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感動する準備

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昨日あんなに感動した例の悲愴音源でしたが、
今朝もう一度聴いてみたら、昨日ほど心は震えず。

こういうこと、結構あります。
朝の耳と、夜の耳は違うのです。
客観的なのは朝の方。
だけど、あまり感動はしない。
つまり、冷静すぎるのです。
一方夜の耳は、感情的。
タイミングが合えば、思わぬ感動が得られます。
まあ、それは言ってみればお酒に酔って音楽に溺れるのに似て、自分の脳内で合成された世界とブレンドしてのものなんでしょうけど、
ここで思うのは、音楽の感動は、その音が如何に美しくそこに生まれたとしても、受け手がそれを受け付ける態勢になければ、つまりは心に届かないという仮説です。
確かに。
例えば、美味しい料理の美味しいの背後には、食べている場所の雰囲気や、誰と食べるかだとか、もっと徹底するならば、その食事にいたるまでの時間の過ごし方にもよる訳で、
そう考えると、ある種の感動は、受け手の役割というのも多分にあって、そう考えると、例えば音楽一つ聴くにしても、それはその人の生きるという創造的営みの一部であるという気がするわけです。
感動は、感動する準備が無意識に整った時に、運良く起爆剤としてある作品なりに出会うことで生まれるとするならば、
何かを感じられる準備として、これは比喩ですけど、丁寧に息をしなくてはいけないなあと思うのです。
そんな今夜は、
十月だというのに何だか暑い。
もう秋だと思ってたのに、身体はいったいどっちにチャンネルを合わせればよいものか。

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ぼんやり日記」カテゴリの記事

コメント

私も毎日を丁寧に生きたいです。

投稿: みほこ | 2013年10月 5日 (土) 00:09

コメントありがとうございます☆

投稿: tkm | 2013年10月 5日 (土) 08:53

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