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2017年4月

ほぼほぼ

ほぼほぼ

僕、あんま、好きじゃないんだよなあ。
もとから、こういった類のやつ、
苦手なんですよね。
10年以上前かな、「◯◯だし…」が出現して、今に至るけど、
あれ出た当時は大学生だったけど、
「だし、なんだよ!」「だしの続きはないのかよ!」って言いたかった。

「ほぼほぼ」は、別に「ほぼ」でいいじゃないかと思う。
広告代理店みたいなギョーカイ臭さは、今の時代不自然だよと思っちゃう。

まあ、これはあくまで個人的な感想に過ぎず、別に「ほぼほぼ」を使っている人をけなすつもりは毛頭なくって、つまりは、流行の波に例の如く乗り過ごしただけの話かもしれませんね。
まあ、いずれにしろ
僕は使やしませんよ。

ほぼほぼ



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リヒャルトから



リヒャルトのパート譜も、半分くらいまできました。薔薇の騎士。
Soloやsoliを間違ってさらわないようにしながら、必要最小限にさらっています。とんだ怠慢だ(笑)
半音階のエロさにも段々と慣れ、弓使いも順調にエロくなってきました。
四十のおっちゃんは、公衆衛生上あまりエロくあってはならんと思うのですが、(エロいオヤジ程人を不快にさせる生き物はありません)でもさ、リヒャルトがやれというんだから、エロく弾くしかならんのであります。
まあ、醤油で育った日本男児に、所詮リヒャルトの望むエロさは到底無理難題なのですが。

80代加山雄三、
朝からサーロインステーキ。

年寄りが元気な時代です。
若者は?
逆に落ち着いている。
むしろ、若者の方が大人の風格がある。
そんな時代に、
狭間の私らは、どうすりゃいいのやら。
ヘロヘロとバカやってるのが、
この世代に運命付けられた社会的キャラクターなのでしょうか。
僕?
僕はもともと、そんな流れには昔から上手く乗っかれないから、相変わらずの子どもっぽさで、後付けの理論を組み合わせ、こんな社会で何とか生きていきます。
自由奔放な年寄りをあしらいながら、一方で若者には甘えてしまう。
僕らはそんな屈折した時代に生きている。

キーワードは、
あてのない成長への無責任な希望を手放せない世代と、
成長なんて、太古の生き物みたいなもので、明日も今と同様な安定こそが希望だとする世代の格差なのかもしれません。

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でたあ!リヒャルト



夏の演奏会に向けて、
オケのパート譜を、ちんたらさらっている。
マーラーの巨人は、パート譜を音にするだけなら、何とか目処がたったので(これだけでは、他パートとの関係性が分かんないので、当然合奏では上手く弾けない。)今はリヒャルトシュトラウスの「薔薇の騎士」組曲をさらっている。
10年ほど前にも、今回同様、大学オケの同窓会演奏会に参加した事があったのだけど、その時のプログラムが、リヒャルトシュトラウスの交響詩ツァラトゥストラと、ブルックナーのロマンティックだった。
このブログの過去の記事を見れば、当時の僕が、リヒャルトの楽譜に苦しめられた様子が書いてある。
臨時記号の悪夢、
というか、調号自体嫌がらせなんじゃないかというような状況。これが彼の決定的な魅力なんだろうけど、
しかし、いつも決まって、複雑な楽譜の先に歌がある。
そこがリヒャルトのリヒャルトである救いというか何というか。
最初はしょうがないから、メカニカルにさらうんだけど、一旦歌が身体に入れば、あとは感覚で何とかなる。
つまり、リヒャルトは歌の人なんだと思う。
まあ歌劇だから。
にしても、相変わらず厄介な楽譜です。
でも、そんなにも嫌いじゃない。
リヒャルトシュトラウスの曲は、
独特なエロさがある。それが好きな人にはたまらない魅力なんだと思う。
弾く側は大変なのだけど。
今回のこのオケの演奏会は、ホルン吹きが泣いて喜ぶプログラムが二曲もある。
僕?僕はオケで弾ければ何だっていい。

