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2016年10月

ボブディランという言葉

何のため。
誰のため。

人生の落とし穴。

そんな目で、いつもの光景を眺める事を始めると、
人は、ほんの少しだけ、
皮肉屋になる。
そして、世の中を生きづらくなる。
だから皮肉は、
ほどほどに。

エジソンについて考える。

エジソンは、
変わり者だったけれど、
電球や蓄音機を作って、
沢山の人の役に立ったから、
偉人になった。
でも、役に立たなければ、
ただの変わり者。

変わり者は、世間の役に立つかどうかで、その変わり者の存在価値が変わるのか。

いつだって
忘れない
エジソンは
偉い人
そんなの常識

誰にとっての偉い人か。
誰にとっての常識なんだろうか。

多分、エジソン自身は
偉くなくても、
愛すべき人だったんだと思う。
知りたい事を、思いのままに貪るように探求する行為に
ある種野生的な執着でもっていそしみ、
ちょっとしたウィットとともに、
何か新しい物を生み出すことを喜びとしていただけなんだけれど、
その愛すべき人柄ではなく、
成し得た功績に注目するもんだから、
おかしな事になる。
僕は勝手にそう思う。


人に自分のやってきた事を讃えられるのは、嬉しいこと。
幸せなことだと言ってもいいのかもしれない。

だって、自分の思いを沢山の人と共有できるのは、
孤独を本来的に宿命づけられた人間にとっては、ある種大きな報酬なのだから。

穴掘り
そう、穴掘りと一緒。

掘って掘って、
それこそ地球の反対側まで
一人で掘っていったら、
みんなに繋がったといった類のこと。

でも、
掘って掘って、
地球の反対側までいったら、
誰もいなかったって事もある。

でも、掘らずにはいられない人も
いるんです。
だったら、掘るしかない。
それは、孤独な決断。
それを、勇気付けるのが、
先人の生きた軌跡であるならば、
伝記は確かに、よい読み物なのかもしれません。

かれこれ、20年も前の話だけれど
大学の保健管理センターにカウンセリングに通っていた時期がありました。
そこのカウンセラーの先生が、
僕にとっては初めての恩師だと思うのですが、
その先生が、伝記を読むことをよく勧めていたのを思い出します。
秋深く、
甲府の11月は、山の色が本当に鮮やかで
ぞくぞくするほど、空気が澄んで
太陽が温かかった。
愛宕山という山の遊歩道を、
カサコソと落ち葉を踏みしめながら、
一人で黙々と歩く。
そのダッフルコートの背中に感じる陽光の温もり。

蝉は地中に何年も
孤独な時を食べている
その濃厚な時間
孤独は植物の根のように、
地中で静かに、養分を蓄える。

あの頃僕は、
駅前のレコード屋で、
あるCDを買った。
ボブディランの「追憶のハイウェイ61」
下宿で窓を開け放し、
曲を流しながら歌詞カードを見るが、
内容はよくわからない。
ただ、妙な清々しさがあった。
最後に収録してある
「廃墟の街」って曲を気に入って
何度も何度も聴いた。
時に床に寝転がって、
時に酔っ払って、
またある時は、カセットコンロでトマトの水煮缶を煮込みながら。
ハーモニカの音が、高い空に吸い込まれていく様子が、
何だか殺伐とした、あの頃の心地よい寂しさと相まって、気持ちよかったんだろうなあと、今になって思う。
フィリップモリスのスーパーライトを、
ぷかあっとふかしながら、
別に何かするでもなしにね。
ぼーっと居心地の悪いような、
何ともいえない不安定な気持ちを眺めながら。



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あの人の音は、今どんな風に、空気を震わせているのだろうか

昔一緒に弾いてた、
あの人の音は
今どんなかなあ。

って、夜中にぼんやりと思ったりする事もある。

この時点で、
今の世じゃ変人扱いされかねないですが、
人は多面体な生き物。
見る向き、光の角度、あと相手の心持ちによって、いろんな色形に見えるものです。

とにかく僕は、時に思う。

あの人は今、
どんな音で奏でているんだろうかと。

楽器の楽しいところは、
その音は、扱う人によって千差万別だということ。
テクニックではなく、その人の体型、口の形、骨密度?、それから腕の長さだとか、乳児期に獲得したレベルでの動きのスタイル、体温、肌質、幼少期に受けた環境の刺激、思春期に自ら養ったであろう価値観、言語、時代性、歴史、
出てくる音を、音程やリズムで判読する事はシステム上は必要かもしれないが、
音を味わい、頭ではなく心から楽しむには、音程リズムの他の、莫大な量の情報に対して、耳とソウルを開く必要があるというふうに思うのです。
勿論、それは僕の個人的な感情ですが。

