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2017年2月

もう三月らしい

三月です。
梅が咲いています。
もう、春はすぐそこ。
鼻先まで来ている。

花粉症の話ではありません。

いや、厳密には、
ちょっと含まれているのかも。

もやあっとした湿った空気が、
鼻先を霞める。
霞は、遠く大陸の砂漠の砂のせい?

目はしばしば、
たまにくしゃみ。

生ぬるい空気は、冬モードの身体を春に向けて変化させる。
毎年感じる身体の不調。
整体の世界では、
季節の変わり目が稼ぎ時とか、
言われているとか、いないとか。

腰にくる年もあれば、
肩にくる年もある。
熱が出ることもあれば、
頭痛で済むこともある。

今年は首にきました。
そうして季節というリズムの波を、
何度も乗り越えて、
人はゆっくりと朽ちて、
死んでゆく。

波に乗るノウハウは、
なかなか身につきませんね。
これを上手くできるって事は、
もしかしたら、上手く老いる事に繋がるかもしれない。

単なる思いつきながら、
この思いつきは、
自分でいうのもなんですが
なかなかの出来。

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楽器と一緒に

チューニングをしてから、G線ファーストポジションの4の指でDを押さえて、隣の弦と鳴らす。
これが、まずやること。
一日あけると、指がなまっているから、
これがぴたっと合うこともあれば、そうでないこともある。
これを確認して、手の形を作る事を、僕は勝手に、手のチューニングと呼んでいる。
1の指から順に押さえる事は、初歩の段階で散々言われている事だけれども、
人の手を解剖学的に見ると、手首は尺骨側を支点にして回内回外をするので、人差し指の方がフレキシブルだ。
だから、逆転の発想で、小指側から人差し指の距離を探る。
これをすれば、小指に無理が少ない自然な手の形を見つけられる。
あとは、いつもみたいに音階練習をやっていけば、左手はいつものように、クレバーな動きを取り戻す。
右手は専ら移弦の練習。
手首の動きは、指の動きとリンクする。
細かい移弦の動きは、理知的にやらないと、拍からはみ出してしまう。
理知的になるには、首を長くする事。
首を短く縮めてしまうと、客観的に弾く事ができなくなり、破綻してしまう。
所詮1時間に満たない練習時間だから、毎日の進歩は、よくて数ミリ。
でも、それがなんとも言えない充実感を与えてくれる。
好きな曲を弾けるのは、確かに楽しい。
でも、楽器の楽しみは、こんな無機的ですらある基礎練習をやりながら、自分の身体や頭、そして楽器とじっくり語り合う瞬間にもあるのだと思いはじめた今日この頃。
じーんとした、充実感を持って楽器をしまう。
誰の為でもない、楽器と僕のためだけの時間。

曲は?
たまに弾きます。
クロイツェル。
41番とか、あと真ん中あたりのトリルの練習曲だとか。
はじめの方にある移弦のあるやつもやります。
でも、クロイツェルはちゃんと弾くのは難しいです。
やればやるほど難しい。
がっくりする事もしばしば。

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二月のマイルス

朝方から昼過ぎまで降っていた雨は、夜には止んで、雲の切れ間に星が見えます。
空気は、いつしか春の肌触り。
雨も心なしか柔らかい感触。

今は部屋でマイルスデイビスの「マイファニーバレンタイン」を聴いています。
1964年2月のニューヨーク。
リンカーンセンターでのライブ録音。

海外旅行経験は新婚旅行で行ったヨーロッパのみですから、2月のニューヨークは、どのくらい寒いのかなんてわかんないけれど、
昔から、この季節に聴くと、何だかいい気分になれます。