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オートメーション



自動車の運転の自動化について、ニュースや新聞じゃ話題が尽きません。僕はテクノロジーの面よりも、むしろそれに引き起こされる社会的変化に興味があります。
18世紀の産業革命は、人の意識体系を大きく変革したから、革命という名で語られてきたのだと思う。今話題のAIに関する事は、それに匹敵するくらい革命的な事なんだと感じる人が多いようです。
予測が容易な世界という理想は、たとえそれが実際は予測不能だったとしても、行動様式を決定付ける大事な価値基準の元になるのだけれど、
残念ながら、その幻想にどっぷりと浸っていられる時代は、もうとっくに崩壊しており、僕たちは意識しようがしまいが、先の見えない変革の中に身を置いているのだと感じる。これについては、何年も前から、幾多の人々が指摘している事なんだろうけど。
シェアという言葉が、これまた巷で話題である。所有する事の意味が無くなる代わりに、シェアする権利が生まれてくる。持てるものが、豊かなりし世界からの変革。

パンドラの箱は、一度開けたら
もう閉じられない。

ただ言えるのは、
自動化は、行為だけの事ではないということ。つまり、行動に至る過程も含めた自動化だという事実である。
これは、別に特筆するべき事じゃなく、例えば、テレビがどのような仕組みで映像を映し出すのかといった事を知らなくても、テレビを利用できる事と同じである。
大切なのは、仕組みを知っている事と、全体的な視点を持てる事。

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長文雑感

お前の話なんて、どうだっていい。
まわりが、あんたに期待するような事だけ言ってりゃいいんだよ。

つまり、それこそが場の空気を読めという事の意味らしい。
どうやら社会的信用に値する人格というのは、そういう存在らしく、だから最近はみんな、やたらと人当たりいいのかと思う。

僕だって、たまに腹が立つ事もある。
そんな時は昔から、決まって口調が皮肉っぽくなる。
自分が原因でないにしろ、聞かされる側は、けして気分がいいものではない。
ある時、僕は気付いた。
腹を立てても、他人に向けてその気持ちを発散する事は、相手を不機嫌にさせるばかりで、結局は余計に嫌な想いをするだけだって。
だから、僕はあまり人に対し、メンタルな面で頼る事を避けているようだ。不機嫌な感情は、当事者に対しても、当事者でない親しい他人に対して直接はぶつけない。だけど、余りに大きなストレスは、消え残って積もり積もって、ささやかな皮肉を生むのには変わりない。
ライフスタイルというのは、オギャアと生まれてから、様々な葛藤を経て、それぞれの人が一生かけて作り上げるもの。
だから僕の場合のそれは、
つまりはそういう事なんだと思う。
まわりくどい確認かもしれないけど、
あなたと違ってても、ぜひ怒らないでいてほしい。

最近、何で英語って、
Iとか、meとか、myだとか、
しつこく会話や文章で使うのかという個人的な疑問に対して、ささやかな気づきがあった。
あれを、日本人の僕らが、英語圏の文化に対して感じる、あの自己を主張する感じかもしれないし、
過去に伊丹十三がサローヤンの「パパユーアークレイジー」って本を、彼、彼女、私、をすべて逐語訳したけれども、(あれはあれで読みづらかった)
何で、いちいちI think that...なのかってのは、
つまりは、「あんたは、こう思っている」ってのは、存在として否定せず、受け入れて「オレは」なんだって事なんだと思った。
だから、I think that..のIは、他人のライフスタイルの受容を含んでいる訳なんで、上手く伝わるようには書けないけれど、誰からの発信であるかとか、誰の所有するものだとかいった情報を、言語のシステム上に、ちゃんと入れ込むのは、自分の存在の意味を、社会の中で獲得する手段である一方で、自分以外の人の存在や、自分自身の存在を守るためのツールでもあるわけなのです。

