言って、ゆっくりと受話器を置いた。
いったい僕は何をやっているのだろう。
そして深いため息をついた。
さっきまで受話器を押し付けていた耳が、
しっとりと暖かい。
テレビをつけると、
スティービーワンダーのバラードをBGMに、
東京のなにげない風景の映像が流れていた。
遠くで鳥がさえずるのが聞こえ、
カーテンがうっすら青くひかり、
いつしか夜が明けていた。

下宿は甲府にあった。
とてもじゃないが九州になど行けない。
なんとも言えない気持ちを抱え午前10時、
部屋の窓辺で煙草を吸っているのだった。
遠いあの大学にある図書館は、
もう開館したろうか。


今から二十年以上前の話。
今更ふとそんな事思い出すなんて禁煙の影響でしょうか。
それはさておき、あの真夜中の電話で
救われた若者がいるなんて、おじさん知るわけないよね。

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LIKE SONNY

土日はランニング。

もうすっかり、
そんなふうの人になってしまった。

耳にイヤホン詰めて、
prime musicで古いjazzを聴きながら、
夕方の田んぼ道の風を感じながら、
息のきれないペースで走る。

こうして走っていられる時間が愛おしくすら思える。
健康的であるかなんて、
どうだっていい。

僕の住むこの大地を自分の足で感じ、
遠く鈴鹿の山々から吹き降りる風を浴びて(途中工業地帯の煙突からの排煙をブレンドしている。そんなの了承済みだ)
アスファルトからの反動を腰に感じながら、
ゆったりと走る。

この行為は苦行とは真逆。
癒しのランニング。

太古の記憶を呼び覚ますために、
あるいは生物としての自己を揺り起こすために、
ランニングという、
人によっては、何でわざわざ辛い思いをしているのだと理解しがたい気持ちになるような行為に、
夢中になるのだろう。

そんなこと書いておきながら、
僕だって以前はそうだった。
身体を動かして気持ちいいなんて、
ケって思っていた。

でもやったら分かってきた。
この中毒性。
人類がその染色体に刻んだ遠い昔の記憶。
それこそ何万年も前からの。

それを感じられる事は、
文明やら科学やら、
経済やら文化やらにがんじがらめの僕たちを、
大いなる寛容によって慰めてくれるのだ。

今日は8キロ、
昨日は9.5キロ走った。
昨日の疲労がまだ残っていたから、
今日は8キロでやめた。

最近は大体いつも
3キロくらい走ると、いい気分になる。
走り始めは嬉しくてついペースがオーバーしてしまうんだけど、
3キロあたりで心地よいペースが掴めたら、
あとは風に吹かれてればいい。
顎を引いて、
背中を意識し、
肘を後ろに引きながら、
身体を起こす。
遠くに目線を向けて、
あとは頭に浮かぶ考えを、
それこそ流れて行く風景を眺めるように、
ただ傍観していけばいい。
そうすれば、
いずれ背中がポカポカ温まり、
幸福な時間が訪れる。

今日はソニーロリンズ。
1950年代後半。
bluenoteレーベルに吹き込んだ音源を聴きながら走った。

今日は海からの風がきつい。
キャップが飛ばされそうだ。

風の感触は相変わらず埃っぽい。
これは春だということ。

家の近くに来た。
桜並木のうち一本に、
花が咲いているのを見つける。
今年は開花が早い。









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モンクとランニング

セロニアスモンクを聴きながら
夜の街をランニングする。

モンクの指が鍵盤の上を飛び跳ねる。
そこにエレガントな音が広がる。
セロニアスモンクの音楽は、
エレガントの一言に尽きる。
エリントンとはまた違った上品さ。

アスファルトを左右交互に飛び跳ねるナイキのシューズ。
着地のたびに腰に響く衝撃が心地よい。
じわりと背中が熱くなるくらいになったら、
あとは流れに任せて、
ただ走る心地よさに身をまかせる。
考えるのは、
この幸福な時間をいかに長引かせるかという事。
脇を締めて腕を軽く後ろに振っていると、
頭を固定して背骨が左右に波打つように揺れながら、
見事な運動サイクルを作っていくのが感じられる。
紐の一端を持って、ゆらゆら揺らすと、
波のようになるけれど、
それを身体全体でやっているような感覚。
そこまでいくと、
まわりの空気の温度、匂い、肌触り全てが
なんだか愛おしくなる。
走る前に頭にあった、
あんなにも不快な出来事が、
別にどうでもよくなるから不思議だ。
この感覚の虜になって以来、
職場で嫌な気分になると、
「ああ、走りたい。今夜8キロ走ってやる」
なんて心で呟いている自分がいる。
土日は約10キロ、
平日は1日。
節制して5キロ。
そんなペースで走っている。
若くないから、身体の疲労を考慮してあげなくてはいけない。
だから毎日は走れない。
筋肉の疲れを無くす時間が必要なんだ。

セロニアスモンクには、
アップライトのピアノがよく似合う。
アルバムによっては、
あ、これグランドピアノじゃなくてアップライトでしょって音がする。
僕はアップライトの音の方が、モンクの場合は好きです。
エヴァンスは逆にグランドピアノの音が好きだけどね。

ランニングという行為は、
何処か座禅に似ていると思っている。
なんの根拠もないけれど。

ジョンとヨーコの出会いのエピソードじゃないけれど、
所詮、人は最終的には、
自分の全部にyesを与える何かを探しているんだよね。
それを身体の奥に持てるかどうか。
それに特化するなら、僕らはちゃんと向き合わなくてはいけないのだけど、現実社会ってのは、本当に慎重すぎるね。
でも、ストッパーとしてなら、
この時差は必要十分条件なんじゃないかな。





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