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桜、アレクサンダーテクニーク、教養、台形の面積



満開の桜に、春の嵐。
今年は花も早くに散りそうです。
世の中は、一つの価値観で進む訳ではないのは、別に改めて言うようなことじゃないけれど、
社会的な常識という正体不明の怪物に、
身も心も翻弄されるのは、
何も新社会人に限ったことではない。
これもまた、改めて言うような話ではない。
例の怪物の姿を目に明らかにするのに有効な手段の一つとして、
目的を掘ってゆくというのがあります。
何かの事象には、それが起こるに必然たる目的がある。
目の前の事をじーっと見て、それを感じ取れる人は偉大ですが、
大抵それでは事足りない。
何せこの時間に生きているというのは、その世界にどっぷりと浸かりきっている訳で、そこからちょっと抜け出す工夫が要るのです。
みんなが当たり前と言って疑う気さえ持たない事に、何だか違和感がある。
それを感じたら、黙って掘ってゆく。
すると、思っても見ないような次元に行き着く事がある。
掘って掘って、また掘って。
過去を探る。
同時間帯の他を想う。
世界は、縦と横の広がりがある。
一本通った芯のようなものが見えてくる。それが目的。
そいつをつかめれば、ぱっと開けてくる。
最近ちょっと興奮を覚えた本がありました。
「音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク入門」ペドロ・デ・アルカンタラ著、小野ひとみ監訳、今田匡彦訳 春秋社2009

アレクサンダーテクニークは、以前から知ってはいましたが、訳の問題なのか、ちょっと難解で、よく分からなかったのですが、この理念は、東洋で言うところの「禅」に近いような気がします。
日本でいうところの、臨床動作法や静的弛緩誘導法といった1970年代起源の障がい者への心理学的アプローチや、それ以前からある合気道をはじめとした武道とも通じるところがある。
身体と心とを別に捉えているのが、西洋的な分析という科学ですが(かなり乱暴な一括りですが)、東洋では、身体と心はひとまとまりであるというのは、思想的にはデフォルトで、その様式は何の疑いもなく東洋人に血肉化している。
今の医療というのは、西洋的なものの影響が強いというか、全てですから、
問題の部位をクローズアップして、分けて分けて見てゆく。
でも、違う見方もあるんですよね。
多分どっちも大事だし、どっちも真実だと思う。
けれど、行き詰まった先に見えるのは、地球の反対側に昔からあったものだったというのは、
ある意味感動的でもあります。
グローバル化とか言っても、
そんな意味でグローバルになるなんて、
そうそうできるもんじゃない。
突き詰めて突き詰めて、何世代もかかって、うわあって、頭ん中こんがらがって煮詰まって、そうしたら霧の先に新大陸を発見したくらいのもんです。
厄介なのは、その価値は、ある状況までいかないと分からないということ。
だから、僕たちは自他の発展のためにも、お互いの文化を大切にしなくてはならないのです。

これが目的。

洋の東西なんて話じゃなく、
一個人同士でもそう。
庭の草、
地面の蟻、
これに対しても同様に。
広く広くつながる気づき。
これが、教養。
これが、学び。
台形の面積の公式なんて、
どうだっていい?
なんて言ったら怒られちゃうかも。

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