僕はこう考えた、
あなたは、こう考えている。
それは、まず受け入れて、
そこから話し合いが始まる。

それを、本当は学ぶべきでないの?
ちにみに僕の通っていた高校は、
当時で言ういわゆる進学校だったから、
数字が全て。
テストの順位で放課の過ごし方も変わる。
今考えれば、確かにクレイジーでしたね。

さておき、
最近、小沢健二が新しい曲を商品にしていました。
小沢健二の懐かしい曲の中に、
「あてのない手紙を書き続ける彼女」
って歌詞があって、
昔から、そのフレーズが好きなんだけど、僕のこの文章だって、つまりはそうなんだと思う。

え?何?って感じたあなた!

そのままでいいんですよ。
あるがままでいてくださいね。お互いに。

その昔、ベートーヴェンは、彼の創作した楽曲が演奏上無理があると不満を漏らした奏者に対して、
「別にいんじゃね?オレ今じゃなくて、何十年も先のために書いてっからさ。」なんて、クールなセリフを遺したと言われてる。
今日が終われば、明日がやってくる。
それだけのこと。



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そうであるはずなんだけど

週明けの雨風で、せっかく咲いた桜は無残にも散ってしまった。
桜は毎年咲くものだけど、花の行方は、年毎に違うもの。
そこにこそ、この花がこれ程にも人々を魅了する理由があるのかないのか。
さておき今年は遅く咲いて、あっけなく散ってしまった。
それもまた粋ではあるけれど。

これからの季節もまた、魅力的である。
桜に関して言えば、花が散った後に芽吹くツヤツヤした若葉は、すっきり晴れ渡った空によく似合うし、
桜に限らず、植物、昆虫、鳥たちだって、降り注ぐ日の光を浴びながら、それぞれの生を生きている。
何千年、何万年
繰り返される、そんな営み。
地球は傾いた軸のまま、太陽を周回する。
そのリズムに、生きとし生けるものは支配され生きている。
僕らだってそう。
そうであるはずなんだけど。



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小児センターでピアノを聴く



とある小児病院。
入院中の娘の病室を離れ、
渡り廊下にある椅子にもたれる。
この病院、三階まで吹き抜けがあって、
僕は二階のところにあった椅子で、
いろいろあって、
一人ぼおっとしている。
吹き抜けの先に、大きな窓ガラス。
季節柄、たくさんの鯉のぼりが泳いでいる。
ここは、県下でもかなり大きな小児病院で、
何かの事情で大変な状況になってしまった子供達も、
当然ながらたくさん入院している。
世の中には、いろんな事情で
いろんな課題を抱えた子供達がいる訳で、
病院というのは、そんな子供達と家族とが、
訳も分からないままに、漠然とした不安を抱えながら時を過ごしている。
この状況は、一時的なものか、あるいは今後の生活、下手したら一生物の変化になるやもしれない変化に怯えながら、医師の説明を待つ家族。
当事者である子どももそうですが、
その家族も、一時の緊張感が抜けた隙間に、
言い表せないような孤独と、抱えられそうにない不安を感じるに違いない。
今だけでなく、これから一生
それを抱えなくてはならない事に、
どれだけ覚悟を決めてみたところで、
やはり、人は人であり、
神は人に都合良くは動かない訳です。

僕は、その時、
ただ、何も考えることもできず、
椅子に腰掛けて、
遠くを見つめていた。
眼下のロビーは、土曜日だというのに、
沢山の患者が受付を待っている。

楽譜を抱えた女性が一人、
ロビーにあるグランドピアノに向かって歩いてゆく。
それは、あまりに自然過ぎて、
注意して見なければ、
来院した患者の家族の一人かと思うような、そんな姿。
椅子に腰掛け、
ピアノの蓋を開けて、
鍵盤のカバーを傍によける。

