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新年に

今年の正月は、例年に比べて暖かかった。
どんな一年になるのやら、全く予想がつかないし、何か将来の世の中に対しても希望が見出せない時代ではあるけれど、
庭の柵にとまったジョウビタキのオレンジ色の腹を眺めていたら、
所詮、人は自然の中の一部でしかないのだと新ためて感じる新春。

年末にラジオでフルトヴェングラーの録音を聴く番組がやっていて、
神社の年越し準備に向かう車中、
たまたま聴くことがあった。
すべてがモノラル録音。
そこに記録された音は、現在のデジタル録音の緻密さや、精密さは無いが、
その生々しさは、むしろ上に感じられた。
1950年代初頭のウィーンフィル。
彼らの奏でるベートーヴェンの7番の交響曲は、
その音符ひとつひとつから歌が溢れ出し、生きている人の息づかいすら感じ取れるようだ。
録音のせいかもしれないが、
やはり、時代のせいでもあるやもしれず。
音楽が豊かな時代は、
恐らく今ではないのだと、
密かに感じている。

感性というのは、時代の空気や水を基に育つ、例えば植物のようなものだとするならば、
電気信号の組み合わせによる周波数によって純化された音を、スピーカー越しに流される環境で育った僕らの感性は、
いくらシステムが複雑かつ正確になったところで、音楽の豊かさを感じる根本であるところの個々の感性は、退化しているのだと思えてくる。

酔っ払った夜中のダイニングで、夏目漱石の「こころ」をぱらぱらと読んでみる。
口語体の文章は、落語のような軽さの裏に、なんとも言えない味わいがある。
そこに描かれる人物の生命力。
その密度が、現代のそれとは格段に違う。
これは一体なんなんだろうかと思う。
医学の進歩なのか、食生活の豊かさなのか、はたまた都市化による衛生状態の向上のせいなのか、
人の寿命は我が国においては、当時に比べて格段の伸びを示している。あくまで統計上の話であるから、個体差があるのは確かだけれど。
ただ、思うのは、
密度という視点で見て、
単に時間的に長く生きることとは、そのこと自体と、人間を生き切ることは、別なように思えることがある。

問題は、
人類は進歩するものだという、
人間の安易な思い込みなんだろうと思う。
人類は進歩なんてしていない。
進歩しているなんて思い込んだら、
それは退化しているのだとすら思う。

一個の人間という視点で見たら、
人は結局、
200年生きるようには設計されてはいない。
その生涯において、対峙しなければならい問題は、各々違うけれど、
その各々にクローズアップして、個というものを基準に考えることを決心したら、
一千年前の人とだって、同じ時間を生きることが可能であるかもしれない。
歳をとるのは、その過程かもしれない。
人の老いと死という問題は、
人の人である宿命として、
時代を超えた共通の問題であるのだから。

また年末の事を思いだした。
京都、広隆寺の不空羂索観音像。
あの像の美しさは、格別だった。
あの像を刻んだ仏師の想いは、
遠く天平の時から末法の現代へ時を越えて伝播してきている。
それを肌身に、それこそ細胞の隅々にまで感じるような生々しさ。
あの不空羂索観音を観た後に眺めた、庭の椿。
僕らは、過去と未来の間に生き、
そして、それぞれの今を生きている。

こんなクソ長い日記を最後まで読む人なんていないかも知れない。
僕だったら読まない。
だから、まだ続きを書いてみようと思う。

クラシックのスコア。
あれは、ある意味文芸作品だと思う。
当時は今みたいに、気軽に音の鳴った状態で、何度も鑑賞できる環境ではないのだから、
あれは読み物なんだと考えた方が妥当だと思う。
それを読んでいた愛読者が、あれを音にしたいなあって、強く思った結果、オーケストラが沢山出来たって考えたら、それはそれで面白い。
つまり、楽譜は楽譜の時点で、既に完成された芸術作品であるということ。
これは、ビートルズではあり得ないこと。

夏目漱石の「こころ」で考えてみる。
これを映画にしようと思うとする。
しかし、どんだけ練って、
当代の名優が迫真の演技をしたにしろ、
万人を魅了する事は出来ない。
「こころ」のスコアから個々の感じる世界は千差万別。
それを万人が納得する形で映像化するこてなぞ、そもそも無理な話。

だから、ベートーヴェンの第九交響曲は、今でも色々な演奏がなされ、そして今も、沢山の録音がなされているのかもしれない。


下手くそながら、
今夜も懲りずに楽器を弾く。
音階練習を1時間、
セヴィシックのop.8をやって
クロイツェルで終わり。

楽器が音を出すだけで満足。
曲なんて弾かなくて音階練習だけで充分。
人様に聴かせるもんじゃないけれど、
でも、もし
文芸作品としてのスコアを、
音として今の空気に響かせる機会があるのなら、
その端くれとして、
ハンガリー産の相棒を鳴らしてみたい気にもなる。

今年は、それをやりたいと思う。
生きるというのは、
音を出す行為と捉えてみるのも面白い。
心臓の鼓動。
これはささやかなれど、
周囲数センチにこだまする、生きた証。

楽器もそう、歌もそう。
歩く足音がそうであるように。

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コメント

大変、遅ればせながら
新年、あけましておめでとうございます。

ちゃんと、ここに読者がおります(笑)

この一年も、貴方が貴方らしくあり続けられますように。

本年も、ゆるりとお願い申し上げます。


こーちゃんょり

投稿: こーちゃん | 2017.01.25 20:38

温かいコメントありがとうございます。
忙しい日々に、文字通り心を亡くしそうに感じる中、こーちゃんさんのように、僕も自分らしく立っていられますように。ゆるりと過ごしますね。
ありがとうございます。

投稿: tkm | 2017.01.29 22:01

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