バイオリンもそう、
クラリネットもそう。
ティンパニだって、トランペットだって、
ホルンもファゴットも、
チェロもコントラバスも。

顔を思い出すと、
楽器を弾く様子が目に浮かび、
そして、音が聴こえてくる。
上手い下手なんてどうでもいい。
それは、スーツにネクタイを締めるだとか、
髭は剃るか整えるかした方が良いだとか、
そんな類のこと。
アフリカのサバンナの草原で、
まんまな自分を音にする時は
別にいいでしょ。
上手くなくても、音は音。
そこに堪らない魅力があると僕は、
今でも懲りずに思っていたりします。

だから、昔聴いた誰かの音が、
今も何処かで鳴っている事を願っていますし、
その事を、ささやかながら心の支えにしている時も、たまにはあります。
自分の音も、昔に比べて大分と変わりました。変わらないものもあるんだろうけれど、それは自分ではわかりません。

あの人の音は、
今どう変わったんだろう、
変わらずにあるものもあるだろうか。

音には感触があります。
僕はそう感じているんだけど。

例えば、肌の感触。
体温。湿度。

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クロイツェルとドミナント弦の話

クロイツェルは40番にとりかかり、
残すところあと3曲。
まあ、そんな事いいながら
42番までたどり着けたら、
また2番に戻るんですけどね。
一通りさらって、見知っておけば、
読譜の負担が減るから、
ストレスなく基礎を磨けます。
だから、クロイツェルな日々は、
この先も終わりません。

楽器の調整をした時に
弦をドミナントとゴールドブラカットに張り替えたんですが、
いろいろ弦があるけれど、
結局ドミナントが一番いい弦なのかなあと思いました。
お互いの弦がよく響きあい、
キラキラとした、
清潔な音がします。
張りたてのシャリシャリは、相変わらず苦手だけど、
張りが安定した頃のドミナントは、
本当に気持ちがいいです。
勿論ヴィオリーノもいいけどね。
されど、ドミナント
結局のところ、
王道なのかもしれません。

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青空

子供のころ、
僕は母が話す、彼女が若かりし頃のエピソードを聞くことが好きだった。
そして、12になる頃には、
いつか作家になって、
母の話す昔話を活字に編み上げようという、この年頃の少年にありがちな幻想を抱いたりもした。
母は、多分その道に進めば、かなりな才能を発揮したであろう、ストーリーテリングの名手であった。
昔飼っていた鼠色の猫の話、
友達の親が任侠道の方で、家に秘密の抜け道があった話、
クリニックで医療事務のバイトをしていた時の話、
それから若い頃に、趣味で社交ダンスをしていた頃の話。
この社交ダンスの話が、僕に音楽の楽しさを教え、楽器を弾かせ、CDを買い集めさせることになるなんて、
当の本人は知る由もない。

母は父が夜勤でいない夜とかに、
僕や、今は亡き兄の手を握り、
ワルツやら、フォックストロットやら、あとタンゴ、ルンバを踊った。

僕は、今も社交ダンスは踊らない。
だけど、母と過ごした頃の、
そんな何気ない事が
自分と音楽を結びつけるきっかけになっていることを、
僕は、ほんの少しだけ、
誇りに思っている。

自分の子供は、
音楽を好きになってくれるだろうか。
それは、本人たちが決めることなんだけれど。



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2009年6月9日

アマオケにいた頃は、
個人的にリハの音を録音することをしていました。
もちろん、練習のため
という意味もあったけれど、
今、このメンバーで鳴らす
この時でないと生まれない音を、
記録に残したいというのも、
その当時、意識してたかどうかわかりませんが、
あったのかもしれない。
音程が悪かろうが、タテがズレていようが、致命的なミスがあろうが、
そこで、その時間に鳴っていた音を、
パッケージしたかった。
これは僕の、生まれ持った業のようなもの。
大体このブログだって、
そんな業のたまものだとも、いえなくもないのですから。

2009年6月9日

僕はその夜、
東郷町民会館という場所にいた。
らしい。

日にちは当然忘れちゃったけど、
その時の事は、よく憶えている。

その古いホールで、
本番を控えてプログラム全曲を通したのですが、
確か反響板を下ろさずに演奏したんじゃないでしょうか。
そんな記憶があります。

当時僕は、結婚したてで、
この日演奏している魔弾の射手とかは、
新婚旅行に向かうフィンランド航空の機内で、スコアリーディングしていました。シンコペーションがやっかいだなあとか思いながらね。それが前の年の末のこと。

この時のプログラムは、その魔弾の射手とシューベルトの未完成交響曲
メインはベートーヴェンの7番の交響曲でした。
僕は前二つの曲で、コンマスをしていました。今思えば、一番やらせてはいけない人にコンマスやらせてたんだと思いますが、当時の僕はまだ若くて、気持ちだけでやっていた。何にも知らないで。幸せな時代です。

その日の音源を、
録音できたことを、
僕は、一人
ひっそりと、
幸せに感じている。

何故って、
そこに残された音が、
奇跡的に美しかったから。

ミスは当然ある。
一般的には、けして鑑賞に耐えうるような音源ではないかもしれない。
だけど、この日の未完成は
かなりヤバい。
これは、今聴いても同様に感じること。

