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2016年12月

ぼんやりの奥にあること

今年一年を振り返る。
また、そんな時期になりました。
訳もなく気持ちが落ちてゆく事の多い一年でしたから、
あまりこれといった印象はないのですが、
僕個人としては、
夏に山梨でブラームスの交響曲を弾けたのは、意味のある体験でした。
ホール脇から見える高い空が、思い出されます。

ここ数日、頭と首の境い目あたりが痛く、目の奥からの頭痛がひどい。
身体がひどくだるくて、少しの時間があったら横になりたいくらいなしんどさです。
頭ばかりがグルグルと、思考のサーフィンを繰り返しています。
不安が不安を呼び起こし、絶望と無力感に行き着く。

例えば街で車を見れば、
この車は鉄を使って作ってあるが、10年もすれば廃車になる。
そこから、鉄はその後どうなるのだろうか、という妄想が始まり、
地球には、鉄は決まった量しかないのに、こんな暮らしは、この先いつまで可能なんだろうかという思いに駆られ、
ほんの二百年前には、この国の人々が使っていた材料は、殆どが土に還るものばかりだった筈なのに、という思考に行き着く。
コンビニの駐車場に車を停め、
店内の沢山の商品の陳列された棚を見ては、そのプラスチックのきらめきに溜息をつく。まるで人類滅亡が数年後に迫っているかのような憂鬱な気分になる。
帰りに冬の空に縦横無尽に張り巡らされる電線を眺めては、
人は、この真っ黒い鉄の縄に、がんじがらめに縛られて生きているのだなあと、塞いだ気持ちになる。
そして、この電線の先にある物を思い、また憂鬱になる。

これらの思考は、
ほんの数分の出来事。
すべて無言の内に
頭の中だけでなされているから、
他人から見ると、ただぼんやりと不機嫌そうにしているとしか思えない。

考え過ぎだと、仰るかもしれない。
確かに自分自身、そう思う。
ただ、これが僕であり、
これが、僕がそれこそ物心ついた頃から今まで抱える、ある種の生きづらさの元だとも言える。
それは、歳を重ねて楽になるどころか、複雑に、そしてどうしようもなくなってきている。
しかし、もし、例えば鋭利な刃物かなんかで、これを綺麗に切り取って無くしてしまう事が可能だとしたら、僕はそれを望むだろうかと考えた時、
たぶん、そうはしないだろうと思う。
もし、それが無くなってしまったら、
僕は、もう僕ではないのかもしれないからだ。


そうこうしている間も、
僕の思考は数秒単位で飛躍し続け、
夜の真っ黒い海に、あてもない妄想サーフィンを続けている。

人から見ると、そんな僕は気の良いぼんやりとした人間に映ることもあるらしい。

来年も、そんな僕を抱えて、
生きていきたいと思います。

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目に見えぬものを見る努力

サン=テグジュペリの「星の王子様」の大切なメッセージに、

大切なものは、目に見えない

というのがあった。
これは結構深い問題です。
僕は最近その事ばかり考えている。

目に見える世界のみで、
物事を判断するのは、
理にかなっているようではあるけれど、
それが全てだとは、言い切れない。

大きく、深呼吸。
よくよく見つめてみよう。
耳を澄ませてみよう。
まっさらな心で感じ直してみよう。

すると、
騙し絵のように、
見えていた世界が、
全く違う姿をさらしだす。

それを、
自己に統合するのは、
大変な労力を必要とするけれど、
それをやらずにはおられまい。
死ぬまでやらずには、おられまい。

それが、もしかしたら、
人の愚かさであり、
人の人である本望ですらあるやもしれず。



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京都の不気味さ

三連休は、
家族で一泊二日の旅行に行きました。
新幹線で京都まで。

子ども達の楽しめる場所が中心の日程ですから、
例えば梅小路の鉄道博物館だとか、
その隣の水族館。
太秦の映画村とか。

僕はここ数年、特に賑やかな場所は疲れてしまうのですが、そんなこと関係なく、家族みんなで楽しい時間を過ごす事ができました。

最近知ったのですが、僕はどうやら、目にした風景を、詳しく覚えている部類の人間らしく、今もなんて事はない景色が頭をぐるぐると巡っている。
梅小路の公園の鳩の群れ、
雨上がりの虹の色。
岩に落ちて丸まったカエデの葉。
素っ気ない団子屋のおばちゃん。
朝の鴨川沿いのキリっとした空気。

