« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »

2017年10月

4本の弦

最近すっかり
このブログでバイオリンの話題を書いてませんが、楽器自体は、今でも弾いています。
ただ楽器演奏のテクニックに関する上達は、最近特に望んでいなくて、楽器の構造上の事(5度チューニングに関する特性)だとか、音楽の理屈についての事をちょっとずつ考えて確認しながら楽しんでいます。

この夏以来、以前みたいにはアマチュアオーケストラで楽しむ事ができなくなってしまったので、
今はもっと広い意味で、楽器を通じた楽しみ方を模索しています。
例えばジャズのアドリブ。マニアックなとっつきにくさがありますが、理論ばかりを優先すると、さっぱりアドリブにならず、感性のまま歌う事をすれば手数が足りず。つまりは両方を上手く脳内で構造化してゆく事が、この手の技術の習得方法なんだなあと思う今日この頃。

これは、クラシックのエチュードみたいに体系化が難しい事柄だろうなあと思います。
現にネットにはさまざまなメソッドだとか、理論だとかがあがってますが、実践におけるプレイヤーの認知過程にまで降りた説明はなかなかありません。
こういった事は楽譜やテキストでは、比較的伝わりにくいノウハウなんでしょうね。
この点、どこか外国語の学習にも似ています。
文法だとか、単語だとか、確かに必須だけれども、
これを脳内で再構築していかなくては、
使えるものにはならない。
使える日常会話を暗記するのは、無意味ではないけれど、そこから先に何か自分から発信するためには、脳内にある特定の回路を構築しなくてはならないんです。



| | コメント (0)

自己の溶解を食い止める作業を、自分以外に誰がすると言うのか

僕が僕であり続けるためには
ある種の努力が必要だ

僕が僕であろうとする時には
きまって まわりとの摩擦が生まれる
いわれのない(僕自身はそう思っている)批判に満ちた
軽蔑と嘲笑

僕は自身ではっきりと意識している

あのすさんだ思春期に学んだのは
自己を無防備にさらけ出す事は
そのまま、いやらしい生贄の素材として
自らを集団という暴力に投げ捨てるということ

以来、僕は本心をレアなままで出すことを辞めた。

鬱屈した自己をなだめながら、
外向けの自分を創り上げる事こそが、
この社会で生きる為の必然とすら思っていた。

それは、多分一般的に
必然なことなんだろう。
度合いは、それぞれだが
多分誰しも、そこの所を日々乗り越えながら、
自分を生きている。

ただ、問題なのは
押し込められた自分

そんな自分だって
「いるんだよ」
と言うためのスキルを身につけるべきであった。
僕はこの歳になって、もう遅いとは思いながらも、それを探している
地下室に押し込めた自己は
もはや瀕死の状態だ
彼が死んだ時、僕は生きる意味を喪う
彼を救うために
どのような手段があるだろうか

これは
僕自身の問題
これは
一生解決しないかもしれない

選択肢はふたつ

一つは
僕が僕であることを良しとしない、全てのことに向き合って、静かに、そしてしたたかに、
一人で闘うこと

もう一つは
僕が僕であることを止めること



| | コメント (0)

趣味ら蔵

趣味は大切な現実逃避の手段である。

先日、半ば強制的に職場からストレスマネジメントの研修に行かされたのだけど、(別に僕がストレスフルな日々を送っているからといった理由ではなく、ある年齢層の暇な人間を数人派遣しろといった上層からの指令による)その研修で話されたのが、仕事に関して使って疲労した脳を休めるには、その脳の部位から遠い場所の脳を使う事が有効だということ。
つまり脳内の血流が一箇所に集中せざるを得ない状況は、他に血流を流す以外に解決できないという事らしい。肩や腰みたいに、脳は揉みほぐせないからね。

だから趣味は、日常的に使わない脳の部位を刺激するものがいい。
僕にとってそれは絵を描く事であり、
楽器をいじる事である。
この部類の事柄の特徴は、
言語を用いないという事。
左脳ではなく、右脳優位な状況ともいえる。

最近、それに加えて新しい現実逃避のツールを発見した。
外国語学習である。
別に海外に逃亡したいわけではない。
外国語学習のシステムが、
僕の凝り固まった脳を自由にしてくれるようだ。

言語は何だって良かった。
日本に住んでいるなら、
ポルトガル語とかハングル語、中国語なんか実用的な気がするけれど、今回は実用目的ではなく、外国語学習のプロセスがその目的であるから、
なるべく、その学習ツールが手に入りやすい言語
つまりは、英語学習を使うことにした。

世間一般の人は耳を疑うかもしれないが、
ここ最近僕がやっている英語学習は、
ゴールがない。
つまり英語で誰かとコミュニケーションする事は目的ではない。
英語学習という行為自体が癒しになるのだ。

この感覚は、バイオリンの学習における、クロイツェル教本や音階練習を、演奏技術の向上を目的とするのではなく、その練習過程を通じた気持ちの安定を目的とする事に限りなく近い。

英語の言語感覚と日本語の言語感覚は、かなりな違いがある。そもそもソフトが違うのだ。さらにそれは、長い歴史の積み重ねの下に、民族のDNAに刷り込まれているような部類の感覚だ。例えば「株」と訳される場合もある英単語「share」この言葉と株が繋がる感覚は、英語ならではだと思う。株=stockって言い方もあるらしいけど、株=shareって、なんか本来の感じが出てる気がする。