誰も彼女の姿に気を止めない。
彼女は、ただ、そこに来て、
ピアノの蓋を開けた。

それから、ほんの少しの間があって、
ピアノから、童謡のメロディが、流れ出した。
「くつがなる」だったっけ。
淡々と、しかし、心を込めて。
流れる音は吹き抜けに向けて舞い上がり、空間を控えめに震わせた。

僕のいる階で、さっきからつまんなそうに座っていた子供が、さあっと歩いて見にくる。
ロビーで待っていたお母さんが、一歳くらいの子どもを抱っこして、ピアノの前にやってくる。
繰り返しになるけれど、
ここには、いろいろな事情で、
不意にいろいろな事を抱えざるを得なくなった、沢山の人がいる。そんな場所だ。
救急車だって、ひっきりなしにやってくる。
さっきだって、輸血の血液を、車が届けに来ていた。
そんな空間に、
そのピアノの音色は、
ただただ、
空気を震わせている。
曲が終わっても、拍手はない。
演奏者も挨拶はしない。

本当に、癒しが必要な人というのが、
この世の中にはいる。
どうしたらよいか、全く分からない。
そんな心を癒すのは、
多分、
優しい励ましでも、精一杯気を使った贈り物でもなく、
こんな何気ない、音楽なのかもしれない。
東日本大地震の後、
沢山の音楽家が、
かの地を訪れ、
人々に音楽を奏でた。
それは大抵、
遠い昔の、遠い国の誰かが作った音楽だけれども、
それを奏でる事で、沢山の人が、
気持ちの休まる、僅かな時間を得ることができた。
音楽というのは、そんな場でこそ、本当の力を発揮するものかもしれない。
何か特別なメッセージなんて、必要ないし、大抵が的外れだ。
ただ、あるがまま、奏でられる音楽というのを、
ある事情を持った人の心というのは、
待っている。
それは、音楽の本当の力であると思う。
僕は、目を閉じて、
その音に身を委ねる。
目の前を、首から聴診器をかけた医師やら、看護師やらが通り過ぎる。
曲が終わっても、拍手はない。
でも、これこそが、
音楽じゃないか?
そう思った。

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集団意識の大きな渦

人間が集団になれば、
個人でやってた行動と、
違ったやり方をするものだけれども、
その自体を御する事に、人は太古の昔から、憧れを持っているのだろうか。
集団意識とは、いわば制御不能の巨大な龍のようなもの。
それを、どうにかしてやろうと目論むは、罪深き人の幻想なのかもしれない。
神の領域として、人が関わるのを忌み嫌った時代も過去にはあったろう。
けど今は、むしろ積極的に集団意識を動かしたい欲望に、どっぷりと浸かっている。
巧妙に仕組まれた、仕組みに気付く人は、当然ながらあまりいない。
まあ、仮に気付いてみたところで、世の中はそんなにも変わりはない。

如何にしたたかに生きるか。
そのしたたかさを、
さながら小さなロウソクの火のように、心の奥底に灯し続ける事が、知らず知らず、
その人を魅力的にするかもしれない。
見える事。
隠れた物。

秘すれば花なり。

心から湧き出たものを
昇華し表現することが、
まるっきり意図通りでないにしろ、
集団へと伝播し
場の空気自体を
根底から変化させる事がある。
それは、薄暗い部屋に差し込む陽光の、
その放射状の波のような、イメージを連想させる出来事。
それに何か大きな存在を感じる人もいる一方、
自分自身が、大きな存在なのではないだろうかと錯覚する人もいる。
そんな訳で、いずれにしろ人は、集団を形成した瞬間に、少なくとも二つの自分を抱え持つ事になるとは言える。そして、これはある種の悲劇ではあるのだろう。この二つの自己を意のままに御するのは、幻想である。幻想は、幻想のままであるが、それを追い求めるのが、人間が所詮人間以上でも以下でもないという、何よりもの証拠なのではないかと感じる。


