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2017年1月

やりすぎ症候群

やり過ぎは身体に悪い
というのが、最近の自論。
いや、むしろ自戒に近い。

過集中というのは労働に見合った分の結果を生み出しうるけれど、その実は個人の命を削って生み出したもの。

本人は夢中でも、
寝食を忘れるほどに没頭していては、
寿命を縮めるのみです。

僕の場合、バイオリンを弾いていると、昔から食欲がなくなる。
食べる時間が惜しいというより、忘れてしまうのです。
お腹が空く事もわかんなくなる。
バイオリンに限らず何かに没頭すると、水分を取ることも忘れてしまう。
集中力があるなんて褒め言葉もあるでしょうが集中し過ぎは問題です。
そこのところのコントロールは大事なことです。
適度に休むこと、頑張りすぎないこと
僕にとっちゃ、これは実は非常に高度な調整だと思うけれど、
人によっては、大した事じゃないのかもしれず。

とにかく、
やり過ぎは肩がこる。
固まったパソコンを強制終了するために、
アルコールを飲むのは、
やっぱりちょっと変わってるのだとは思うけど。

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スタンゲッツの青白い光の

10年近くに渡り愛用していた、KENWOODのコンポが壊れた。
CDの読み込みがうまくいかない。
我が家には、これまた奥さんが昔愛用していたONKYOのデッキがあるので、
そちらに乗り換えた。
せんなわけで、今夜は接続を終えたばかりのこの機器のサウンドを確かめるつもりで、往年のジャズジャイアンツ、スタンゲッツのテナーサックスを聴いている。「THE SOUND」というアルバム。1950年代初頭の録音。オーディオのサウンドチェックには向いていないかもしれないけれど、今夜はこれが聴きたかったんだからしょうがない。
この時代の彼のテナーサックスは、よく歌う。そして独特な音色がする。
コンクリートにぶつかるクラクションみたいな冷たいテナーサックスの音。だけど、よく聴くと内に秘めた暖かさがある。とめどないアイデアが全く以って自然に詩的なメロディを構築していく。
けして弱々しくなんかなくて、猛々しく吹いている時もあるんだけれど、音楽は非常に繊細。
この音色は、スタンゲッツにしか生み出せなかった。
この音に僕は中学生で出会い、そして今に至るまで虜になっている。夜中にふと聴きたくなり、聴くと、やっぱりうっとりしてしまう。いろいろな風景が頭の中に浮かんでくる。
上質な音楽には、そんな不思議な力があるんだと、何の根拠もないけれど、僕は信じている。
スタンゲッツのサックスから時々立ち上る青白い光。それは薄暗くて冷たいコンクリートの壁に反射する。この恐ろしいくらいの冷たい光を、いつかビリーホリデイの歌声にも聴いた。近しいものは他にもあるけれど、僕はこの光をそこに感じたことはない。

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執着

執着

結局は、一人の人が、
個人の存在を意味するは
執着という事なのだと、
そう思う今日この頃。

熱中できるとか、
人生をかけるだとか、
かっこいい言い方をしたところで、
所詮は執着。
しがみついて生きるのが人というものかもしれない。

かといって、執着が無い人生は味気ない。
しがみついてしがみついて、
骨の髄まで吸い尽くすのが、
生きるという事の醜さでもあり、美しさでもあるのでしょう。

しがみつく対象を、
ちゃんとわきまえる場合に限り、
稀にそれを粋という名において
賞賛を得られることがある。
アンダーコントロールが明らかな場合という事です。

そんな事抜きにして、ただ本能のままにしがみついてしまうのも、また人。
人は仏に非ずです。
だから人は、所詮は人なんだから、
人らしく、思うがままに闇雲に、
ひたすらしがみついて生きていくしかないのかもしれません。

