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2017年6月

無題



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マーラー辞めて、パーカーをさらう

あーっ
もークラシックなんて嫌だ嫌だ!
なんて思って以来、
同窓会オケの演奏会が夏にあるってのに、
マーラーも、
リヒャルトも、
モーツァルトも、
パート譜を見る気にもならなくなって、
それで、どうしたかというと、

Amazonでチャーリーパーカーのオムニブックを買って、コンファメーションをバイオリンでさらってました。どんな風にスラーつけたら、かっこいいかなあとか
考えながら弾いてると、楽しいです。
音源は、高校時代から何度も何度も聴いてたから、アドリブとか、頭の中で諳んじられるくらい。
そんな憧れのチャーリーパーカーと、同じ音を弾けるなんて。
バイオリンやってて良かった!
って、チャーリーパーカーはアルトサックスですけどね。
とにかく、何か楽器やってて、こうやって好きな音楽をなぞることができるだけで、もう幸せ。
ギター小僧が、好きなバンドのスコア買って、自部屋で、その気になってる気分。

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マンハッタンとアルコール



木曜の夜だというのに、
うっかり酒に手を出してしまい、
自分の二十歳の頃のことを、思い出しながら
つい日付をまたいでしまった。
これは、あまり良いことではない。
最近アルコールを飲むとストップが効かない。
次の日に仕事があったとしても、
理性では抑えきれない。
これは悪い兆候。
血筋のせいか、
二日酔いにはならないけれど、
これはアルコール中毒の初期症状。
お酒はほどほどに。

ちなみに父方の祖父は、
多分アルコール中毒だった。
祖母が、こっそり一升瓶を水で薄めている話を、
子供時分に、居間で両親が話しているのを聞いた事がある。

話題は二十歳の頃の思い出。
自分が二十歳の頃は、甲府にいた。
大学が夏の休みになり、
中央線に乗って帰省する時に、
たまたま同郷の友人と一緒に電車に乗った事があった。

その頃僕は、バイト帰りにレンタルビデオ店で、洋画のビデオを借りて、下宿でビールをがぶ飲みしながら、眺めるのが好きだった。
で、その電車の中で、彼と映画について話した場面を
ふと、こんな何十年も経った真夜中に
思い出している。

「最近ね、ウッディアレンって人の映画で、マンハッタンってのが良いいんだよね。」

「へえ、どんな映画?」
と、その友人。

「チビでハゲな、ド近眼眼鏡の男がさあ、なんか知らないけど、モテるんだよねって、そんな映画。」

「それって、モテない男を勇気付けるって映画?」

「…そうかも」

いや、そうではない。
今ならもっとまともな説明だってできるかもしれない。

僕は、あの映画の橋のシーンに今でもウルっとくるし、
ラストの数分は、本当に素晴らしいと思う。
勿論、オープニングだって斬新だ。

一人きりで、
夜中に
誰かを思う
あの感傷的な瞬間を
こんなにも上手く表現した映画は、
僕はあまり知らない。

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あたりまえ



毎日それなりに
ちゃんとやっていれば、
きっとこの先
幸せな老人になれるだろう。

なんて事。
いったい何の根拠で思っていたのやら。
若き頃の己は。

根拠の無い希望こそ、
若さの特権よと、
したり顔でのたまうような、
そんなつまらない大人にだけは、
なりたくなかった筈なのに。

細胞の隅まで、
ちゃんと使い切れるか。

それなりに、では、
到底太刀打ちなんかできない筈。
根っこにある、強い意志が必要だ。
張りぼてだろうが何だって構やしない。
とりあえず、その意志を生み出す炉が必要だ。

ところで、逆説的かもしれないが、
その炉心の燃料には、
実は若い頃のくだらない産物も、少しは含まれていると
僕は密かに信じている。

いずれにせよ、
歳をとればとるほど、
生きるのが辛くなるのは、多分確実らしい。
人生はけして喜劇なんかじゃない。

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めりこむ

朝、山下洋輔の「キアズマ」を聴きながら出勤。
1975年、ドイツでのライブ音源。
piano 山下洋輔
alto sax 坂田明
drums 森山威男

フリージャズを聴きながら出勤する人なんて、
あんまりというか、
多分、ほとんどいないと思うけど、
何だか、今日はたまたま、
これがしっくりきたんだから
しょうがない。

