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2017年3月

ビルエヴァンスから広がる優しさ

久しぶりの平日休み。
午前9時。
洗濯機を回しながら
リビングのソファーで音楽を聴く。
子供たちは、段ボール箱で工作中。
邪魔にならぬよう、
小さな音量で、
ビルエヴァンスのソロピアノ
「THE SOLO SESSIONS VOL.1」を聴く。
1963年ニューヨーク
リヴァーサイドレーベルのオリンキープニュースが録音したもの。
その演奏は、スタンダード曲のメロディから、
まるで連想するように次々とアドリブが湧いていく、不思議なもの。
アルバム2枚分のセッションは、
たった1日で録音されたのだという。
その日も、彼はいつものように、痩せた猫背の背中で、首をうなだれ、鍵盤を見つめていたのだろうか。

あの独特な翳りをまとったピアノの音は、人々を今も魅了し続け、こうして休日の朝、ソファーに寝転がる一人の中年の、不安に波打つ感情すら、優しく癒している。
南側の窓から降る春の日差しを浴びて、
白い天井を眺める。
庭のオリーブでヒヨドリが鳴いている。

また、ふと思う。
いつものぼんやり。

人と人の、
それぞれの円が、
交わる瞬間について。

それは、水面の波紋のようでもあり、
天体の周回軌道のようでもあり。

気持ちが通じ合うというのは、
厳密には、すごく稀な事なのかもしれない。
気持ちが通じ合う体験は、
大抵は、意志のベクトルが同じ方向に向いただけに過ぎないのかもしれない。

自分が感じたイメージを、
そのまま他人に伝える事は、
思うほど簡単な事ではないのかもしれない。
伝わらないという事を、互いに歩み寄る事で、何となく埋め合わせようとする行為を、
優しさというのかもしれない。

だから、理解できないことや、
分かってもらえないことに対して、
必要以上に悲しくなったり、
腹を立てたりするのは、当たり前の事なのかもしれない。

優しくなるには、分かり合えない事を、まず受け入れる必要があるのやもしれず。

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マーラーを掘る

マーラーは、とりあえず一楽章と二楽章のパート譜を音にする事ができました。
指番号をつけて、できるだけ楽に音が取れるようにして、メトロノームで均等なリズムで弾けるようにさらっています。
次の段階は、パート譜からスコア的な広がりを脳内で構造化する事。マーラーは指示が細かいから、それを咀嚼して意識化する事。これは、長い長い道のり。
とりあえずは、歌うためのフレーズをどう意識するかを自分なりに考える事をするところから頑張ります。
それよりも、まずは三楽章と四楽章を音にしてみなくては。
楽譜というのは、つくづく読み物だと思う。文学みたいだと思う。
でも、クラシックと呼ばれる楽譜を用いたヨーロッパの音楽が凄いのは、その読み物が、時間と空間を響かせる装置になるという事。
シンフォニーは、大きな御堂のような構築物。
でもマーラーは、ブラームスやベートーヴェンとは、ちょっと違うかなあと思う。
ブラームスやベートーヴェンは、理論的な有無を言わさない説得力があるけれど、マーラーは、もっとカオスな、理屈より奥の混乱をまとったものを、無理やり構造体にした感じがする。
それは、時に不気味ですらあるけれど、
同時に親近感すら感じる。
生々しい人間らしさというか、
それを、構築できるのは、
やはり大作曲家のなせる技なんでしょうね。

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夢十夜5

知らないうちに、
僕らの行動は、
どこか大きな力によって、
そう、
知らないうちに、
決められてしまっている。
それでも、
何食わぬ顔で、
毎日生活できているから、
別段不都合は感じないのだけれども。

昨夜、夢の中で
僕は、無実の隣人の後頭部に、
手にした黒い拳銃の
冷たい銃口を突き付けた。
それに至るは、
目に見えない何かの力による、
無言のなりゆき。
これは、なりゆきとしてなされた事なれど、
さっきまで談笑せし、かの女の表情は、
一瞬のうちに青白くなり、
我を見つめし目の輝きは、
その訳を問いただす。
それに対する答えを、
自分の内に探すも、
一向に見つからない。
あるのは、ただ、
成り行きとして、そうせざるを得ないという事のみ。
これが、いにしえより受け継ぎし、
我が国の民族の在り方よと言うが早いか、
脳裏にもう一つの考えが浮かぶ。
この成り行きの中で、
何か抜け道はないだろうかという問い。
この眼前のうら若き女性を救いたまふ画期的な策略。
それは肩擦る程の隙間を通り抜ける程なる狭い通路なれども、
そこに身を投げ打つか、はたまた大きな流れの一部として、その重金の引き金を引くべきか。
その時ふと思うは、
人一人の、いかに小さきこと。
彼女と僕が、今押しつぶされようとしているのは、
悪意のある何処かの誰かではなく、
個々人としては、取り立てて何の悪意も見出せぬ集団の力なのである。
敵は、誰それであればよいものの、
僕らは、その悪意なき者が、個々人が気づかぬ内に身に宿したる強大な毒のような物によって、潰されてしまうのである。それは、しばし前にテレビで見た、広大な田園を高速で溯上する真っ黒な波の様でもある。
その中で、銃口を構えた僕は、
引き金を引く覚悟と同時に、
彼女をはじめとする数十人の命を解放する孤独な決断に想いをはせる。
この銃口を、コンマ数秒のうちに右隣数十メートル先の憲兵に向け、銃弾を発射し、同時に屈んで左斜め前の憲兵の頭部にも撃ち込む。
狭い廊下を逃げる事は、当然危険を伴うが、その5メートルを走り抜ければ、林に散る事ができるかもしれない。
僕はそれを面にも出さず、
じっと、拳銃の先と、そこにある彼女の後頭部、短い髪の下のうなじを見つめる。
どうするかは、自分次第。
目の前には、大きな大地がある。
集団の中にいると、見えないけれど、
僕らの前には、いつもこの大いなる孤独があるはずだ。
なんて思っていたら、
目が覚めた。

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スタジオジブン作品のナゾ

昨夜は、うっかり15時間も寝てしまいました。
よくそんなにも眠れるもんだと、おっしゃる方も当然おられるかと思いますが、
以前からこの場で、繰り返し述べさせていただいた通り、

「睡眠は、娯楽である」

との持論は、未だ健在であるわけであります。

なあんて、つまりは、
うだうだ寝床で、
熟睡したり、ウトウトしたりを繰り返しながら布団にくるまることは、
生まれる前から怠惰な妄想好きである、僕にとって大いなる癒しなのであります。

そんな最中では、
当たり前ですが、
実に様々な夢を見る。
今回は、多分映像化したら、1時間半程の作品になるであろう大作でした。

僕の夢は、毎回執拗に3Dだというのが、
最近気づいた事。
夢に出てくる建物は、
全く見たことのないものだけれど、
間取りとかが、しっかりと構成されていて、
平面の広がりに加え、上下方向にも説得力のある空間がある。
つまり、セットがしっかりと出来た中で、ドラマを作ってゆくのが、僕の夢のスタイルらしい。
デザインも、なかなか面白いし、インテリアも印象的なんですが、
夢から醒めて、ぼんやりと夢の余韻の中で考えても、
それらの素材となるような記憶が思い出せないのは、何とも不思議なことです。

夢は脳の作った幻想です。
そのテーマは、その人の人生に影響を受ける事は当然あるにしても、
こういった夢のスタイルみたいなものは、固有の認知パターンに依るものが大きいのかもしれない。
僕の夢はカラーだけど、
人によっては、モノクロームであるらしく、
どっちがいいとかじゃなく、
当然どっちか選べるものでもない。

選べたら楽しいけどね。

映画は、世の中に向けて何かを伝えようとするものだけれど、
夢はジブンが
自分が見る為に作ったもの。
つまりスタジオジブン作品です。

恐るべき事には
かのスタジオジブンは、
平素昼間の自分の意識の監視下と別な次元で、活動をしており、
その作品は、夜睡眠中に脳内で上映されるという、
自分がやってる事とはいえ、
この事は、かなりミステリアスなこと。

それから、夢を見終わって目が覚めて、
夢の余韻を自己の内に反芻する時間は、
映画の批評をする事に近い営みであり、
この点においては、製作者、観客、批評家を全部一人でやっている事になるわけで、
そんなエネルギーあるんなら、もっと仕事しろってなるのですが、なにせ、これらの事の大半は、意識とは別の次元で勝手にされている事なわけです。
極端な話、所詮人がどうにかできる範囲なんてのは、全体の三割以下なんじゃないかって、思ったりもします。
まあいいや。
今夜は、どんな夢を見られるか、
それとも夢を見る隙もないほどの熟睡か。
いずれにせよ、
そこに僕の意図は直接反映されない、

それはスタジオジブンの仕事。

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マーラーやばい。

前回の記事で打ち明けた通り、
夏の演奏会に向けて、オケの譜読み中です。
マーラーの最初の交響曲。
スコアを見ると、何やらいろんな事が書いてある。
ドイツ語らしいが、訳すだけの語学力は無い。
今は、そんな稚拙な知性をアシストするに足るテクノロジイなる物がありまして、
スマホでひょいひょい。
何処ぞの誰それが、親切にもそれらを和訳せしめし文面をば、先日拝見いたし候。
がその内容、鬼のような細かさで、
読んでいるだけで、ノイローゼになりかねぬ代物。
目眩クラクラ、
唾液カラカラ。

思うにグスタフマーラー氏は、 多分、いや確実に、
遠くで眺めるには、非常に魅力的な人であるなれど、
一度懇意になれば最後、相手の胃に穴が開くほど厄介な人となりをば感じますれば、
この類の人にありがちなる焦燥感。
そして強迫観念。
それら、百年を越えし現代に於いても、なお健在であります。

例えるなら、
部屋中にしつこく、事細かな注意書きをはりだし、その通りに出来なければ途端に不機嫌になるような、
不安に眉をひそめる、神経質なオッサン。
それは玄関の戸を開ければ、
「戸は静かに閉め、靴は右から順に扉に向かってつま先を揃えて脱ぐこと」なる貼り紙があり、
またトイレに入れば、
「トイレットペーパーが残りふた巻きになるくらいになったら、次を用意しておくこと」なる文字が現れる日常。
周到なしつこさと、何かに取り憑かれたかのような強迫観念。
大抵本人は、その病的な様に気付いてはおらず、自分自身も、周りも疲弊してゆく。
リポビタンDは、そんな彼の為にあるのでしょうか。
勿論、冗談です。

そんな神経質な彼を想定し、
パート譜を眺めながら、僕は少しばかり足がすくんでいます。
マーラーは、さすがフロイドの治療を受けただけの事はある。
かなりな人です。
いろんな意味で。


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動き出す



ねぼうして
またひるねして
よるにねた

週末は、そんなグダグダでしたが、
おかげて身体の不調も徐々に改善、
いよいよ春に向けて動き出した感がある今日この頃です。

息子くんのバイオリンレッスンは、
いよいよ教本の一巻最後の曲にさしかかりました。
新しいバイオリン教本
最後の曲は、ウェーバーの狩人の合唱。
これをお母さんのホルンと一緒に演奏するのが、彼の目標でしたから、
ここまでイヤイヤながら続けていたバイオリンの、一つの区切りでもあります。

今度の火曜日のレッスンで、ラルゴの仕上げが合格したら、いよいよです。

かく言う僕は、
相変わらず基礎練の鬼となっていますが、
その合間に、オケの曲もさらっています。
昨年の夏に、山梨にある大学オケの同窓会演奏会でブラームス弾いたんですが、
今年は、もう一つの母校の同窓会に参加する予定です。
これも、息子くんの狩人の合唱みたく、
いわば僕の一つの区切りなのかもしれません。