プレイヤー五人が、互いに影響を与えたり、受けたりしながら、同じ空間に調和した音を作り出してゆく。

日本人がジャズに心惹かれる理由の一つに、実は、このインタープレイというものの魅力があるのかもしれません。

周りに合わせるだけでは成り立たない。
お互いに、対等な関係であるという、
その事が心底分かっていて、かつ自分らしさを紡いでゆく。
そのバランスの妙。

こんな歳になっても、なかなか自分に自信が持てない、僕みたいな人間にとっては、こんな事だって、ちょっとした憧れです。まあ、今はもう殆ど諦めて、自分らしくいられるやり方を考える方に、シフトしていますけどね。でも憧れは憧れとして、輝きは失っていない。
どうでもいい話ですけどね。

この録音は、他のCBSレーベルにおける録音同様、すごくクリアーで、澄んでいる。
空気が澄んでいる分、音の生々しさもちゃんと記録されている。
変な話、ステージの床に、マイルスが立っている感じまで、音に残っている。
音の鳴っている時もだけど、
音と音の隙間の迫力にぞくっとします。

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じりじりと

毎日やるのが、
上達の近道だよって、
いろんな人が言ってたけど、
あんぽんなりに、本当だなあと、やっと気付いた今日この頃。
一回30分から1時間の練習時間だけど、
毎日やっていると、それなりにクリアーできてくる。
セブシックのop.1の11番も、移弦のコツを身体が掴んでくる。弓が弦にぴたっと吸い付いてゆく。
じっくりと、昨日できていた事が、今もできるか確かめて、身体を慣らしてから、未体験の替え弓を試したり、メトロノームを一目盛り速くしたり、ちょっと冒険をしてみる。
その繰り返しが、何だか楽しい。

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ピアソラのエンサージョス

アストル ピアソラの
「エンサージョス」を聴きながら、
深夜の逃避行。
録音は、1961年。
場所はブエノスアイレス
ピアソラの友人であるエドゥアルド ラゴス宅。
家庭用オープンリールテープレコーダーによるモノラル録音。
リビングの照明にマイクを縛り付けて録音された。

盤自体は2006年発売のもの。
今はおそらく廃盤。
もっと音質の良いスタジオ録音の物を聴けばよいだろうけど、
僕はこの音が好きだから、今でもこうやって、夜な夜な聴いている。
綺麗に録音された物は、確かにそれなりに良いけれど、
それがリアルかと言えば、必ずしもそうとも言えない。
このくらい荒々しい音の方が、
この夜のピアソラ楽団の熱気を的確に記録できたのかもしれない。
だからこそ、この録音は、鑑賞に耐え得るものとして、市販されたのだと思う。
実際、演奏はかなりの内容。
当時仕事帰りに寄ったレコードショップで、たまたま見て買った品だけれど、
買って正解だったと思う。
なんせ10年後もこうしてプレイヤーに突っ込んで聴いてるんだから。

そんなピアソラを聴きながら、
ぼんやりと考える。
今の世の中と、この時代。
鳴っている音は、どちらが豊かだっただろうか。
音楽の力は、今と昔はどう変わっただろうか。
僕は1961年には生きてはいないけれど、
何十年か生きて、時代の空気を吸って、思うのは、
音楽の力の事。

少なくとも言えるのは、
このアルバムに入っている
NONINOみたいな音楽のエネルギーを、
今の時代感じられるのは、少なくともこの国では、まれであると思う。

マーケットから離れた処に、素晴らしい音楽が、きっと流れているに違いない。
そんな楽園思想的幻想を、こんな夜中に、誰に知られるでもなく、一人考えるのも、また好し。

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足の裏が痒くなる話

目に見えるものは、割に人々の共感を得やすい。
多くの人は、視覚的な情報を頼りに
多くの事を把握する傾向があるとも思う。
しかし、こと目に見えない事に関しては、
それぞれに捉え方はまちまちで、
いや、それ以前に
不安、そして怒りをごっちゃ混ぜにした混乱の中で、
路頭に迷う事になる。

それを、争いによる淘汰という解決で何とかしようという発想は、生命としては自然な成り行きかもしれないけれど、
そうじゃない形で何とかしようとしてきたのが、人類の歴史なのかもしれない。