京都はつくづく、不思議な街だと思う。
ここには色々な人が観光に訪れていて、ぐちゃぐちゃに入り乱れている。
その様は、小学生の頃に何度も聴いていたアルバート・ケテルビーの「ペルシャの市場にて」という曲を思い起こさせる。
実際、京都駅付近を歩くと、実に色々な言葉が聞こえてくる。
関西弁、中国語、スペイン語、ポルトガル語、たまに英語やフランス語。
金閣寺に向かうバス停には長蛇の列。

でも場所によっては、訪れる人の様子がかなり違う。
二日目に行った下鴨神社の森は、
実に静かで落ち着いていて、
とても気持ちが安らぐ空間でした。
自然のように見えて、
実は人によって丁寧に手入れされた空間。
小川のせせらぎや、岩に落ちる枯葉にすら、控え目ながら、人の意図を感じる。

何でもない事が、
ある時ゾクゾクっとするような事に繋がる妖しさ。
これが、人を京都というちっちゃな盆地に引き寄せるのでしょうね。

ある種の芸術は、
いや、もしかしたらそれこそメインストリームなのかもしれませんけど、
そういったものは、
鑑賞する側の在り方によって、得られるものが変わる事がある。

今は、大衆受けする事が価値を左右する世の中です。
ヒットするかしないかが、物事の価値になりかねない。

しかし、
本当に価値のあるものは、
もしかしたら、
受け手がある段階までいかないと、
良さがわかんないのかもしれない。

それが試される街が、
実は京都という街なのかもしれない。

つまり、京都を楽しくするのも、つまらなくするのも、
訪れる人次第であるという、
それが、この街に充満する、
不気味な素っ気なさの訳なのかもしれませんね。

まあ、なんだかんだ言って、
今回僕が一番興奮したのは、
太秦の帰りに寄った広隆寺の、
弥勒菩薩半跏思惟像の向かいにある、
不空羂索観音像を観た時でした。

勿論、弥勒菩薩半跏思惟像は
文句なしに美しい。
僕は小6の頃からこの像の虜です。

しかし、不空羂索観音は、
もしかしたら、それを凌駕してもおかしくないくらいに、奇跡的な美しさがある。
木造のこの像は、天平の作らしいのだけど、
プロポーションの完璧さは言うに及ばず、
合掌する手の平の絶妙な隙間だとか、
あと、衣のひだのうっとりするくらいの美しさだとか、
思わず5回くらい見直してしまいました。
館内は他にも素敵な仏像が沢山あるけれど、別格です。
半跏思惟像も確かに美しい、がしかし、不空羂索観音像の美しさも、同様に素晴らしい。
半跏思惟像は、国宝第一号ですから、
その美しさは、つまりはパブリックなものだと思うけれど、
不空羂索観音の美しさは、同様に国宝ながら、半跏思惟像に一歩譲るとされかねない。
でも、僕は今回、
半跏思惟像の美しさは認めつつも、
不空羂索観音の美しさに、むしろ心奪われた。
これは、受け手の問題。
そこにある不思議な出会い。

広隆寺は、手入れされた素敵な庭も見所です。

あるものは、ある。
あとは、あなたしだいやでえ。

そんな素っ気なさが、
ある時、妙なリアリティと共に
奇跡的な説得力を帯び出したら、
多分京都という街の魅力に巻き込まれてしまうのだろう。

その不思議の元は、
誰にも分からない。
だけれども、
それは千年以上の時を超えて、
確かにそこにあるらしい。



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荒井由実を聴きたくなる季節

いつも仕事帰り、
車で荒井由実の曲を聴いている。
「あの日にかえりたい」って曲の始め、
ドラムのンドンって音が
たまらなく気持ちよくて、何度も聴き返してしまいました。
前奏のコーラスも勿論良いんだけれど、
あの、ンドンってのが、
たまらない。