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凸凹



もしかしたら、一生子供っぽいままなのかもしれないという、そんな諦めに似た感情を持つことがある。
社会性に関しては、今もって未成熟。それが不幸かどうかなんて、そんな事今さら考えても、しょうがないことだから、そのまんまに生きていくしかない。

それでも、あまりに外界との軋轢が、
ギシギシと音を立てるほど痛い時には、
岡本太郎の本を読んだり、
エレファントカシマシの歌を聴いたりしている。
そうやって、ここ十年くらいやってきた。


無意識に歯を食いしばり、
無意味に歩き回る。
妙な高揚感に頭はフル回転。
疲れてる筈なのに、
目が冴えて夜も眠れない。
何かを生み出すエネルギーがみなぎる一方で、
これは、気をつけなくてはならない状態。
たまった疲労は、
さながら借金みたく、
あとになりどっと押し寄せる。
そして、ベッドから立ち上がることすらできないほどの重力を、体全体に感じるに至る。
経験上、それが分かっているというのに、
相変わらずストレスに対し
アドレナリン全開、心の非常事態宣言で対処している。

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マーラー四楽章

マーラー譜読みの最難関?
四楽章の山を越えるべく、
しばらく基礎練はおあずけです。

偶数ポジションを使いまくったり、開放弦を弾いてる間にポジション上がったり、半音階を駆け上がる時に12 12ととって、それらしくごまかしたり、ポジション上がらずに指を広げて短6度?上の音をとったり、ありとあらゆるズルい手を使い?無理くり何とかパート譜3ページ分はメトロノーム二つ振りでいけるようになってきました。
かなり雑な音で、なんとか92のカチカチに乗っかれそうになってきました。

しかし集中力がもたない。
アドレナリンが足りない?
あと、フラット多すぎて音程がハマってるのかわかんない。

アーティキュレーションに関しては、お手上げ。
8分音符はさておき、16分をこの速さで弾くのに、僕の技量じゃ弓の使える分量は多くできないから、
あと使えるのは、
弓圧や駒寄りを弾くとか、あとは弓の場所くらいでしょうか。
因みに僕はもう若くないから、気合いっていう手は使えません。
そんな訳で、テンポを乱さずに、アーティキュレーションをつけるのは、難しいことだなあと、しみじみ感じ、自分のあまりの下手さ加減に、つい、にやけてしまいます。
楽しくがんばります。


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ズレてる方がよっぽど

二年ぶりにまた元の職場に戻る。
そして相変わらずな怒涛の日々。
集団というのは、
それが大きくなればなる程、
組織化してゆくもの。
大きな流れの中で、人は組織の鉛壁の犠牲となる恐怖に怯えながら、右も左も分からぬまま、やみくもに自己防衛本能を発動させ、なりふり構わず、ひたすらに酸素の奪い合い。
それが社会だとかいえばそれまでだけれど、
誰の社会だ?誰の人生だ?なんて思うのも、また自分。


夜中に帰宅して、
トイレに入る。
壁に手描きの四コマ漫画。
どうやら7歳の息子の作らしい。

なんで鼻から吹き出しでてんだ?
なんて思いながら、ぼうっと見ていたら、
ふと、これだなと思った。

ズレてるなら、ズレてるそのまんま、
怒涛の人間の渦に、飛び込んでしまうしかない。
それには、本気でズレる覚悟が必要だ。もう若くないから、気力だけでは潰れてしまう。
だから、真剣に頭で考えて、
そして、したたかに、
ズレたままを、やっていくしかない。

その方が、生き生きできるなら、
ズレてる方がよっぽどかいいや。






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92ですと!?

マーラーの一番
音符を音に出してみる程度の譜読みも、
ついに第四楽章へ。
一小節をいきなり二つでカウントは無理なので、四つに分けてゆっくり音にしました。
で、段々早くすればいいんだなあと思いながら、
はて、実際はどのくらいの速さで弾ければいいのかなと、スコアを開くと

二分音符=92

な、な、なんですとーっ!?



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