外は大分と雨が降ってきた。
まだ月曜日。
もう日付けが変わってしまった。
厳密には既に火曜。
今夜も夜更かしをしてしまいました。
明日も仕事。
ストレスの海に頭から突入する覚悟をする事から、
日々の下らない日課は生まれる。



| | コメント (0)

秋空とシナトラのマリアージュ








先週の話。

休日の公園は、家族連れでいっぱい。
芝生の丘にコンパクトなテントを持ち込んでごろ寝するお父さんや、
遊具で遊ぶ子どもたち。
こんな光景に合う音楽って何かなあと、
イヤホンを耳に突っ込んで、
SONYのWALKMANで色々試していたら、
1940年から1950年にかけて録音された、
若きフランクシナトラの歌が一番しっくりきました。
小さな驚きと、静かな幸せ。
料理に合うアルコールを選ぶように、
風景に合う音楽を選ぶのも、楽しいものです。

池の周りを歩きながら、
また、とりとめもない思索。

「人は結果でしか見てくれない」
若い頃よく言われた言葉。
オトナの社会ってのは厳しいんだぞ!結果がスベテなんだぞ!って、叱咤激励の意味で言われたのかもしれないこのネガティブなセリフも、
例えばこう言い換えて見たら、
イメージがちょっとは薄まるのかもしれません。

「人は結果でしか見てくれない」のではなく、
「人は結果でしか見ることができない」と。

そうすることで、わかってくれないと嘆く事から、
少しだけ主体的になれるかもしれない。

言葉には魔力があると思う。

でも、そこで新たな悩みが生まれる。
この「結果」というのの意味。
「結果」を判断するのは誰なのか?
そこがつまりはこの問題の根っこなのかもしれません。

池に綺麗な空が映っています。
やっと秋が感じられそうです。

| | コメント (0)

進歩ではなく進化



様々な情報に、これだけ楽にアクセスできる世の中になり、インターネットの世界が、それがOFFの世界と、大して違わなくなると、10年前に感じたような、あのヴァカンス的な開放感は、もはや遠い昔の記憶。

先日、NHKの番組でセカンドライフという名のヴァーチャルコミュニティに参加する、ASDアバターたちの特集がありました。今やブームの去ったこのツールは、ASDの人々の認知様式に上手くフィットしているらしく、
現実の社会では、生活をスムーズに行うのに、克服しなければならない様々な障壁を、このツールを用いることで比較的無理なくクリアできるらしい。日常の雑多なノイズへの対処から解放された彼らは、本来の独創性や、クリエイティビティを自由に発揮している様子。
交信理論で有名な心理学者、梅津八三が言うように、障害はどちらか一方にある訳ではなく、その間に存在するはずのものだとするならば、それは関係を生み出す両者にかかわる問題である。だから障害に「者」をくっつけると、障害という言葉の意味を、魔法みたいに違ったものに変えてしまう。
人類は長い歴史の中で、地球環境の変化に上手く適応できたから、今まで生き続けてこられた。
人間の強みは、その柔軟な適応能力なんだと思う。
例のNHKの番組で、あるアメリカのASDの男性が、深夜に出勤するシーン。
今まで不適応を起こし、職を転々としていたが、
今の仕事は、18年続いている。
彼はそれを
「進歩ではなく、進化だと思っている」
と言っていた。

| | コメント (0)

手と手が音を産む

何を考えているのか分からない存在。
もしかしたら、永遠に理解できないかもしれない。
分かり合えないかもしれない。
例えばそれは、道を小走りに走る猫
それは、電線に鳴くムクドリ
そんな分からない存在が、
心を癒すこともあります。

分かり合えない問題を相手に全部丸投げするのは、解決にはつながらない。
大事なことは自分と相手の間にあるのかもしれない。


| | コメント (0)

いっぱいいっぱい

僕はもうこんな年齢まで
人間を生きてしまったから、
いや、このくらいの年齢まで人間として生きたからこそ、
自分がこの地球上の、限られた空間のある面積を占有する意味を考える事も、
まあ、たまにとは言わず、
それなりに、
あってもいいんじゃないかな。
自分自身が納得するという限定付きの答すら、
見つかる可能性が薄いけれども。

世の中に腰までどっぷりとうずまって、
部屋で暴れる蝿みたいに、
あっちにぶつかり、
こっちにぶつかりしながら、
批難する相手が何を考えているのかを、
足りないなりに必死で察し、
相手の望むやり方を探りながら、
怯えて、縮こまって、
今日までなんとかやってきました。

これだけで、この事を本当に理解してくれる人は、
この世界に果たしてどれだけいるのでしょう。
別段、あまり期待できないのは、
自分でもよくわかっています。

毎日を生きるのに、
それこそ精一杯。
しかし、それが当たり前だと思っていたら、
そうでもないらしい。

されども、かといって、
自分の精一杯は、
これからも続いて行くのであって、
これを延々、死ぬまでやっていくのが、
つまりは生きるって事なのかもしれないが、
されど、時々辛くなる事があっても、
果たして許してくれる世の中でしょうか。
そもそも、この社会にそんな懐の深さがあるのか?

そんなこと考えても、
何にもならない。

とりあえず僕は精一杯、
というか、
いっぱいいっぱいです。




| | コメント (2)

« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »