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妄想の打ち上げ花火

今は、こうして夜な夜なバイオリンを弾く事ができる環境ではあるが、
息子がまだ赤ん坊だった頃は、楽器を弾く自由はなかった。
そんな中、オケは演奏会で第九をやることになり、分厚いパート譜をさらう必要があった。
楽器を弾く事が出来ない分、僕は電車の通勤時間を、パート譜を読む時間に充てて乗り切ることにした。
パート譜を楽器を通じて音にする作業を、こと細かく頭の中で確認しながら、イメージしていく。
指番号を鉛筆で書き込みながら、使う弓の場所、圧力など、事細かにイメージしていった。
頭の中のイメージは、所詮頭の中の事でしかないから、実際とは結構な割合でズレが生じる。
それを、僅かな練習時間で確認しながら修正していく。
そこで学んだのは、頭でイメージできないものは、楽器を使って身体を動かしても、やはり音にはならないのだということ。
今までは、やみくもに楽器を弾きながら、頭のイメージを作っていく作業をしていたが、イメージを先に作る努力は、音を作る作業を、より理論的に進める事になり。それはつまり、練習を効率的にする事に結びついた。
楽器を演奏する技術というのは、フィジカルな問題も確かにあるけれど、
むしろ、大半は脳内に生み出す表象の問題であると、最近は感じている。
技術の上達は、時間の前後はあるにせよ、その表象が生まれたり、変質したりする過程に起こる。
上達前と後では、物の見え方まで変わってしまうことすらある。
これは、楽器演奏に限った事ではない。

ある事物を、認識し、操作する過程は、
人それぞれ。
つまり、インプットとアウトプットの間にあるブラックボックスの中身は、人それぞれであり、原因と結果だけで考えるのは、世の多くの誤解の原因の根本であるのかもしれない。
例えば、人に何かを伝達する際に、この問題は顕在化する事が多い。
つまり、人は他人に配慮する場合、得てして自分の認知の過程をモデルとして、わかりやすく伝えたつもりでいるけれど、それなのに伝わらないことなんて、この世の中にはうんざりするほどあり過ぎているのは、別に誰のせいでもなく、人の多様性の宿命であった、という事であるらしい。
人類の特性として、理解ができない事は、不安や怒りを生み出すらしい。
感情というものは、そうやって人を揺り動かし、危険から自らを守る習性として、そういった側面も含めて、人類に巧妙に埋め込まれている。
問題は、それを意識できるかできないかなのかもしれない。

開いた自己が急激に閉じてゆく事がある。
それが個人内で起こることもあるし、
集団として起こることもある。
まるで打ち寄せては返す波のように、
それは繰り返す。
単なる直感的な思いつきだけれども、
それは、もしかしたら人類の脳の限界と、関係があるのではないかしら。

今夜も、結局そんな妄想の飛躍。

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