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未完成

僕は、オケが好きだけれども
実は普段そんなにクラシックは聴いてはいなくて、
むしろ古いジャズやボサノバだとか、あとソウルミュージックに心の安らぎを得る人間ですが、
僕にとってクラシックは、演奏体験を伴った記憶のタグであり、
日常的なものというよりは、ある種の集団無意識というか、
うまい表現が見つかりませんが、
何か日常とは別カテゴリーのもののような気がします。
いや、むしろそれが日常だった時期もあるにはありますが、
自分の中では、ある特別な空間で、ある特別な仲間と同じ時間なり体験を共有するツールという捉え方をしていたのかもしれません。
僕のこれまで出会ったオケ仲間の中には、普段はハードロックを聴いている人もいれば、逆に普段からクラシックばかり聴いている人もいましたが、
どんな背景のある人とでも、
どんな考え方をしている人とでも、
同じ時間なり、空間なりを共有し、
それぞれに感じるものは違うけれども、
体験を共有できる場として、
オーケストラというのは非常にうまくできた組織だとは思います。
エルシステマみたいに、それを上手に活用して
青少年の犯罪を激減させた例もありますが、
やはり、オーケストラの魅力は
個々のパートに、必要な役割が与えられ、
それがないと成り立たない中で、
いかに全体として一つの物を生み出していくか。
個人と全体とがリアルタイムで関連付けられ、
結果は全体の音に集約されるシステムは、
一時期流行ったマネージメントのドラッガー氏が着目したように、
非営利組織のモチベーションにも結びつけられるものだと思います。
アマオケでよく取り上げられるような曲を作曲した、ヨーロッパの偉大な作曲家たちは、
例えば第九におけるベートーベンはさておき、
きっと、音楽を構成する音のパーツとして、それぞれの楽器たちを扱っていたのかもしれませんが、
今を生きるいち一般人たる僕らは、
偉大な作品達を共通言語として
同じ体験を共有するために活用している面も
あるのかもしれませんね。
ここ数年、音楽というものの捉え方が大きく変わってきていると言われて久しいですが、
たとえCDが無くなっても、
ポピュラーミュージックのクリエイターがプロフェッショナルたる地位を保てなくなっても、
表現者と聴衆という役割分担が崩壊しても、
きっと、自ら音を出して他の人とある時間なり体験なりを共有する原初的な営みは、
根源的な意味を持ち続けるのではないかと、
僕は今の所そう思っています。
過去の人間と、現代の人間は
恐らく根本的には何も違いはない。
そりゃそうです。
細かいことは抜きにして、
人が人であるところの根本は
やはり人であるわけですから、
人は人であるわけです。
何も今を生きる人が過去の人より勝っているわけでも、
今より過去の人の方が優れているわけでもない訳です。
昔の人が残した、その人の生きた痕跡を見る時には、その事を意識する必要があります。
確かに、それぞれ環境の違いはありますが、
なあに、デバイスは一緒なんですよ。
それがあるから、今を生きる自分と
過去を生きた誰かが、同じ土俵で話ができる。
それは、同じ人間だから。

僕は、さっき普段あまりクラシックは聴かないって言いましたが、
でも、オーケストラ体験として好きな曲はいくつもあります。
一番好きなのは、シューベルトの未完成。
これは本当に美しい曲だと思います。
モーツァルトほど人間離れしてないけれど、
シューベルトの人間臭さと
それから人間離れした美しさとが、
奇跡的なバランスで何とか形を保っている。
ベートーベンみたいな強固な説得力はないけれど、
ある意味の危うさから来る、
永遠に完成しない美しさが、
毎日を生きる人の感覚の何処かを
そっと刺激するんだと思います。
そこには、今を生きる僕が入り込む隙間がちゃんとあって、
それがハマるときっとすごいものが生まれるかもしれない。
でも、隙間が広いから、
いろんな色ができてしまう。
それが魅力でもあり、難しいところでもあるかもしれません。
でも、未完成、
いい曲ですね。
完成しない美しさ。
これはある種東洋的な美しさかもしれないなあ。




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