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二十億光年のかなたに

先日、祖父の17回忌がありました。
息子くんと、お寺に行ってお坊さんがお経をあげるのを聞いて、お墓にお参りして帰りました。
お坊さんは、お経の後でいつものことですが、やれ寺の建物が立派になっただとか、本山に詣でるツアーの宣伝だとか、僕のような凡人には全くもってその話の裏にある徳の高い真意がわからない難しい話の中に、唯一心に引っかかった話がありまして、
それは、人が亡くなったあとの供養は十年に二回。七と三の年にあるということと、これが五十回忌で終わるということでした。
五十という数でふと脳裏に浮かんだのは、織田信長が本能寺で吟じたという人生五十年というフレーズ。
人生が五十年と捉えた場合、生きた年月と同じ時間、死者としての時間があるということなのかと、ふと思ったのです。
或いは、五十迄生きなかった場合には、五十年という人生の時間、生きていたなら共有していたであろう時間を、供養という事で共有するという意味もあるのかもしれないと思ったのでした。
人には、生きている状態と、同じくらいの密度でもし死んでいる状態があるのだとするならば、
その生と死を超えた所に、きっと五十年を過ぎると至ってしまうのかもしれませんね。
まるで、探査機ボイジャーが太陽系を離れて遠い宇宙の果てに行ってしまうみたいに、僕の記憶に今もある、あの日本酒の匂いをまとったお祖父ちゃんも、五十回忌過ぎたら行ってしまうのかもしれませんね。
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