それを神の領域だとした時代もあったけれど、今僕が生きる時代は、自分たちで何とかしようという世界。
一応、そんな前提で生きている。
だけど、それは長く険しい、出口の見えない模索の日々。
でも、そこを生きるのが、
人の運命だと言えば、それも然り。

答えは何処にあるかと言われれば、
風の中にあるというのも、
あながち間違いではないかもしれない。

今を生きるのは、そんなもろもろの一部として、右往左往している事に過ぎないのかもしれない。

でも、広い視野で見るならば、
適当ながら、
真剣に右往左往するって事は、
あながち間違ってはいないんじゃないかなあ。

足下にある大地を踏みしめて
今を味わって生きる。
そんな足の裏を、
僕は持っているだろうか。

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共生

脳細胞は、
産まれてから、どんどん減っていき
けして増える事はない。
という話の反面、
脳細胞同士の繋がりは、一生増え続けるとも聞いた事がある。

まあ、なんにしろ最後は全部死んで腐って土に還るわけだけど、
脳の細胞がシナプスの枝をぷにゅぷにゅっと伸ばして、互いの間にネットワークの網を編んで行く様を想像するのは、悪くない妄想ではある。

世の中を面で把握する人もいれば、
線で把握する人もいて、
点で把握する人だっている。
それぞれ、他より便利な場合もあるが、
苦労する面もある。
例えば、点で把握する人が
仮に時間というものを、
あたりまえのように点で把握したならば、
今の前も先も見えず、その場に立ち尽くし、震える事になる。
そんな時は、何か目印をつける必要があるのだけれども、
その試行錯誤は、
線や面で物事を把握する国の人には、理解ができない。
彼らから見れば、時にそれはクレイジーであり、時に恐怖である。
たいていの怒りは、理解ができない事に対し、沸き起こるという事を言ってる学者もいるくらいだから、
確かに、それは批判や侮辱、あるいは差別の対象になるかもしれない。
しかし、そんな多種多様なものの見方をしている人々が、お互いに最低限心地良く生きていくには、どんな知恵が必要だろう。

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ゲーム

楽器が修行になって久しいですが、
その修行は、楽器の演奏技術の向上を目標としているというよりは、以前も書きましたが、ちょっとしたゲームみたいなものに似ています。
最近楽しんでいる「革命的音階練習」って凄い名前の楽譜。
これのいいのは、楽譜でありながら、楽譜を見ずに練習ができるところ。
頭の中で考えながら音を作っていく感じ。
これは、慣れないとしんどいけれど、
段々と中毒になってくる。
よく、ゆっくりからさらってとか、付点でさらってとか。
あれは指と神経の練習。
この音階練習は、加えて脳の練習でもあるらしい。
だから、ぐわあってドツボにハマった際には、全く歯が立たないけれど、
カオスの中から、ある時ふとしたきっかけで、サラッといく。
すると、見える景色もガラッと変わり、見えないものが見えてくる。
この快感がたまらない。

セブシックのop.1の11番も、似たようなゲーム。
ボウイングのバリエーションを、順にやっていますが、これなんか、本当にゲームみたい。
若い頃は、クリアするのを急ぎますが、
おじさんは、ゆっくりと、ゲーム自体を楽しもうと思います。

そんな事して、楽器の腕が上がったかどうかと問われれば、実は、あんまり上手くなってないかもしれません。もしかして下手になってたりして。
曲らしいのは、ここ最近弾いてませんからね。クロイツェルも、ご無沙汰です。

