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ぼんやりの奥にあること

今年一年を振り返る。
また、そんな時期になりました。
訳もなく気持ちが落ちてゆく事の多い一年でしたから、
あまりこれといった印象はないのですが、
僕個人としては、
夏に山梨でブラームスの交響曲を弾けたのは、意味のある体験でした。
ホール脇から見える高い空が、思い出されます。

ここ数日、頭と首の境い目あたりが痛く、目の奥からの頭痛がひどい。
身体がひどくだるくて、少しの時間があったら横になりたいくらいなしんどさです。
頭ばかりがグルグルと、思考のサーフィンを繰り返しています。
不安が不安を呼び起こし、絶望と無力感に行き着く。

例えば街で車を見れば、
この車は鉄を使って作ってあるが、10年もすれば廃車になる。
そこから、鉄はその後どうなるのだろうか、という妄想が始まり、
地球には、鉄は決まった量しかないのに、こんな暮らしは、この先いつまで可能なんだろうかという思いに駆られ、
ほんの二百年前には、この国の人々が使っていた材料は、殆どが土に還るものばかりだった筈なのに、という思考に行き着く。
コンビニの駐車場に車を停め、
店内の沢山の商品の陳列された棚を見ては、そのプラスチックのきらめきに溜息をつく。まるで人類滅亡が数年後に迫っているかのような憂鬱な気分になる。
帰りに冬の空に縦横無尽に張り巡らされる電線を眺めては、
人は、この真っ黒い鉄の縄に、がんじがらめに縛られて生きているのだなあと、塞いだ気持ちになる。
そして、この電線の先にある物を思い、また憂鬱になる。

これらの思考は、
ほんの数分の出来事。
すべて無言の内に
頭の中だけでなされているから、
他人から見ると、ただぼんやりと不機嫌そうにしているとしか思えない。

考え過ぎだと、仰るかもしれない。
確かに自分自身、そう思う。
ただ、これが僕であり、
これが、僕がそれこそ物心ついた頃から今まで抱える、ある種の生きづらさの元だとも言える。
それは、歳を重ねて楽になるどころか、複雑に、そしてどうしようもなくなってきている。
しかし、もし、例えば鋭利な刃物かなんかで、これを綺麗に切り取って無くしてしまう事が可能だとしたら、僕はそれを望むだろうかと考えた時、
たぶん、そうはしないだろうと思う。
もし、それが無くなってしまったら、
僕は、もう僕ではないのかもしれないからだ。


そうこうしている間も、
僕の思考は数秒単位で飛躍し続け、
夜の真っ黒い海に、あてもない妄想サーフィンを続けている。

人から見ると、そんな僕は気の良いぼんやりとした人間に映ることもあるらしい。

来年も、そんな僕を抱えて、
生きていきたいと思います。

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