aikoの「カブトムシ」も、前奏のドラムの音がたまらない。
ビートルズみたいな音。

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ヴィレッジヴァンガードの日曜日へ

未だによく見る夢、
一つは、この場で今まで散々言ってますが、
大学の授業の単位を落とすか、落としそうで右往左往する夢。

もう一つは、オケの演奏会直前であたふたする夢。

先日は、演奏会当日に
遅刻してゲネに出られず、
おまけに楽器を家に忘れた夢でした。
絶対絶命。
夢の中でも過集中です。
しかも初見。

音楽の世界、
特にクラシックの世界は、
厳しい世界だなあと察します。
僕自身が生まれつき、なあなあな星の下に生まれた人間だからかもしれないけれど。

音程やリズムに
暗黙の規則があって、
それに合っているかそうでないかで、
物事が決まるような、
そんな厳格な一面があるような気にすらなる。

まわりのリズムに乗れなかったら、
その場で銃殺
みたいな。
そんなん言い過ぎだと思いますが。

でも、それには
音を出す事に対する、
聴衆の存在があるようにも思えるし、
音楽が集団で共有される際に宿命づけられた、
ある種の社会的な意味も感じられるのは確か。

出てくる音は、
人を素直に気持ちよくさせるのに、
何故か、それに能動的に関わろうとすると、
そこには、軍隊よろしき厳格な規律があって、
そこに自己をぴったりと当てはめる事こそが美であり、善であるとする場面があるのも確か。
勿論、それを達観した一握りの人だって探せばいるんだろうけど。

確かに、それは人類が
それこそギリシャの頃から培ってきた一つの知恵ではある。
しかし、知恵を利用するならまだしも、
知恵に自分を合わせる事に執着するのは本末転倒です。

知恵を使うために、
よくよく根本を学ぶか、
或いは知恵自体を無視するかしなくてはなりません。

ここまで書いて何ですが、
まあ、どうでもいい話です。


僕は、バイオリンって楽器を
学生オケで知って、
好きになった人間ですから、
どうしても、クラシック音楽のシステムの制約がある。
当たり前のこと。

これが例えばギターとかなら、バークリーメソッドとかの呪縛かもしれない。
まあ、それにしても、その理論は
西洋の文化の流れの中にある。

と同時に、明治以降の日本の、音楽教育の呪縛ってのもある。
これは実に根が深くて、
多分真剣に考えたら、精神を病んでしまうんだろうなと想像できる事柄。
これも、日本が西洋から持ち込んで移植した事。

それはさらに、学校教育と密接に絡み合っていて、
それはやはり明治以降の近代化の過程で日本が行なった強引な転換の後遺症なんだと、僕は勝手に考えています。
だから何だってことではないけれど。

哀しい哉、
そんなあれこれを、
空間を響かせる音楽は、
全く感じさせない。
音は音として、
ただ美しい。
不思議なものです。

その昔、ビルエヴァンスというジャズピアニストがいました。
ワルツフォーデビイというアルバムを
リヴァーサイドというレーベルから、60年代初頭にリリースしましたが、
かの名盤を録音しながら、
彼と盟友のベーシスト
スコットラファロは、
ギャラの事でもめていたという逸話があります。
演奏からは、そんな現実的なことは感じられない。
ただただ、奏でる音は美しいの一言です。

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セキレイの尾が揺れている

子供の時分、
僕は両親が喜ぶようなことがしたくって、
例えば居間で、何でもない時とかに
何気ない感じで、
「お母さん、今欲しいものとかある?」とか聞いてみたことが、幾度かあったけれども、
いつも煮え切らない返答しか返ってこなかった。
欲しいものが、特にないなんて、
幼い僕には想像できなかった。

今、その年齢になり
僕自身を省みるに、
結局同じだと感じる。

欲しいものが見つからないのだ。

別に満たされているわけではない。
満たされていない気持ちを埋め合わせるために、何が欲しいかが分からないのだ。
そこには、
ちょっとした諦めに似た、
あの遠くの山を見つめるような感覚が付随している。

新聞の広告を見ては呆れ。
テレビを観ては絶望し、
ネットを眺めて人の無力感にさいなまれる。

まだ、公園で尾を振るセキレイを眺めている方がマシな気にすらなる今日この頃。

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無性にジョンレノンを聴きたくなる季節

この季節になると、何故だか知らないけど
無性にジョンレノンの歌が聴きたくなる。

彼の命日が12月8日だからなのか、
或いは、この時期になると街の至る所でHappy Christmasが流れ出すからなのか。

give peace a chanceって、口ずさみながら今朝も出勤。

ジョンレノンの歌って、喪失感を埋めようともがいている感じがします。
やたら喉が乾くのです。

僕がジョンレノンをよく聴くようになったのは、
兄が亡くなってからでした。

本当に失ってしまったものは、
どんなに泣き叫んでも、
冷たい床でしだばたしても、
他人を責め立てても、
深夜に一人悩んで歩き回っても、

けして取り戻せない。

でも、取り戻そうと、もがくのが、
人の在り様でもあるのです。
それが生きるという事の一部だと知った時、

そこに歌が生まれる意味も分かったような気がしました。

Amazonは、僕が必要としてる商品を、
先回りして考えてくれているようで、
いろいろと紹介してくれるみたいだけれど、
自分が本当に必要とするものは何なのか。
それをちゃんと考えられなくなったら、
危ないのです。
Amazonさんに教えてもらってちゃ、
ダメなんです。
僕の事を、僕が見つめなくて、
誰が面倒見るんだ。