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セブシックから始まる落書き

セブシックというパンドラの箱を開けてしまったばかりに、ますます修行の色が強くなりつつある今日この頃。
今ハマってるのは、op.1の11番。
移弦の練習なんですが、
これのバリエーションがしつこいくらいありまして、
楽譜が簡単だから、クリア目指して何度もチャレンジ。妙な中毒性があります。
あとop8。
これはポジション移動に特化したやつ。
手の形や親指の位置、肘の動きを確認しながら、冷静に冷静に、抜き足差し足で弾くと気持ちいい。
集中力のない僕は、二つ合わせて30分もやったら頭がウニョウニョになってやめちゃうんだけど、これ一時間とか二時間とか黙々とやれる人は、凄いなあと思います。
僕の使っているセブシックop1は、山梨にいた時に、管弦楽団の部室を整理した際に捨てられていた物です。
初めて学生オケで首席になった時に、op1のはじめの方を、授業後に何もわからずやみくもに延々と弾いていたら、いつしか左指が別な生き物かと思うくらい良く弦を叩くようになって驚いたのを覚えています。
自分の身体を思考錯誤しながら御する営みは、なかなか面白いものです。
バイオリンという楽器と出会えたことは、そういった面でラッキーだったと思います。
この楽器を通じて、僕は自分の身体を解剖学的な見方で見る事ができるようになりましたし、あと、脳でイメージして解決するか、或いは繰り返しを通じて脊髄経由で解決するかといった、問題解決の手段の広がりも、得る事ができました。
この時点で楽器は、既に音を奏でる器である事を超えてしまっていて、自分を考えるツールになってしまったのでした。
だから、極端な話
既にバイオリンを弾く事と、音楽をする事は、同義ではなくバイオリンを弾く事は思索であり音楽は、それとは別の思索的な趣味だと、そう気付いた訳です。

って言ったところで、この事を分かってくれる人なんているんでしょうか。
所詮、トイレの落書き。
希望という名の下に、
今夜も電子データの海に、
当てもない落書きをしただけのこと。

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やり過ぎ病

興味がある事に限って、
いつしか、
しつこいくらい執着してしまい、
ついやり過ぎてしまうので、
マニアックな事になってしまう。
それは、一般的に言うならば、
典型的な変わり者なんですが、
世の変わり者の皆さん総てが、
そうだとは言いませんが、
でも、あえて言うならば、
このやり過ぎは、好きでやっているというよりは、いつの間にかという類いの事であって、
つまりは、好きで変人をしている訳ではないのだろうと、そういう訳です。
それは、目の前の物をスケッチをすることに夢中になり、お菓子の箱の裏に黙々と眼前の物を描いていた幼少期に始まり、今はバイオリンという楽器を弾く事に夢中になっている。暇があると、三度を二つ積んだアルペジオを全調でGから弾く指遣いを頭で考えて、一人壁をぼんやりと見つめている。
小学校高学年の頃は、仏像に興味があって、家に帰ると、紙粘土で広隆寺の弥勒菩薩坐像を作っていた。その頃のアイドルは、光GENJIではなく、仏師の西村公朝さんという、まあ、そんな小学生、友達と話が合うわけがない。
中学時代は、古い洋楽を聴くのが好きになった。世にいうオールディーズ。ポールアンカ、ニールセダカ、プラターズ、カスケーズ。当然友達と話が合う訳がない。
高校時代は、古いJAZZを聴くのに夢中だった。ジャズメンの名前を100人以上暗記し、音を聴くだけで、誰が弾いているのかは勿論、いつの時代の録音で、どのレーベルのレコードであるかといった事まで、大体は分かるくらいになった。

一言でまとめるなら、
やり過ぎ
である。
そこそこでいける事が
おそらくは人のあるべき姿だとは思うんだけど、
脳みそのネジが取れちゃってるのか
やり過ぎてしまう。

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基礎練の鬼

年末年始は音階練習の鬼と化していましたが、最近手にしているのは例の小野アンナさんではなく、もっぱら玉木宏樹さんの方です。「革命的音階練習」っていうすごいインパクトのある名前のものですが、これはいい。
何がいいって、楽譜見なくていいから。
というのも、始まりの音がどの調でもGに統一してあるからでして、頭で考えながらシャープやらフラットやらをくっつけて弾いていけばよい。
拍をずらして弾く練習は、かなり濃密な体験で、例えば三連符の三つ目からスラーで弾くとか、上手くいくとカッコイイグルーブが生まれて、一旦その味を知ると、その快感を求めて延々とチャレンジしてしまう。
そんなゲームに似た中毒性のある音階練習本なのでした。
これはあと十年は楽しめる。

この音階練習は、楽譜上はファーストポジションだけで、勿論、もっと上の音まで上るのも自由ですが、僕はそれはややこしいからやってない。
だから、ポジション移動の事を特化してやりたいなあという気持ちがあって、ついに開けてしまいました。
セヴシックop8
これを、延々とやる。
おんなじのをしつこいくらいに。
ゆっくりやったり、楽譜どおりのスラーにしたり、調を変えてみたり。
これも、変な中毒症状がありますね。
集中力がもたなくなったら終了。
これ以上やると修行になっちゃいますからね。