マーラーの巨人
リヒャルトの薔薇の騎士
あと、モーツァルトのファゴット協奏曲。
ホルン吹きには、たまらんプログラムですね。選曲時の力関係を妄想したくなります。

昨年夏がセカンドだったので、
今回はファースト。
赤いきつねを食べたら、緑のたぬきも食べなくちゃ、バランス良くないですからね。(でた!意味不明なたとえ話)

基礎練30分してから、譜読みを30分。メトロノームカチカチで、ちんたらさらっています。
三月初めに楽譜が届いて、今夜やっとマーラーの一楽章を最後まで音にしました。このペースで間に合うのか?
今回のテーマは、大人の譜読み。
力任せに弾き倒す事なく、
理知的に音にする。
まずは、どんな指使いをするか、
それを考える。
とりあえず無駄のない、楽な指使いを考える。
ポイントは、移弦とポジション移動のタイミング。
拍の途中でのポジョン移動を許すか、移弦でやり過ごすか。
一つのフレーズでも、いろんなやり方があって、それを決めるのに時間がかかるし、それはなかなか面白い作業でもあります。
偶数ポジションは、使うのが怖いと思うけれど、使えると、かなり便利だという事がわかってきた。怖がらずに使っていきたい。

以前OBオケに参加したのは、2007年でしたから、あれから十年。
今年はそんな、区切りの年です。

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妄想個人主義

誰にも理解されないような事を、
無心に掘りまくる快感を知っている人を、
本能的に僕は、信頼してしまうらしい。


一編上人曰く、

おのづから
相あふときもわかれても
ひとりはいつもひとりなりけり

一人を生きている人は、
ちょっと一緒にいれば、
すぐにわかる。

これが日本特有の個の在り方なのかどうかなんて、
僕は海外で生活した事ないから実感がないけれど、
主張する個を、仮に西洋の個人の在り方とするならば、
今話題にしている個は、
やはり少しニュアンスが違う。

日本の風土に於いて、
個である事は、
多分宿命的に、
孤であるという事なんだと、
そう、妄想する木曜日。

周りに合わせる事で、
自分を消し去る事を良しとする価値観は、21世紀に於いても健在です。

それが良いとか悪いとか、
そんな事は別にどうだっていいこと。

ただし、
もし、
周りに合わせる事が、
どうやったって無理な場合は、
「無理です!」とか、
「助けて!」とか、
言える世の中であって欲しい。
それを解決できるかどうかは別としてね。

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一瞬を与えられし場所にあって、時の繋がりをでっちあげる妄想




三角は、丸にはなれないけれど、
三角は三角として、
三角なりに
日々を生ききること。


地球上の空間の、ある一部を担う個々人が、その場に於いて、その一瞬に眺める風景は、他の人では
代わることのできないもの。その意味においては、一つの場所に二人は同時にいられない。

見かけの価値は、状況により自分の身の丈をはるかに越え、夏の入道雲のように、むくむくと広がることもあれば、蟻の糞ほどに、見えなくなることもある。

でも、なんてことはない。
どんな見かけであれ、
それは、他には代えられない一瞬には違いない。
そこに価値を見出すべきは、
他人ではなく、まず自分一人であるはず。
そう信念を持って、言い切りたいのだけれど。

世の中には、様々な人がいる。
程度の差こそあれ、
周りの状況を把握する事が苦手な人もいれば、
周りに自分の意思を伝える事に困難のある人もいる。
たいてい彼らは表面に現れる姿と、内面のギャップによって、日常の一分一秒に於いてさえも、傷ついたり、疲れ切ったり、途方に暮れたりしている。