昔から不器用な生き方しかできなかったせいで
今でも、特に最近は仕事に関して顕著だが、
結果が出る出ないに関わらず、のめり込むと
一瞬一瞬に、
全部をかけていくような所がある。
カッコよく聞こえるが、
これは、不器用な生き方。
これをやり続けたら、
多分長生きできないんじゃないかと思うくらいに、
注ぎ込んでしまう。
ある種の先天性のビョーキである。

こういった感覚に近いのが、
多分、血の気の多い頃の山下洋輔トリオであり、
チャーリーパーカーの古い録音であり、
エリックドルフィーのバスクラだったり。

と、ここまで書いてみたところで、
こんな話は、所詮誰にも理解してもらえないだろうと、
まあ、それが当然とは思うが、
自分の感性を認め、受け入れるのは、
結局は自分自身でしかないと
あっさりと諦め、
どうせ死ぬまで、
こういう人間なんだから、
だから、こうやって、
電気信号として落書きをしているかもしれない。

その昔、探査機ボイジャーに積んだという、
未知の宇宙人へのメッセージを吹き込んだレコード盤みたいに、
誰が読むでもない落書きを、
あてのない手紙よろしく
今夜もたらたら書いている。

どんな小さな物事でも、
そこに全力でのめり込む時、
ごくたまに、ぱあっと外に開ける瞬間がある。
そんな時、大抵まわりは気付かない。
こっちは、ぱあっと突き抜けて、開いちゃってるから、
何でこの事が分かんないのかって思うけど、
まわりからは、
多分頭イかれてるって思われる程度。

その時代の社会的な価値観に見合う、
タイムリーな結果を、
人々が分かりやすい形で提示できた場合に限り、
そういった事は、周囲からの称賛を得られる。

いわゆる「いいね!」ってやつ。

僕は、「いいね!」なんて要らないし、
「いいね!」だろうが「いくないね!」だろうが、
「くそくらえ!」だろうが、
正直どうだっていいと思っている。
強がりではない。
むしろ諦めや、開き直りに近い。

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AタイプBタイプ

土曜日、
小学生の息子の体操教室。
ガラス窓越しに眺める。
今日は、跳び箱。

例えばスポーツだとか
音楽、ダンス。
これらは生まれ持った素質がある人と、
そうでない人が
比較的はっきり分かるもの。

体育の得意な子どもは、
多分なんにも考えなくたって、
普通に跳び箱なんて跳べちゃうし、
ボールだって自然に蹴る。
だから、当然ながら、できない子が理解できない。
だって、彼らにとっては、
それらのことは、考えなくても、
自然にできのだから。

考えなくてできるタイプと、
考えてできるタイプ。
仮に前者Aタイプ
後者をBタイプとする。

僕もそうだったが、こと体育に関しては
息子は明らかにBのタイプである。
他の子が軽々とやっている事が、
なかなかできない。
動きがぎこちなく、
動きながらいろんな事で頭がいっぱいで、
フリーズしてしまう。
子ども時分なら、
馬鹿にされる事だってある。

でも、そんなBタイプである事を、
本人もまわりも、それ程悲観する必要はないのではと、
ふと思う。
自然にできなければ、
頭で考えてやれれば、それでよいじゃないか。

自然にできてしまう事は、勿論すばらしい才能だから、
例えばそれを生かして職人みたいになる事が容易ではある。
一方で自然にはできない人が、デフォルトじゃないスキルを、自分自身に植えつけ、育ててゆく行為は、物事の仕組み自体を知る手段とも言える。

Bタイプは、考えてするタイプなのだ。
全体で捉えてマスターする事は、思索である。
そこには、新しい方法を生み出す可能性がある。
ジャンルを飛び越えていく力が生まれる事だってあるかもしれない。何も悲観する必要はない。