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一個のシミから宇宙にとんでく上昇気流のような妄想

クロイツェル41番をさらっています。
難しいけど、ものすごく面白い。
いい曲です。
技術的に難しいけど、
曲としてちゃんと弾こうとすると、もっと難しい。
重音の音は、楽譜の縦軸(同時間内の音の幅)に加えて、横軸(時間軸)の上での繋がりがあり、それが布を織る縦糸と横糸の役割を持っている。
頭がそれを認識し、左手の指が一本一本それを考え、適切な場所を探し、右手がそれを音として空間に投げ出す。
その作業をいかにして自然に行なえるようにしていくか。鏡の前で考える。
肩関節は肩甲骨に接し、鎖骨は肩関節ではなく、肩甲骨に接している。
右手に特化するならば、腕は尺骨側を支点として内転外転をする。
そんな解剖学的な認識は、楽器演奏をする上において、身体を楽にする道しるべになる。
力学的な作業としては、四つの弦が必要に応じた響きを得る手助けをする事と、弦に触れる弓の圧力を、どんな瞬間においても把握しコントロールできる事。
それができた時に、楽器は自然に響きだし、物質が生き物の温かさを得る事ができる。
僕の身体は、骨や筋肉、血管など物質としての質量を持っている。
それを生かすためにどのように使い切るか。

そうした試行錯誤の末に楽器そのものが物質の冷たさから生き物の温かさを身につけた瞬間、
楽器が音楽を語り出す。
それは鎖骨や右手の例えば薬指とかを通じて、僕にささやかな振動を与え、
それは脳に優しくて実体のある充実した感覚を与える。
それが幸せな時間であり、
僕が楽器を弾くことに執着する理由の一つなのかもしれない。
その時世界は、こんな僕にさえYESと言い、僕はまわりの空間と一体になった気分にさえなる。
もちろん、そうなれるのは、稀なことだけれども、
その事を知ってしまったら、
もうやめれません。
そんな気分になれる楽器に出会えたことを、感謝したい。
それはバイオリンでなく、ギターだったかもしれない。
或いは、ホルンだったかもしれない。
サインワインだったかもしれない。
サインワインって知ってますか?
東南アジアの楽器です。
歌は、自分自身と密着し過ぎているけれど、
楽器は、少し離れている。
その距離感が心地良い。
心と身体と物。あと空気、空間。
音の波は広がり、
遠く遠くへ響いてゆく。

音楽は、自然科学と密接に関わっている。特に数学、物理学と近い。
これは直感的な感覚で話していることですが、
ものをどう分けるか、分けたものをどう組み合わせるか。
そこに文明の理知があります。
神の作業を、人が再現しようと試みることは
神の意志を知ろうとする、人の止むことなき欲望であり、
神の意志を知れば、神に近づけるという人の業が、科学を生み出し、哲学を生み出し、そして音楽も生み出した。
なんて、なんの根拠もない思いつきですけど、
僕はそんな御多分に洩れず、
人類の端くれとして、
今夜も楽器に夢中になっています。
これをすると誰かが助かるとか、
金儲けになるとか、
そんなこととは無縁の営み。

僕は楽器を弾くのが大好きです。

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欲しいものをお預けにしといてさ

ある年齢になれば、
あなたが一番幸せだった頃は?という質問に対して、過去のある時期を思い描くのは自然な成り行きかもしれない。
人によってそれは、青年期の一場面であったり、幼少期の一時期だったりもする。
禅の世界では、人としてのピークを五歳だとする文献すらあるそうですが、
そんなんをひっくるめて、
全部知った上で、
今が一番幸せだって、
意気がってのたまうことが、
つまりは、粋なんじゃないだろうかと、
そう思うのは、やはり歳をとったからでしょうか。


にしても、
年々世の中は生きづらくなり、
新聞を噛むように流れてゆく味気ない時間は、もはや僕の力の及ぶ範囲を越えて、
ただただ一個の生命体であるところの、自らの死に向かって流れてゆくばかり。

テレビは既に、町の看板と同等の情報しか提供できなくなりつつある。
ネットを検索したところで、
本当に知りたい情報なんて見つからない。
今は書籍すらそんな状態。
敢えて言うなら
今の時代、
こんなにも、
情報過多な筈が
本当に欲しいものは、
何一つ手に入らない。

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