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昔話

僕は今の実家のあるこの土地に、四歳で越してきた。当時まわりに住むのは昔からの人ばかり。
なにせ同級生のうち三人は、お互い割と近しい親戚同士という、田舎ではよくある事だ。
だから友達の家に遊びに行くと、その家のおばちゃんに「ああ、○○さんとこの隣に越してきた、会社員の子か」とよく言われた。
その言葉通りに、おばちゃんにとって僕は、○○さんの隣にきた家の子であり、農家でなく、その土地では比較的珍しい、会社員の家の子だったのだ。
僕の父親は岩手の山奥の生まれで、母は名古屋の街で育った。いわゆる「よそ者」ではあったが、当時その事で辛い思いをした記憶はない。
この土地の人は子どもも大人も大らかで寛容だった。当時はそんな事分かんなかったけれど。
近所に住む、声の大きなおばちゃんは、今でも顔を見ると声をかけてくれるし、こんな人付き合いの苦手な人間を気にかけてさえいてくれる。
そんな温かい場所に暮らしていながら、
それにもかかわらず、
幼い僕は、何処か馴染めない気持ちを残していた。
自分は他の子たちと、なぜ違うのだろうかという、ぼんやりとした気持ちが、幼少期の心に、いつしか密やかな居場所を築いていた。
今となっては笑い話だが、僕は小さい頃「みにくいアヒルの子」を愛読していた。何度も何度もしつこいくらいに読んでいた。あのキュッと締め付けられるような、甘えたい年頃の幼児が抱くあの感傷的な気分に酔いしれながら、夕焼けの西陽のあたる部屋で、一人本棚の前にうつむいて。


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アロマオイルと布団の中の昔話

正月に、妻と寄った雑貨屋で、
アロマオイルの福袋なるものを購入した。
3mlのエッセンシャルオイルの小瓶が、16種類入って3000円。
一本定価600円だから、かなりお得だ。

寝室のライトに使っていた、無印良品のディヒューザーに、久しぶりに水をはった。
薄明かりにティーツリーのアロマを焚き、冷たい布団にくるまる。
すうっとした空気で、3歳の娘はもう寝息をたてている。

ふいに6歳の息子が
「ねえ、おとうさん、むかしのはなししてよ。」
とつぶやく。
太宰治の「御伽草子」が僕の頭をよぎった。

「えーっと、昔々、ある所にね」
意を決して話し始めると
「ちがうって、おとうさんのむかしのはなしだよ。」
と言われた。

「あ、そっか。いつぐらいのはなしかな?」
「うーん、小2くらいの頃の。おとうさんの。」

恐がりの息子は、怖い夢を見るんじゃないかと、
心配でこんなふうに、何でもない話をせがむ。
声を聞いて安心したいのかもしれない。
僕もそうだった。
よくわかる。

「お父さんは、何でもいやなくらい覚えて困るほどだからさ、話が長くなっちゃうかもしれないよ。」などと恥ずかし紛れの軽口を言って、掛け布団の上に両腕を出し、薄暗い天井を見る。
それからゆっくりと息を吐き、その昔、自分が息子くらいの年頃だった時代を思い出すことにした。



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too much

物がいっぱいありすぎて
何が何だか、わからない。

物がありすぎて
自分の身体がわからなくなる。

物を認識できる器を超過して、
物がありすぎるんです。

空気のように、さらりと流しとけば
全然苦にならないけれど、
なんか変だぞと、
ちょっとでも気にしようものなら、
途端に息苦しくなる。

最初は新鮮だったはずが、
どんどん増えて、
いつしかパンパンに膨れ上がる。

一昔前なら、ネットサーフィン(もはや死語?)も心ときめきましたが、
今となっては、吐き気すらする始末。

このブログは、もうとっくの昔に、コミュニケーションツールの役割を放棄していますから、
単なる個人的な思考整理を目的とした道具になっています。つまり、目的は自分自身の心理的な安定だとも言える。滑稽な話ですが。読んでいる人なんているのでしょうか。
この日記も
臨界期をとうに越えて
読む人の胃もたれを呼び起こす、自分勝手な言葉の羅列となっています。
これって、ちょっとした
ごみ屋敷のような存在なのかもしれない。

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新年に

今年の正月は、例年に比べて暖かかった。
どんな一年になるのやら、全く予想がつかないし、何か将来の世の中に対しても希望が見出せない時代ではあるけれど、
庭の柵にとまったジョウビタキのオレンジ色の腹を眺めていたら、
所詮、人は自然の中の一部でしかないのだと新ためて感じる新春。