考えてできる人は、
とにかく細かく、具体的に、とことん考える事。
身体が自然に反応しないなら、
そいつを自分でプログラミングしてやればいい。
これは、ハマるとかなり楽しい趣味だと思う。

そう言えば二十代前半、
週末になると一人、
バッティングセンターに行って、
2000円くらい使って、
ひたすらボールを打った事があった。
僕は野球は苦手だけれど、
例えば、飛んでくるボールに対してバットをどの角度で振り下ろせば、気持ちよく飛んでゆくかとか、
ボールにバットを当てよう意識する際に、
目でボールを追って、どのタイミングでバットを振るかとか、その際に左手はどんな役割をして、右手はどう動くのかとか、打ち返すという意識ではなく、バットを壁のように当ててゆく意識の方が確実に当たるだとか、
無数の事を考え、試行していたら、
いつしか左手の小指側の皮が剥けていた。
傍目には、おかしく映っていたであろうが、
本人は夢中だった。
繰り返しになるが、別に、野球が好きではなかった。
結局、野球を好きにはならなかったけれど、
少なくとも、バッティングセンターでボールを打つのは楽しかったし、実際少しは上手くなった。
まあ、しばらくしたら飽きたけど、
身体を考えながら動かすスキルは、
バイオリンを演奏する技術を習得するのに大いに役立った。これは成果だ。

長々と、まとまりなく書いたけど、
AタイプBタイプ、どっちがいいかといえば、
そう単純な話ではないようだ。
どっちだっていいじゃないか。
まあ、そんな話。

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Depression

ずっしりと重たい疲労感。
食べるために顎を動かすのさえしんどい無気力。
あの湿った空気をいっぱい含んで、
空を覆いつくす灰色の雲みたいな、
思考の空回り。
モチベーションの崩壊。

これは通常の状態なのか、
或いは異常な状態なのか。

例えば人生が悲劇か喜劇かと問われれば、
悲劇に決まっているのだけれど、
それに対して、ちゃんと身体を動かして生活できるだけの、基礎的なエネルギーが、理由は分からないが、根本的に枯渇している。
理由は分からないのだけれども。

やらなきゃいけない事。
それ自体は小さくて、
単体では大した労力を必要としない筈なのに、
一向に心が向かわない。腰が上がらない。
外見的には怠けているのと変わらないが、
内側は全く別のもの。
そんな事、他人には理解不能。
当然といえば当然。

先延ばしの先に積み上がるストレス。
それでも、毎日を転がさなくてはならない。

やり過ぎ病は経験上、
大抵の場合、最終的に、
何一つ成果を生み出すことなく、
エネルギーの枯渇と同時に、
酸欠状態へ突入する事になる。

うまくやり過ごさなくてはならない。
毎日をうまくやり過ごすスキルを、身につけなくては。

誠に申し訳ないのですが、
世間の皆様が、人に対し当然期待するであろう事柄について、わたくしに対しても同様に、暗黙の了解の内に期待していることにつきまして、わたくしにはそれを、全うする能力がありません。別に自分を卑下して言っているのではありません。
普通にできることを目指して生きてきましたが、
普通であることは、わたくしにとっては難題なのです。
ただし、フリをすることは、何とかできます。
その学習は幼少期、それこそ物心ついた頃から、
試行錯誤、いやむしろ右往左往しながら、学んできたものです。
ただし、これを全うするのには、多大な労力が要ります。
その労苦は、しょうがないことですが、傍目には分かりません。
普通のフリをしながら、水面下では水鳥みたく、バタバタと水かきのついた脚で、せわしなく水をかき回しているのです。

この世で、人として生きるために、
そうやって毎日を転がす辛さは、
いつかは、誰かに理解してもらえるのでしょうか。
昔は浅はかな希望を持ったりもできました。若さのなせる技です。
今は、その希望は狭い狭い道のように感じます。
誰が悪いとか、そういった話ではありません。
そういう気持ちに、たまたまなっただけの事です。

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