上手い下手じゃない。
多分そんな次元ではなく、
そこには、生きた音楽がある。

残念ながら、指揮者の先生の指導は記録されていませんが、出ている音は、本当に繊細、大切に大切に、手のひらに乗せた柔らかな羽毛のひな鳥を、木枯らしから守り、包み込むように温める。そんな慈しむような音が聴こえてくる。

その場で、音を出せたことは、
僕の一生の宝物です。
今、そこまで僕は没入できるかどうか。
多分無理でしょう。
あまりに今の世の中は、
こういったことに無頓着過ぎます。









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秋の入口

この連休は、夏の名残りから本格的な秋への移り変わりを意識する三日間でしたが、
お住まいの地域におかれましては、
如何だったでしょうか。

地元の公園を、
一人歩く時間を、
持つことができました。
ありがたいことです。
昔は、そんなの当たり前にある事でした。

歩くという行為には、
自浄作用がある。
僕も過去に一度や二度、
もやもやしたままに、
この公園を一人歩き回った事があります。
抱えきれないほどの、ある種の感情は、
こんなふうに、歩いて歩いて、
発散するしか無いようです。

今の僕は、
別に思い当たるような感情はないけれど、
ただ、木々の合間をすり抜ける午後の日差しや、
池の水面に反射する陽光を浴びる行為に、
ちょっとした癒しを感じることは、恐らく確かなようです。
首の後ろにうっすらと汗をかきながら。
歩いて歩いて、
耳を開いて、
ぼんやりと眺める。







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音楽を想う

楽器の練習は、
肉体的な訓練の側面が強い傾向があるけれど、
最近、頭の訓練の要素が重要な気がしてきました。
脳の指令を指なり腕なりに有効に伝えるには訓練を要するけれど、
その脳の指令、
つまり
どんな音を出したいかという事が、
よく吟味されていないのならば、
出てくる音は、いつまでも悲しいばかりで、
音に意思を持たせるためには、
理論的な説得力が必要で、
これは、楽器を持たなくてもできる事なんだと思う。
技術的には稚拙であれ、
例えば、言わなければならない音があるならば、
出てくる音には、意志の魔法が宿るけれど、
大元のその意志が不用意であったり、
そもそも無いに等しいならば、
例えちゃんと音が出ていても、
悲しい響きになるばかり。
生きた音を紡ぐには、
音を出す前の準備が必要なんです。
実際に音を出しながら探るのも一つの方法ですが、
音を出さなくても、この練習は可能かもしれない。
音には、その総てが出てしまう。
これはかなり恐ろしい事ではあるけれど、
音を出す前にあるものを、
豊かにする練習は、
音楽を愛好する者として、
嗜むことが必要なのかもしれない。
あるレベルの技巧が、それに自ら気づかせるきっかけになるかもしれない。
でも、必ずしも、道はそれだけとは限らない。
ハーモニーを意識すると、
音程はフレキシブルなつながりになる。
リズムの多面性を意識すると、
音楽が時間の中で踊りだす。
身体で感じたものを、
音にするために、
楽器の技巧は頼りになる。
自由に動けるための
基礎練習。
だから、とりあえず
音階練習と、
エチュード。
そしてボウイング。
それだけで、汗だく。

同じ場所を行ったり来たりしながら行う営みをダンスとするなら、
1が2になり、また1に戻りという繰り返しから、
螺旋状に上昇するうねりを生み出すために、
僕たちは何をしなくてはいけないのか。

音楽って、奥が深い。
科学的だけれど、
プリミティブでもある。
そこが魅力でもあります。

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抽象的なつぶやき

自己は、
個別のものであると同時に、
大きなものの一部であるという事。

この一見相反する事実に気付き、
それを自己の中で、
できるだけ納得できるように、
統合してゆく過程が、
一人の人間が生きるということの、
大きなテーマであるのかもしれません。

何をいきなりと仰るのも当然。
きっかけすらない、
ただの思いつきです。

されど思いつきだって馬鹿にできない。
大事な事は、
降ってきたような思いつきから始まる事を、
僕は経験で、何となく知っている。

孫悟空が、お釈迦様の手の平で転がされるように、
人は、その大きな存在に呑み込まれてゆく運命を背負いながらも、
しかし、自分であろうとすること。
そのしかしってのが、人の強さなのかもしれず。

自分を掘ってゆくと、
出口の先はとてつもなく広くて、
つまりは一人は全部につながるのだと、
薄っすらと感じることすらある。

そして、もう一度
よく見てみる。

よく見てみると、
世界が少しだけ違う姿に見えている事すらある。

折り畳まれた脳の中に蓄積された
莫大な量の風景たち。
その集積された情報から、
何だかわかんないものが生まれてくる。

むくむくと膨らむ
夏に見た入道雲。

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