民族の違い、宗教の違い、文化の違い、ライフスタイルの違い、経済状況の違い。そこに、認知の仕方の違いも加えたっていいはず。
違いに右往左往し、苦しみながら大人になる子供が、少なからずいるという事が、見える人と見えない人がいる。
見えない事が悪いとか、見える事が偉いとか、そんなこと言うつもりはないし、そんな事はくだらない事。
ただ、もしそれが見えたならば、
それについて、考えなければならない。
橋をかけなくてはいけない。

今は夜中の11時。
また夜更かししてしまった。
アルコールと、音楽。
古いブラジルの歌謡曲。

十字架に愛を誓ったっていうのに、
君は心変わりをしてしまった

そんな意味の歌詞の古い歌。
歌うはオルランドシルヴァ
1942年の録音らしい。

古い記憶と、
現在が繋がる瞬間。

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ピースピース

今年の花粉は結構な量みたいです。
そんな訳で、朝から晩までマスクの日々。

ビルエヴァンスの弾く
「ピースピース」を聴きながら、
鼻と焼酎を、交互にすすっています。

「ピースピース」は、サティのジムノペディみたいな曲で、
朝靄の林にある透明度の高い泉の水面に瑠璃色のカワセミがパシャッと波紋を描く
みたいな雰囲気の世界です。
ビルエヴァンスのソロピアノは、
余韻に味わいがあります。
この余韻の感覚は、
日本人の美意識と、
ある意味、仲が良いかもしれませんね。
そもそも何が日本人の美意識なのかなんて、
僕には、よくわからないけれども。



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多様性についての妄想

人類の多様性。
そんな堅苦しい言葉が、
最近の妄想のキーワードになってきている。
人類の多様性を守りながら、いかに住みよい集団生活を作っていくか。
その形を模索していく歴史のベクトルと同時に、いかに多様性を排除して、同種としてカテゴライズされる者同士で住みよい社会を作ろうとする流れも、歴史のベクトルとしてあるらしい。
そのせめぎ合いは、バランスを取りながら、常に揺れ動いてきたし、今も、これからもそうだと思う。
人によっても違うし、時代や社会情勢によっても変わる。
それを実感できるのは、今くらいの年齢まで生きられたからかもしれないから、
妄想の糧を得られた点から見れば、まあ、ありがたいことかもしれない。

人類の多様性は、人類の守るべき使命だと、特にはっきりとした理屈はないけれど、少なくとも僕はそう信じている。
多様性を否定する事は、自己を否定する事。
これは僕が生まれながらの変わり者である事とは、そんなに関係なくて、もっと広く薄く見て感じる事です。

みんなが仲良くする必要は無いと思う。
しかし。寛容ではあるべきだと思うのです。

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オジサン化

はみ出したオジサンと
はみ出さずに済むオジサン。
同じオジサンでも、その違いは、
例えば喫茶店で会って数分もすれば判るもの。
それこそ珈琲が冷めるまでもない間に。

はみ出すとかはみ出さないとか気にも留めないのが、はみ出すオジサン。
こんな人は、グランドに放っておいたって、勝手にはみ出ている。

世の中をハスに見て、自己決定の下にはみ出すオジサンは、
かなりヤバい。
だって彼らは、人生をかけてはみ出しているのだから。

僕は、年齢的には、もうオジサンだけど、
比較的オジサンの入口にいる身から言わせてもらうなら、
どんなオジサンになるかは、
実のところ、
自分ではどうにもできないことなのかもしれないと思っている。
そもそも人は、周りの環境との関係において自己を作り出しているのだから、
オジサンの在り方も、単純に自分だけの問題ではないはずです。
勿論、個人の特性は
大いに関係がある。
僕に限って言うならば、
幼少期から、周りと純粋に溶け込めない意識の下に育った自己だから、
オジサン化の過程も、独自の道を歩む事になります。
それが幸せな事なのか、不幸な事なのか。
そんな事はわからない。
ただ、オジサン化する過程も、
自分の、
自分だけの
人生だという事だという事です。

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