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妄想の打ち上げ花火

今は、こうして夜な夜なバイオリンを弾く事ができる環境ではあるが、
息子がまだ赤ん坊だった頃は、楽器を弾く自由はなかった。
そんな中、オケは演奏会で第九をやることになり、分厚いパート譜をさらう必要があった。
楽器を弾く事が出来ない分、僕は電車の通勤時間を、パート譜を読む時間に充てて乗り切ることにした。
パート譜を楽器を通じて音にする作業を、こと細かく頭の中で確認しながら、イメージしていく。
指番号を鉛筆で書き込みながら、使う弓の場所、圧力など、事細かにイメージしていった。
頭の中のイメージは、所詮頭の中の事でしかないから、実際とは結構な割合でズレが生じる。
それを、僅かな練習時間で確認しながら修正していく。
そこで学んだのは、頭でイメージできないものは、楽器を使って身体を動かしても、やはり音にはならないのだということ。
今までは、やみくもに楽器を弾きながら、頭のイメージを作っていく作業をしていたが、イメージを先に作る努力は、音を作る作業を、より理論的に進める事になり。それはつまり、練習を効率的にする事に結びついた。
楽器を演奏する技術というのは、フィジカルな問題も確かにあるけれど、
むしろ、大半は脳内に生み出す表象の問題であると、最近は感じている。
技術の上達は、時間の前後はあるにせよ、その表象が生まれたり、変質したりする過程に起こる。
上達前と後では、物の見え方まで変わってしまうことすらある。
これは、楽器演奏に限った事ではない。

ある事物を、認識し、操作する過程は、
人それぞれ。
つまり、インプットとアウトプットの間にあるブラックボックスの中身は、人それぞれであり、原因と結果だけで考えるのは、世の多くの誤解の原因の根本であるのかもしれない。
例えば、人に何かを伝達する際に、この問題は顕在化する事が多い。
つまり、人は他人に配慮する場合、得てして自分の認知の過程をモデルとして、わかりやすく伝えたつもりでいるけれど、それなのに伝わらないことなんて、この世の中にはうんざりするほどあり過ぎているのは、別に誰のせいでもなく、人の多様性の宿命であった、という事であるらしい。
人類の特性として、理解ができない事は、不安や怒りを生み出すらしい。
感情というものは、そうやって人を揺り動かし、危険から自らを守る習性として、そういった側面も含めて、人類に巧妙に埋め込まれている。
問題は、それを意識できるかできないかなのかもしれない。

開いた自己が急激に閉じてゆく事がある。
それが個人内で起こることもあるし、
集団として起こることもある。
まるで打ち寄せては返す波のように、
それは繰り返す。
単なる直感的な思いつきだけれども、
それは、もしかしたら人類の脳の限界と、関係があるのではないかしら。

今夜も、結局そんな妄想の飛躍。

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パンドラの箱、セブシック

いわばパンドラの箱
セブシックに手を出してしまったせいで、
夜な夜なの楽器タイムが、
音階練習とセブシックop.1の11で終了してしまう事態になりつつあります。
セブシックは替え弓が山ほどあるんですが、これをゆっくりから丁寧にさらうと力尽きてしまうのです。かなり難しい。
やればやるほど、丁寧にやるとやっただけ、
ドツボにはまります。
移弦一つとっても、いろいろなやり方があります。
例えば繰り下がりの引き算の解は一つでも、
解に至る過程は複数あるように、
移弦の動きも、バリエーションがある。
スラーの終わりをどこまで残すか、
その数ミクロンの隙間を、いくつも引き出しとして持ち合わせていて、必要に応じて自由自在に弾き分けられたら、仙人になれるかなあ。
まあ凡人は、それ以前に自然な腕や手首の動きを、身体に染み込ませる事が最優先。
大脳の監督の下、
身体に学ばせる日々。
もう一人の自分が、自分を指導する不思議な感覚。
これも、楽器演奏の趣味としての醍醐味の一つだというのは、
恐らく僕だけの思い込みでしょう。

集中力が尽きたら、op.8に手を出します。これも、難しいですが、音程探りながら丁寧にやってると、楽器がよく響いて気持ちいい。
クロイツェルまでたどり着けない事が多くなりました。
ますます曲から遠ざかり、楽器演奏がゲーム化していきます。

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