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京都の不気味さ

三連休は、
家族で一泊二日の旅行に行きました。
新幹線で京都まで。

子ども達の楽しめる場所が中心の日程ですから、
例えば梅小路の鉄道博物館だとか、
その隣の水族館。
太秦の映画村とか。

僕はここ数年、特に賑やかな場所は疲れてしまうのですが、そんなこと関係なく、家族みんなで楽しい時間を過ごす事ができました。

最近知ったのですが、僕はどうやら、目にした風景を、詳しく覚えている部類の人間らしく、今もなんて事はない景色が頭をぐるぐると巡っている。
梅小路の公園の鳩の群れ、
雨上がりの虹の色。
岩に落ちて丸まったカエデの葉。
素っ気ない団子屋のおばちゃん。
朝の鴨川沿いのキリっとした空気。

京都はつくづく、不思議な街だと思う。
ここには色々な人が観光に訪れていて、ぐちゃぐちゃに入り乱れている。
その様は、小学生の頃に何度も聴いていたアルバート・ケテルビーの「ペルシャの市場にて」という曲を思い起こさせる。
実際、京都駅付近を歩くと、実に色々な言葉が聞こえてくる。
関西弁、中国語、スペイン語、ポルトガル語、たまに英語やフランス語。
金閣寺に向かうバス停には長蛇の列。

でも場所によっては、訪れる人の様子がかなり違う。
二日目に行った下鴨神社の森は、
実に静かで落ち着いていて、
とても気持ちが安らぐ空間でした。
自然のように見えて、
実は人によって丁寧に手入れされた空間。
小川のせせらぎや、岩に落ちる枯葉にすら、控え目ながら、人の意図を感じる。

何でもない事が、
ある時ゾクゾクっとするような事に繋がる妖しさ。
これが、人を京都というちっちゃな盆地に引き寄せるのでしょうね。

ある種の芸術は、
いや、もしかしたらそれこそメインストリームなのかもしれませんけど、
そういったものは、
鑑賞する側の在り方によって、得られるものが変わる事がある。

今は、大衆受けする事が価値を左右する世の中です。
ヒットするかしないかが、物事の価値になりかねない。

しかし、
本当に価値のあるものは、
もしかしたら、
受け手がある段階までいかないと、
良さがわかんないのかもしれない。

それが試される街が、
実は京都という街なのかもしれない。

つまり、京都を楽しくするのも、つまらなくするのも、
訪れる人次第であるという、
それが、この街に充満する、
不気味な素っ気なさの訳なのかもしれませんね。

まあ、なんだかんだ言って、
今回僕が一番興奮したのは、
太秦の帰りに寄った広隆寺の、
弥勒菩薩半跏思惟像の向かいにある、
不空羂索観音像を観た時でした。

勿論、弥勒菩薩半跏思惟像は
文句なしに美しい。
僕は小6の頃からこの像の虜です。

しかし、不空羂索観音は、
もしかしたら、それを凌駕してもおかしくないくらいに、奇跡的な美しさがある。
木造のこの像は、天平の作らしいのだけど、
プロポーションの完璧さは言うに及ばず、
合掌する手の平の絶妙な隙間だとか、
あと、衣のひだのうっとりするくらいの美しさだとか、
思わず5回くらい見直してしまいました。
館内は他にも素敵な仏像が沢山あるけれど、別格です。
半跏思惟像も確かに美しい、がしかし、不空羂索観音像の美しさも、同様に素晴らしい。
半跏思惟像は、国宝第一号ですから、
その美しさは、つまりはパブリックなものだと思うけれど、
不空羂索観音の美しさは、同様に国宝ながら、半跏思惟像に一歩譲るとされかねない。
でも、僕は今回、
半跏思惟像の美しさは認めつつも、
不空羂索観音の美しさに、むしろ心奪われた。
これは、受け手の問題。
そこにある不思議な出会い。

広隆寺は、手入れされた素敵な庭も見所です。

あるものは、ある。
あとは、あなたしだいやでえ。

そんな素っ気なさが、
ある時、妙なリアリティと共に
奇跡的な説得力を帯び出したら、
多分京都という街の魅力に巻き込まれてしまうのだろう。

その不思議の元は、
誰にも分からない。
だけれども、
それは千年以上の時を超えて、
確かにそこにあるらしい。



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