年末にラジオでフルトヴェングラーの録音を聴く番組がやっていて、
神社の年越し準備に向かう車中、
たまたま聴くことがあった。
すべてがモノラル録音。
そこに記録された音は、現在のデジタル録音の緻密さや、精密さは無いが、
その生々しさは、むしろ上に感じられた。
1950年代初頭のウィーンフィル。
彼らの奏でるベートーヴェンの7番の交響曲は、
その音符ひとつひとつから歌が溢れ出し、生きている人の息づかいすら感じ取れるようだ。
録音のせいかもしれないが、
やはり、時代のせいでもあるやもしれず。
音楽が豊かな時代は、
恐らく今ではないのだと、
密かに感じている。

感性というのは、時代の空気や水を基に育つ、例えば植物のようなものだとするならば、
電気信号の組み合わせによる周波数によって純化された音を、スピーカー越しに流される環境で育った僕らの感性は、
いくらシステムが複雑かつ正確になったところで、音楽の豊かさを感じる根本であるところの個々の感性は、退化しているのだと思えてくる。

酔っ払った夜中のダイニングで、夏目漱石の「こころ」をぱらぱらと読んでみる。
口語体の文章は、落語のような軽さの裏に、なんとも言えない味わいがある。
そこに描かれる人物の生命力。
その密度が、現代のそれとは格段に違う。
これは一体なんなんだろうかと思う。
医学の進歩なのか、食生活の豊かさなのか、はたまた都市化による衛生状態の向上のせいなのか、
人の寿命は我が国においては、当時に比べて格段の伸びを示している。あくまで統計上の話であるから、個体差があるのは確かだけれど。
ただ、思うのは、
密度という視点で見て、
単に時間的に長く生きることとは、そのこと自体と、人間を生き切ることは、別なように思えることがある。

問題は、
人類は進歩するものだという、
人間の安易な思い込みなんだろうと思う。
人類は進歩なんてしていない。
進歩しているなんて思い込んだら、
それは退化しているのだとすら思う。

一個の人間という視点で見たら、
人は結局、
200年生きるようには設計されてはいない。
その生涯において、対峙しなければならい問題は、各々違うけれど、
その各々にクローズアップして、個というものを基準に考えることを決心したら、
一千年前の人とだって、同じ時間を生きることが可能であるかもしれない。
歳をとるのは、その過程かもしれない。
人の老いと死という問題は、
人の人である宿命として、
時代を超えた共通の問題であるのだから。

また年末の事を思いだした。
京都、広隆寺の不空羂索観音像。
あの像の美しさは、格別だった。
あの像を刻んだ仏師の想いは、
遠く天平の時から末法の現代へ時を越えて伝播してきている。
それを肌身に、それこそ細胞の隅々にまで感じるような生々しさ。
あの不空羂索観音を観た後に眺めた、庭の椿。
僕らは、過去と未来の間に生き、
そして、それぞれの今を生きている。

こんなクソ長い日記を最後まで読む人なんていないかも知れない。
僕だったら読まない。
だから、まだ続きを書いてみようと思う。

クラシックのスコア。
あれは、ある意味文芸作品だと思う。
当時は今みたいに、気軽に音の鳴った状態で、何度も鑑賞できる環境ではないのだから、
あれは読み物なんだと考えた方が妥当だと思う。
それを読んでいた愛読者が、あれを音にしたいなあって、強く思った結果、オーケストラが沢山出来たって考えたら、それはそれで面白い。
つまり、楽譜は楽譜の時点で、既に完成された芸術作品であるということ。
これは、ビートルズではあり得ないこと。

夏目漱石の「こころ」で考えてみる。
これを映画にしようと思うとする。
しかし、どんだけ練って、
当代の名優が迫真の演技をしたにしろ、
万人を魅了する事は出来ない。
「こころ」のスコアから個々の感じる世界は千差万別。
それを万人が納得する形で映像化するこてなぞ、そもそも無理な話。

だから、ベートーヴェンの第九交響曲は、今でも色々な演奏がなされ、そして今も、沢山の録音がなされているのかもしれない。


下手くそながら、
今夜も懲りずに楽器を弾く。
音階練習を1時間、
セヴィシックのop.8をやって
クロイツェルで終わり。

楽器が音を出すだけで満足。
曲なんて弾かなくて音階練習だけで充分。
人様に聴かせるもんじゃないけれど、
でも、もし
文芸作品としてのスコアを、
音として今の空気に響かせる機会があるのなら、
その端くれとして、
ハンガリー産の相棒を鳴らしてみたい気にもなる。

今年は、それをやりたいと思う。
生きるというのは、
音を出す行為と捉えてみるのも面白い。
心臓の鼓動。
これはささやかなれど、
周囲数センチにこだまする、生きた証。

楽器もそう、歌もそう。
歩く足音がそうであるように。

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